第3話

 雨がしとしとと降っている日は、薬の作り貯めに向いていた。森では取れないものは市場で買って来てあるし、いつも薬草はストックを作っている。干しておいたそれを乳鉢で擦り交ぜ、時折味見をしてはスパイスを変える。

 そんな綾姫の横でうとうとしているのが幸せだ。薬草や薬湯の匂いにはばーちゃんの時代から慣れているので、気持ちが良い。ばーちゃんに拾われたのはいつだっけ。もう五十年は前になる。


 森で狩人に追われていた時だった。幻獣は知能も高く膂力もあるから高く売れる。助けて、助けてと泣いていた俺を、そうっと木の股から救い上げてくれた手。肩にはもう銀が乗っていて、ちょっと威嚇されたけれど、俺が怪我をしているのに気付いてすぐにばーちゃんに――当時はご婦人に――教えてくれたんだったと思う。

 ばーちゃんは俺達の言葉も解ったから、一時避難所として俺を自分の家に連れて行ってくれた。手当てをされて膝の上に乗せられ、竈の前でぽんぽんと撫でられていると、ほわほわ温かくなっていつの間にか眠ってしまって。気持ちの良い目覚めと共に、渡されたのはおかゆだった。はぐはぐ一身に食べてみると、身体が温まって、それからもう森には戻りたくなくなっていた。ここにいたい、と告げると、良いとも、とご婦人は言ってくれた。その代わり、ちょっとした労働はしてもらうからね、とぱっちん悪戯気なウィンクをして見せて。


 それが銀だけでは足りなくなっていた市での荷物持ちだった。まだその頃は薬草なんかを運ぶのがやっとだったから、本当、俺には膂力が着いたのだと思う。ふわふわもふもふだって中はぎっちりなのだ。筋肉でみっしりなのだ。銀は大して気にしたそぶりはなかったが、俺としては銀に対抗心を持っていたこともある。いつか追い出されないように、こいつより優位に立っておかなければと、躍起になって力仕事をした。薪割りだって出来るのだ、この身体で。

 でも一番はやっぱり、ご婦人のの枕元で安心を提供することだった。昔よっぽど怖い目に遭ったのか、彼女はよく魘されることが多かった。それをもふもふパワーで安心に変えるのが、俺と銀の役目だった。彼女が死んだのもその所為だ。いつものように悪夢に魘されていた中で、心臓がぽっくりと動かなくなった。若い時は大丈夫でも、歳をとると身体に堪える蓄積されたものが破裂してしまったのだろう。彼女が何にそんなに怯えていたのかは、ついぞ語られることはなかった。


「なあ銀」

「何、蒼」

「ばーちゃんはなんであんなに魘されてたんだ?」


 ことこと薬湯の匂いがする。煮詰めて皮袋に分け入れて売りに行くのだ。粉薬は油紙に包んで。あんな不謹慎な連中の為に、それでもばーちゃんは頑張って薬を作っていた。塗り薬、飲み薬、貼り薬。こんなのはないか、と問われると知識総動員にして作ってやった。そうやって看板になった薬も多い。互恵関係だったと思う。だけどばーちゃんは嫌われていた。何故だろう。

 綾姫の両親が死ぬ前からだ。医者要らずの街にしたのが悪かったのだろうか。でも子供はよく、ありがとうと言ってくれた。今だって街全体に無視されている訳じゃない。ばーちゃんの代からのお客も多く、効果は認められている。それでも一部には無視される。そんなおかしなこと、あって堪るもんか。都合の良い時だけ頼って使い捨てにされる。綾姫もそうなるのだろうか。そんなのは御免だ。綾姫は幸せにならなくちゃならない。俺達が幸せに、しなくちゃならない。


 もしも他の人間が綾姫を幸せにしてくれたら、それはそれで上々だ。だがうてな、あいつはどこか信用できない。街中でライフルぶっぱなす奴なんて、信用は出来ない。それだけ自分の腕に自信があったのだろうか。あーたん。うーたん。ええい、やかましい。俺達の姫に気安く呼び掛けるんじゃねえ。

