第28話

「青いの君青いの君」

「あー?」


 月の出の良い夜だった。結界の端でぼんやり空を見上げるロマンチシズムが俺にあったって良いだろう。ひょっこりけもの道から出て来たのはうてなだった。また夜行性の狩りがどうとかやってるんだろうか、その割に朱は連れていない。にこにこ笑って、あの貼り付けたような笑みで、言ったのだ。奴は。


「『蒼』君」


 真名を呼ばれてぎょっとする。すぐに家に逃げ帰って置けばよかったのだが、それには一歩遅かった。


「『名を放て』」

「なッ……」


 ぽきゅんっと音を立てて人型になった俺は、それでも逃げられなかった。身体の作りが違うのだ、すぐに振り向いてダッシュなんて出来るはずがないだろう。纏められた青く長い髪。いつからか変わらなくなった、姿。昔はもっと小さかったのだ。時間だって一分ぐらいしか持たなかった。

 くっくっくと笑ううてなを睨みつけると、おーこわやこわやといつかのようにおどけられる。


「あの暴漢達が来た時に、白いの君も綾姫ちゃんも呼んでたからねえ、君のこと。僕だって単純なテイムしか使えない訳じゃないんだよ。積み上げられた知識は全部入っている。勿論、君みたいなふわもふの幻獣を操る手立てだってね」

「お前ッ……」

「さてと、最近綾姫ちゃんが公衆の面前での君とのキスを嫌がるようになって来たから、そろそろ頃合いだと思ってね。君には悪者になって貰うよ」

「何をッ」

「『蒼、綾姫を犯せ』」


 とんでもねーことを言って森に消えていく奴に逆らえず、俺はぽきゅんっとふわもふに戻っていつもの小さな窓から部屋に入る。それからまた人型になれば、すぅすぅと平和に眠りこけている綾姫がいた。犯せ。多分綾姫を傷付けて、そこに付け込むつもりだろう。真名を知られていたのは気付かなかった、失態だった。あの時銀は俺を呼んだのに。綾姫は俺を呼んだのに。気付きもしないで、こんなことに。


 ぜーぜーと息を荒げながら、俺は綾姫の身体を跨ぐようにする。すると銀が気付いて、俺の姿に驚いた。


「蒼、どうした!? 何をしてる!?」

「うてなに……名を奪われた、綾姫を、犯せって」

「待て、そんなことしたらお前、ここにはいられないだろう! お前自身が許せなくなって、出て行ってしまうだろう! とにかくベッドからどいて、」

「出来たら苦労しねえんだよ!」


 思わず怒鳴ると、綾姫も目を覚ました。ぅん、と長い髪はおさげにしてぼんやりしている。


「『蒼』?」


 真名を呼ばれて、僅かに身体の硬直が解かれる。新しく命令してくれ。上書きしてくれ。でないと俺は、俺はお前を。望んでいたことではあったけれど、望まれていなかったことをしてしまう。それは駄目だ。俺は、俺は。

 布団から伸ばされる手。少し開けたワンピースの襟ぐり。そこからは胸元が見えた。劣情を自覚する。分かっていなかったのは俺の方じゃないのか? 結局一緒に風呂に入ってしまえる、自分の方がよっぽど自覚が足りなかったんじゃないか?


 蒼、と銀が呼ぶ。ふわもふもとい幻獣同士では真名は意味をなさない。じゃあどうすれば良い。胸元のふくらみ。俺は。


 俺はベッドサイドからペーパーナイフを取る。

 そして、自分の手に突き刺した。

 一時的な痛みで、身体がぽきゅんっとまたふわもふに戻る。


「蒼!? 一体どうした、何があった!?」

「姫様、それより蒼に何か命令をしてください! うてなに名を奪われたそうなのです、上書きをッ」

「蒼、蒼――『自分を傷付けるな』!」


 犯せ、犯せ、犯せ。す、っとやっとうてなの言葉が耳元にリフレインしていたのが止まる。自分を傷付けるな。血に染まったシーツは早く洗ってしまわなければならないだろう。そこで『私を傷付けるな』って言えない所が綾姫らしくて良いよなあ。ふへ、とふわもふのまま笑いながら、俺は小さな身体からの失血にくらくらしながらぽすんっとベッドに落ちる。

 ちょうど三分経った頃だったのだろうか。うてなは俺から、綾姫の敵になって欲しかったんだろう。だがそれはばーちゃんのまじないによって防がれた。ばーちゃん、ありがとう。俺に綾姫を守らせてくれて。ありがとう。


 月も見えない小さな窓に向けて、俺はへらっと笑った。

 俺は朱より年を食ってるからな。そう簡単にやられっぱなしではいねーんだよ、うてな。

 今頃は綾姫と結婚している夢でも見ているのだろううてなに、俺はべーっと舌を出した。


 次に目を覚ましたのは、翌朝だった。シーツを通り越してマットレスまで広がってしまった俺の血に申し訳なく思っていると、救急箱を傍らに傷を探す綾姫。だが見付からないだろう、俺が刺したのは手の甲だ。胴体をいつまでもころころされても、どうもならない。それに傷だって深いものじゃないから、もう血は止まっていた。ふわもふは頑丈なのだ、明日には治っているだろう。朱は胴体だったから、運の悪かった、と言ったところで。

 銀にぽきゅんぽきゅん乗られて跳ねられ怒られる。だが俺の真名を奪われた経緯を話すと、綾姫も銀も黙ってくれた。俺の所為じゃねー。一人で黄昏てたのが悪かったとは言え、全責任が俺にある訳じゃねー。


