第19話

「恋?」


 きょとんっとした声で綾姫が繰り返すのに、うてなはそう! と鼻息を荒くして答えた。銀は事の推移を窺うつもりのようで動かない。俺はと言えば、机の陰から二人を見上げているばかりだ。恋。恋を知らない魔女。それはばーちゃんだってそうだった。無理やりに孕まされた魔女は、自分の子供への愛情はあっても、その父親への愛情はなかった。恋は、していなかった。


 だが綾姫の父と母はその環境の中でも愛や恋を知り、やがて綾姫が生まれた。しかし二人は早くに亡くなったので、綾姫はやっぱり愛し合う二人と言うものの片鱗すら知らなかった。知っていたのは家族愛。分かっていたのはそれだけ。ばーちゃんや俺達と暮らす中で憶えたのはそれだけだった。

 恋を知らない魔女。恋愛小説でもあればまだ良かったのだろうが、この家に娯楽小説はない。観劇趣味も無ければ、人形で遊ぶ趣味もなかった。いつも俺達が遊んでいた。その俺達が人型になると男だと言うのだって、知ったのは最近だ。


 関係が動き始めたのはうてなという『男』が近所に引っ越して来てから。あからさまな異物が入って来てから。俺は自分の『男』を自覚しないわけにはいかなくなっていたし、同時に綾姫の『女』も思い知らなければならなくなった。

 それでも一緒に風呂に入ることが出来たりしていたのだから、やっぱり自覚は足りなかったのだろう。その辺りは銀も一緒だ。銀は恥を知り、綾姫から一時遠ざかったが、結局ふわもふであることを選び、その隣に立つことを選んだ。


 俺はどっちにも決めかねているから、こうして今も物陰から二人を覗いているだけだ。俺は綾姫の『男』になりたいのか、ふわもふのままでいたいのか。どっちも同じぐらいで天秤は下がらない。傾かない。都合の良い事を言っていると思う。だけど、やっぱりいまだに答えは出ないのだ。綾姫の為のふわもふでありたい。だけど俺の思いをちゃんと、恋していることを知って欲しい。ふわもふの身体でも、人型でも、もしかしたら俺は綾姫に恥じらって欲しいのかもしれない。


 恥じらって欲しい。一緒に風呂に入ることも眠ることも、恥ずかしがって欲しい。意識されたい。でも離れたいとは思わない。別れたい訳じゃない。ただ、俺が男であることもちゃんと知って欲しい。俺は、お前に恋する男なのだと、知って欲しい。そんな素っ頓狂な声を出さないで。子供のように、この恋をぽいと捨ててしまわないで。

 そんな生半可なつもりで愛してきたわけじゃない。相手の気持ちがどうでも良いと投げやりに愛してきたわけじゃない。だけどもう人型は見せたくない。どうせ叶わないなんて思ってきたわけじゃない。だけど、だけど。


 頭の中が混乱する。綾姫と愛し合いたい、と言う明確な目標が立ち上がってしまう。でもそれにはこのふわもふの身体は不利が過ぎる。性別さえ意識してもらえない。人型になったって結局は同じだ。家族と延長線以上には思ってもらえない。そうだ。そう思っていた。

 だけどうてなの言う通り、俺は恋されたい。恥じらわれたい。意識されたい。触れてみたい。ふわもふで出来ない事も、してみたい。


「恋って、なんだ?」


 綾姫の口から零れるのは絶望的な言葉だ。綾姫は恋を知らない。美人だし長い髪だって綺麗だけど、街では女として見られて来なかった。魔女だった。綾姫の立場はそれ一つだった。森の魔女。薬売り。それが綾姫。誰も綾姫に惚れた腫れたの騒ぎなんて、起こしたことがない。うてなだけだ。それすら追い払って来たのが自分だけど。自分の首を絞めていたのかもしれない、もしかしたら。


 ふーっと息を吐いたうてなは、不意に綾姫を抱き寄せる。


 そうして奪ったのは口唇だ。


 俺は人型になるのを我慢して、そのみぞおちに突貫する。


 何を。してくれてんだ。こいつは。


「げほっ、あー青いの君、僕が君に出来るのってここまでだからね。あとは好き勝手やって行くよ。敵に塩は送りたくない性質なんだけど、それでもあんまりに君と僕はイーヴンじゃない。これでスタート地点。オーケー?」


 シャアっと威嚇すると、朱の入った籠を庇う様に持って、うてなは去っていく。綾姫の口唇を奪った事なんて何でもなかったかのように。きょとんっとしていた綾姫は、自分の口唇に触れる。触れるだけのキスだった。恋人には届かないキスだった。それでも、ファーストキスをむざむざと奪われたことに俺は腹を立てていた。嫉妬していた。いっそ綾姫すらも憎らしいぐらいに、ふーっ、ふーっと息を荒げてドアの閂を掛けていた。そんな元気にぴょんぴょん跳びまわるのは久しぶりだった。特に綾姫の前では。