 うと、としていた銀がちょっと沈黙してから、ぽつりと呟いた。


「襲われたんだ。おばあさまは」

「襲われた?」

「そうして生まれた子供が、姫様の父親だ」


 襲われる。

 そう言う意味。

 身体がぞっとする。


「相手は前の狩人でね。こんな原っぱの小屋の中、戸締りなんてしていなかったものだから、あっさり入って来られた。僕も止めたけれど、三分じゃとても足りなくて、腕力で片付けられた。おばあさまはずっと泣いていたよ。助けて、助けてって。だから僕達が傍にいると安心できたんだと思う。それでも弱った心臓には悪い夢で――」

「あの時はそれじゃ、間に合わなかったって事か」

「うん」

「心の傷、ってやつか。俺達にも癒しきれない」

「そうさ。僕達なんて精々傍でふわもこしてるだけの、弱い存在だからね。幻獣なんて言われても、屈強な男一人に勝てない弱い存在でしかなかった。だから蒼と一緒に暮らすことになった時は、正直ほっとしたよ。これなら守れるかも知れないって」

「役に立たなくて悪かったな」

「そんなことないよ。おばあさまはいつも僕達に救われているって言っていた。市への買い出しも、薪割りも、柴刈りも。だから穏やかに暮らしていけた。いつのまにか狩人もいなくなって、最後の数年は大分安定していたんだよ。だけどやっぱり、夢を見てしまった。それほどまでに、彼女にとっては恐ろしい体験だった」


 なるほど、だから部屋には閂錠と南京錠が付けられているわけだ。窓も最低限、閉じられた箱のような作りにしたわけだ。子供や孫が同じ目に遭わないように。だからばーさんは綾姫を街と遠ざけて暮らしていたんだろう。綾姫が初めて市に出た日も、奇異の目で見られていた。嫁さんの事は聞いていたけれど、子供なんていつの間に、って所だったんだろう。嫁さんも良い人だった。少なくともメシは不味くなかった。いつも俺達にもふもふして、幸せそうにしていた。勿論俺達も嫁さんが好きだった。

 森の中に迷い込んだ少女。見付けたのは旦那。運命だったんだろうかと思うぐらい、二人は自然に惹かれ合って結婚して、子供も生まれた。その直後の死は、ばーちゃんの傷んだ心臓にとどめを刺したのかもしれない。


 不意に浮かび上がるのはうてなの顔。あいつも綾姫に何をしに来たのか、眠っているのを覗き込んでいた。俺が反応しなかったら、無邪気に悪戯を仕掛けて来たかもしれない。

 邪気には反応できるが、無邪気にそれは出来なかった。銀はそうだった。人の無邪気は時に邪気より強い。悪いと思っていないってことだ。だからこそ警戒心が働かなくて、不用意に近付かせてしまう。何の感慨もなく人を撃ったうてな。他人がどうなっても良かったからこその行動であるともいえる。ただ綾姫の信頼を勝ち取るようにしていたのかも。街はどうでも良くても綾姫はどうでも良くなかった。覗き込んでいた顔を、俺は見ていない。笑っていた? 怪訝そうにしていた? それももう、分からない。


 どっちにしろ、雨が止んだら周りに結界を張っておこう。そう言うことが出来るのが幻獣の良い所だ。隠したいものは隠せる。今はそう。俺達こそ魔女、もとい魔法使いにカテゴライズされるべきものだろう。綾姫は何も出来ない。ばーちゃんのレシピで薬を作っては売り、日銭を稼ぐばかりの日々。楽しみは家の中にある書物を順番に、何度も読むこと。あとは日向ぼっこ。なんて慎ましい生活。

 それでも魔女は呼ばわれなくてはならないのか。ちょっと特殊な薬を作っているだけだ。実害も無い、効果は抜群の薬。だからこそ畏れられるのか? でも、だったら積極的に受け入れてしまった方が良いのとは違うのだろうか。そうして街に愛着を持たせて、ずぶずぶにしてしまえば、良いのではないだろうか。


 もっとも今更そんなことは通じないよな。俺は溜息を吐いて、乳鉢で薬を擦り合わせながら鼻歌を歌っている綾姫を見た。ちょっとだけその長い髪がばーちゃんに被って見えて、懐かしくて、眠ってしまう。銀もぷすぷすと寝息を立てていた。

 玄関をノックする音が響いたのは、その時だった。


「はぁい?」

「やあ、あーたん」


 やってきたのは、合羽に身を包んだうてなだった。

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