第15話

 危なかった。実に危なかった。今世紀最大のやばさだった。

 どうやら幻獣の本を探し当てた綾姫は、そこに挟まれていたしおりのようなものを見付けたらしい。そこに書いていたのが、例の『名を放て』の呪文だったようだ。名を放つ。意味が分からない。だがそれは俺達を強制的に人間化させる呪文だったようで、結局銀はその姿を晒し、俺は危ない所まで追い詰められたらしかった。


 しかし銀を見たら次は俺も、って辺り、綾姫は好奇心旺盛だ。これからは家の中でも隠れられる場所に常にいなければなるまい。思いながら俺はポストの方に向かった。手紙が届いている。先日よりはちょっと多いな、と思うと、どうやら連名のものもあるようだった。きゅっきゅーと鳴きながら綾姫に渡すと、おや、と言った顔になる。


「先日の肝試し連中、疲労回復が異様に早くなったようで、またくれと言って来たよ。私の代になってからは初めての常連さんになるかもしれないな」


 それはそれで複雑だった。薬湯作り、クリーム作り、貼り薬作り、塗り薬作り。それから自分達の食事。クリームは樹液をトロトロになるまで煮込んで陶器の瓶に入れた。これは三つ。貼り薬は湿布状、塗り薬は瓶に、薬湯はまた大量の注文があったので巨釜で二日以上かかった。

 ふうっとやっと市の準備が終わったのは前日になってからで、木はまだ樹液を採取し続けている。次の為だ。今回は注文のあった三つしか持って行かないが、評判が良ければこちらも量産していく予定らしい。冬が近づいて乾燥して来たから、ご婦人や子供には乾燥防止で売れるだろう。勿論、老婦人にも。


「今日は早く休もうか。最近は晩くまで起きていたからな、明日の労力も考えるとさっさと眠ってしまった方が良い。ほら、銀もおいで? 寒いだろう、そんな所では」


 人間の姿を見られてから恥じらって風呂もベッドも別にしている銀である。俺も多分、見られたらああなるだろうなあ。思うと他人事ではなかったので、綾姫の枕元に居られる今を享受するばかりだ。きゅっきゅーと頑なにドアの前の門番状態から動こうとしない銀である。

 名を放つ。強制的な変身魔法。綾姫は俺の方にも興味があったようだが、銀が遺言だと言っていたことからか、それ以上追求せず、ふわもふの言語辞書を眠気と戦いながら読むようになった。ばーちゃんが端っこの方に隠してあったものだが、その古さが目立って見付けられてしまったらしい。


 俺達同士の会話なら、まあ、聞かれても困ることはない。俺の恋心は銀に相談したことのないものだし、日常会話で卑猥な単語が飛び交うと言う事も無い。強いて言えばうてなが危ないと言う事を伝えられるぐらいだから、その辺は分かってもらえると嬉しいかも知れなかった。

 うてなも俺達の言葉は解るが、何を言われても自業自得なのでこちらは気にしていない。朱の言葉を綾姫が分かってくれたら良いのだが、そもそも朱はうてなにテイムされているから助けを求めるようなことは出来ないし、出会うことが無いだろう。森には滅多に出ないのだし。


 それにしても綾姫は銀の姿にまるで驚いていなかったが、俺達ふわもふが変幻するものだとは知っていたのだろうか。すよすよと眠りこけている綾姫の顔をじっと見ながら、俺は考える。独自の言葉があるのだから、独自の体質もあると踏んだのかもしれない。

 ふわもふは幻獣と言うだけあって、個体数は多い方じゃないと聞いている。森には結構いたが、最近はみんなご無沙汰だ。朱の二の舞を、恐れているんだろう。俺や銀はばーちゃんに拾われた身だ。銀も獣の罠にかかっているのを助けられたらしいと聞いている。


 その罠を仕掛けたのが先代の狩人だと思うと、なんとも複雑なものだ。ふすふすと寝息を立てている銀と綾姫。俺はこの二人の間でどう立ち回れば良いんだろう。ばれてしまったが故に傍にいられなくなった銀。出て行くことはしないが、綾姫と間には距離が出来てしまった。ばーちゃんはこうなることを予想していたのかもしれない。銀は真面目な奴だから、もしかしたら離れることを選ぶのかもしれないと。俺はまあ、乱暴者な所があるしなあ。主にうてなにだが。