 振り向くと綾姫は顔を真っ赤にしていた。

 それが気に入らなくて、俺は綾姫の胸に突撃する。

 柔らかいそこにぐりぐりと頭を押し付けて、匂いつけのようにした。

 綾姫は、あ、と両手で俺を身体から離してじっと見つめて来る。


「お前の愛してるも、ああいうもの?」


 こくん、と頷く。


「その……私にはよく分からないから、明日街の図書館で調べて来ても良いか?」


 辞書ならこの家にもあるが、多分恋愛小説でも借りるんだろう。ティーン向けのちょっと幼いものでも。しかし官能小説はまだ早いと思うので、そこは俺も一緒に行って検閲したいと思う。森から出るのについて行くのは、吝かではない。綾姫を快く思う人間も出て来た。例の肝試し隊やら、新しい常連やら。

 それから服を買うのも誘ってみたい。いつも魔法使いの印のローブに粗末な木綿のワンピースだから、おしゃれだって覚えて欲しい。そうしたらもっともっと綺麗になる。でも綺麗なのは家の中だけで良いと思っているのが俺だ。外に今更綾姫の美貌を喧伝することになるのは嫌だ。

 魔女の印であるローブを被っていればいい。実際綾姫の顔を知ってるのなんて、常連のじーさんばーさんぐらいだ。そして彼らはそれをなんとも思っていない。昔からばーちゃんと市に付いて来ていたのを知っているからだ。その延長線上の綾姫のことは、大して特別に思っていない。


 それにしても恋を調べに図書館に向かう魔女とか、何なんだよなあ。うてなの言った事は正しい。俺は綾姫に恋されたい。恋人になろうと言ったうてなの言葉も、本当は良く解っていなかったのが分かる。そして俺の好きだという言葉も。何も通じていなかったから、確かに今がイーヴンでスタートだ。スタートダッシュで出遅れているが。キスするとか。恋愛小説なら最後にすることじゃないのか、それって。


 久し振りにふてぶてしく座って綾姫のスープを飲む。俺が変に急いで隠れないのにほっとしたらしい綾姫は、薄く微笑んで俺を見ていた。目が合うと、えへ、と笑われる。それにどっきゅーんと来たのがばれないように、スプーンで顔を隠す。やれやれと言った様子で、しかし家の中の不和が解決する気配に息を吐くのが銀だ。悪かったな、居心地悪かったろう、この三日間。朱もいるし俺は出て来ないしで。


 さて、綾姫には有名どころの純愛小説を勧めてみるか。ばーちゃんもよく読んでた奴だ。ばーちゃん本は持ってなかったけれど図書館には足繫く通っていたから。薬作り、子守り、料理、洗濯、掃除、そして暇つぶしの読書。辞書は読まなかったが、小説は読んでいた。何の本、と訊くと、皆が幸せになる本よ、と言っていた。

 みんな幸せに暮らしましたとさ、で終わる本がばーちゃんは大好きだった。多分綾姫の趣味も同じだろう。現実は厳しいけれど、物語の中でぐらい幸せでいたい。まずは知っているべき感情を掻き立てて貰おう。そうしたらふわもふのまま、俺はまた綾姫に告白しようか。そこでさっきまでのように赤面してくれたら万々歳だ。


 ふわもふでも、意識されたい。人型でも、意識されたい。切っ掛けは何でも良いけれど、とにかく俺は綾姫に意識されたいんだ。うてなのキスは、眠りの森の姫を起こした。だけど姫は起きただけだ。まだ何にも分かっていない。ああ、悔しいな。俺がさっさと奪っておくべきだった。勿論ふわもふの姿で。突然家族が『異性』だと認識するのは、しんどいだろうから。

 もっともふわもふでは性を認識されないがな。だからいっぱいいっぱい奪っておくべきだった。舐めたりしておくべきだった。うてなの野郎。よくも綾姫の純潔を。貞操はしっかり守らないと。綾姫が俺かうてなを選ぶまでは。大穴は銀だが。


 綾姫が恋を知って愛を知ってくれたら良いな。よく分からないと投げ出してしまわなければ良い。ふわもふ言語を初めて勉強した十年前のように。家中の本を読んでいても辞書は流石に読まないのが、綾姫だった。まあ、当然と言えば当然か。

 その当然を知りに、綾姫は街に出る。俺のお勧めを読みに行く。うてなに会わなきゃ良いな。思いながら、朱の心配もしながらすぞぞぞぞぞっとスープを飲む俺だった。

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