「あいつが証言者だとしたら、現場を見られていたのも同義だ。その中で迂闊に呼んでしまったのだな。ごめんよ、蒼」


 それなら、と俺は銀を振り落としてマットレスの上でぴょんぴょん跳ねて見せる。


「俺に、新しい名前を付けてくれ」

「新しい名前?」

「新しい真名を、付けてくれ。まだ奪われていない名前を」

「うーん……」


 責任重大だな、と綾姫は呟き、うんうん唸っている。青の身体で蒼は安直すぎるので、銀ぐらいに捻って欲しい。白いのに銀。銀色ではないのに。俺はわくわくしながら、綾姫の答えを待つ。


あい……でどうだろう。青よりお前の色に近い」

「っきゅー?」

「お前の眼の色に、近い」


 くふっと俺を撫でて、綾姫は微笑んだ。


 自分の目の色なんて知らなかったが、そんな色をしているのか。色百貨を取り出した綾姫が、この色だよ、と指してくれる。俺の毛の色を濃くしたようだった。俺は気に入り、きゅっと胸を張る。


「私の為に頑張ってくれたのだものな。銀から訊いたぞ、うてなのこと。そこまでする奴だとは思っていなかったが、案外腹の黒いやつだったらしい。それに今朝方狩人小屋の方を見たら、随分すすが出ていたぞ。おそらく朱が堪忍袋の緒を切られたんだろう。森の動物どころか幻獣仲間にまでそんなことをさせようとしたのだから」

「どんなことだ?」


 敢えて聞く今生の悪い俺である。

 綾姫は顔を真っ赤にして、恥じらってくれている。

 俺に、ふわもふに。そんな顔を見せてくれている。

 ああ、最高の気分だな! うてな、残念にもお前ではなく、綾姫は俺を選んだ!


「だからその、夫婦がするような」

「きゅっきゅー?」

「意地が悪いぞ、藍 !」


 また銀に乗られてぴょんぴょん跳ねられる。痛い痛い。まあ頭は頑丈だから、大したダメージではないが。手だってマッチを擦れるぐらいにはもう傷が塞がっている。きゅっきゅーと鳴いて、俺達は薬草園へと向かう。その時、結界の外から声が聞こえた。綾姫ちゃーん。

 うてなのそれに、全員の眉間に皴が寄る。

 仕方なく薬草畑の近くに身体を出すと、あれーと声を出された。


「随分元気そうだねー? 昨日何か乙女心を傷付けられることってなかったー?」

「生憎とうちの幻獣は私に従順だからな、何もなかったぞ。お前こそ煤だらけだな、うてな?」

「朱ちゃん怒らせちゃってねー。この辺に来てない?」

「いないぞ」

「そっかー。居ないと居ないで、一人で牛乳飲んでるのは寂しいなあ」

「もう生まれたのか。子牛」

「うん、昨晩ね。出て帰ったら牛が産気づいててびっくりした」

「では精々、その牛の一族を自分の家族と思うが良いな」


 ぴり、とした殺気に、俺は綾姫の前に出る。ハッと鼻で笑われた。守っているつもりかとでも言うような。実際思っているんだろう。ふわもふの分際で何が出来るかと。だが俺達はただのふわもふではない。幻獣だ。人の言葉が分かるし荷物持ちだってできる、キスだって出来るふわもふだ。


 だから俺はぽきゅんっと人型になる。驚いたのは綾姫だ。その口唇にキスをする。ちょっと斜めに、舌を入れて、搦めて。足元で銀がきゅいきゅい鳴いていたが、そんなことは知った事じゃない。


「この通り綾姫は無事だ。残念だったな、うてな!」

「蒼君大胆過ぎない!? 恥じらいを持とうよ!」

「それは綾姫が持ってくれたから、俺は要らねーんだよ!」


 べえっと舌を出して、俺はうてなの方を睨む。ちぇっと言ってうてなは森に下がる。

 そして俺は結界ぎりぎりの所に潜んでいた朱を手に乗せ、綾姫の元へと走った。途中で時間が来てしまうが、朱ぐらい担いで行ける。


「綾姫、朱にも新しい真名を付け直してやってくれないか?」

「えっ良いの!? でもそんなことしたらあの人一人になっちゃう……」

「名前に反応しなくなるだけだ。戻りたきゃ戻れば良い。まあいざとなったら結界の端に来い。お前も綾姫を彩る、色糸にしてやる」

「偉そうに」


 くすくすくすっと綾姫は笑う。


「そうだな、くれないでどうかな。お前の赤い毛並みには、合っていると思う」

「くれない。白いの君も呼んでくれる?」

「否、そうしたら折角名前を変えた意味が無いだろう。紅色の、と呼ぼうかな」

「そっかあ……紅色って口唇のことだよね。ちょっと照れるのかも」

「そ、そうか」


 ほう、銀にも恥じらう相手がいるのか。くひひっと笑うと、珍しくシャアっと銀から威嚇を受ける。照れるな照れるな。子供が生まれたら銀朱だな。その色は知っている。

 さあ、と綾姫は洗ったシーツを干して、市に向かう準備をする。


「行くか、三人とも!」


 今日も我らは人のために働くのだ。乳製品売り始めるうてなより先に。

 新しい名前には早く慣れないとな。

 これで俺も、自由な存在だ。

 綾姫に自由な、存在だ。

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