 ふわもふがふわもふなだけでないと、知られてしまった。人の姿になれることを、知られてしまった。それはまずいだろう。しかも両方とも雄。綾姫を守るには足りるが、制約はある。三分しか変身できない。どこのヒーローだ、そいつは。どこのでも良い、現状を打破してくれ。


 二人で三分ずつ。不埒者がやって来ても結界で弾かれる。それを突破してくる奴がいたら、俺達だって魔法で応戦する。綾姫を傷付けないために。ばーちゃんみたいなことにならないように。


 でも違う考え方をすれば、前の狩人がいたからこそ旦那が生まれ、奥さんに会い、綾姫が生まれたのだ。功罪と言えば功罪。犯罪と言えば犯罪。それでもばーちゃんは魘されていた。俺達ふわもふ二人掛かりでも押さえられない程、衰弱していた。身体に良いものばかりで生活していたはずなのに、ぽっくりと、とある夜に息を止めてしまった。

 それが綾姫に起きない出来事だとは言い切れない。綾姫だって女だし、男なんて父親以外知らなかった。父親も知っていると言うには程遠く、『男』と『女』と言う種類の人間がいることぐらいしか知らなかっただろう。


 綾姫が本当に『男』を知るには、ちょっと早い。せめて二十歳は超えてからにして欲しい。だがうてながそれまで待つとは考えられないし、そもそも貞操を狙って火を点けた時点で俺達としてはあいつを趣味に入れて欲しくない。結界があるとしても、それを乗り越える知識を得られてしまったら。

 やっぱり俺も魔法の勉強しておいた方が良いのかなあ。銀も一緒に。恥じらうことを知ってしまった。恥を知ってしまった。それは俺達綾姫を守るふわもふとしては厄介だ。もうただのふわもふだとは思ってもらえない。癒し系の幻獣だとは思ってもらえない。


 いっそ人間になんかなれない方が良かったのだろうか。否、それは違う。でなきゃ最初の時、綾姫を連れて行かれていただろう。ただのふわもふではいられない。でもふわもふであることを捨てたくもない。我が侭な事だが、俺はそう思ってしまっている。

 綾姫だけに見えなければ良いと言えばそうだが、銀に目隠しさせて敵――この場合は強姦未遂二件のうてなだ――から逃げるには、三分という時間は短い。だからこそふわもふで鍛えているのだが、幻獣が人間になる瞬間を見られたらまた街で噂になるかもしれない。


 まったく厄介な奴だよ、うてな。お前に捧げられた知識がこれ以上悪いものではなければ良いと思ってしまっている。知識に善悪や正邪はないが、それでももしもの時を考えなければならないのが俺達だ。綾姫の幻獣だ。テイムされていないからこその友情と愛情がある。

 それは誰にも奪われたくない。俺達の関係を、これ以上乱さないで欲しい。いざとなったらの薬があるだけに、それは切実だった。いざとなったら頼ってしまいそうな薬。人間になるための薬。でも俺はそれに手を付けたくない。銀を見て動じなかった綾姫の事だ、多分俺の人型にも動じないだろう。ただしそれが常に家に居る異物になると解ってしまったら?


 ここには居られない。

 そんなのは嫌だ。

 俺はただのふわもふでいたいんだ。

 いざと言う時だけ人の姿になれる、便利な存在でいたいんだ。

 こうして自然にベッドに居られる者でありたいんだ、まだ。

 愛しているからこそ、知られたくない。

 意識されたくない。

 このままの関係で良い。

 良い、のに。


 うてなの奴の所為だ。俺はそう結論付けて、綾姫の毛布に潜り込む。そうして目を閉じれば、今日も良く働いたので、すぅっと眠りに入って行けた。明日は大荷物だ、英気を養っておかないと。冬も近い、缶詰なんかも買って来なきゃならないだろう。帰りも行きも大荷物。でも俺はそれが苦じゃない。苦になんて思ったことも無い。

 あいつがまた近付いて来なければ良いな、と思いながら、俺はふすふす息を漏らした。

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