第6話 死という自由

 月城の家から逃げ出したことは、一度や二度ではなかった。

 何度も隙を見て抜け出し、連中の手の届かない所まで逃げようとした。

 だが、全て失敗した。すぐに追ってがやって来ては捕まり、連れ戻される。何度やっても結果は同じだった。


 そもそも頼るものが誰もいない紬に、逃げる場所などあるわけがない。


 そしてそれは、月城を出てアヤカシの花嫁となってからも同じ。

 逃げてもすぐに捕まるだろうし、捕まらなかったところで、見知らぬ世界で生きる術などない。


 ならば全て諦め、周りの思惑に従うしかないのか。

 しかし紬は、それを良しとしなかった。

 家族から引き離されて連れてこられた月城家。そこで待っていたのは、蔑みの視線と酷い扱いだ。

 挙げ句、そんなやつらの繁栄のため犠牲になる。それが、どうしても我慢ならなかった。


 だから、紬は決めた。何としても、月城家の思い通りにはならないと。逃げるのがむりなら、せめて命をかけて恨みを晴らしてやろうと。

 その方法がこれだった。


「この人間、頭は俺がもらうぞ」

「待て、頭は俺だ。お前たちは別の所にしろ」

「なら、俺は心臓だ」


 紬を押さえつけたアヤカシたちは、誰がどこを食うかで揉めていた。


(どこでもいいから早くしてよ。どうせわたしは死ぬんだから)


 自分の命がかかっているというのに、心の中でそんなことを呟く。

 そうして思い浮かべるのは、あの玉藻詩という狐のアヤカシだ。


 こんなにもたくさんのアヤカシが我を忘れるほどに欲しがる、霊力のある人間。

 それを花嫁として迎えられたことは、彼にとってどれだけ喜ばしいことなのだろう。

 しかしその花嫁は、途中で逃げ出し、命を落とす。


 欲しかったものが手に入らないばかりか、代々続く盟約まで破られたのだ。当然、怒り狂うはずだ。

 その怒りは、そんなやつをよこした月城家に向けられるかもしれない。そんなことになったら、常貞たちはどれだけ慌てふためくだろう。


 しかしその頃にはもう、自分は捕まる心配はない。あの世という、決して手の届かない場所へと逃げているのだから。


(これで、大嫌いなやつらへの恨みが晴らせる。もう、散々な運命を背負わなくてすむ。ずっと待ってたこの時が、ついに来たんだ)


 やっと願いが叶う。誰かに利用されるだけだった運命から解放される。自由に生きられはしなかったが、自由に死ぬことはできるんだ。

 だからこれは、幸せなことなんだ。


 何度も何度も、心の中で呟く。

 だが彼女は気づいていない。そんな言葉を繰り返すほど、目に涙が出溜まってきていることに。


 涙が溢れて頬を伝う頃、アヤカシたちは、ようやくそれぞれがどこを食うか話をつけたようだ。

 まずは最初にぶつかった熊のアヤカシが、紬の頭めがけてかぶりつこうとする。

 その時だった。


「やめろ!」


 突然、その場の空気を震わせるような声が響く。

 同時に、紬を押さえつけていたアヤカシたちに向かって、炎が飛んできた。


「うわっ!」


 さすがに我が身が大事なのだろう。

 とたんに飛び退き、炎の飛んできた方向を見る。

 紬も、地面に転がったまま、首だけ傾けてそちらを向く。

 そして、息を飲む。


「彼女に近づくな。指一本でも触れたら許さない」


 そこにいたのは、狐面の男。詩だ。

 逃げ出した自分を追ってここまできた。そう悟った紬は、ぐっと歯を噛み締めた。


「なんだ? お前もこの人間を食おうってのか? あいにくだが、コイツは俺たちの獲物だ。痛い目見たくなかったら引っ込んでな」


 詩の登場に最初こそ怯んでいた熊たちだが、腕っ節に自信があるのか、それとも数が多いからか、すぐに脅すような言葉を喚き散らす。

 だが怯まないのは詩も同じだ。


「食う……だって?」


 熊たちと比べてずっと静かに、だが怒気を孕んだ声で言う。

 同時に、彼の後ろに生えていた長い尾が、さらに長く伸び始め、ゆっくりと紬や熊たちの方へ近づいていった。


「な、なんだ?」


 伸びた尾は円を描くように、何事かと身構える熊たちの周りを、ぐるりと囲み始める。

 そしてその途中から、尾の色が赤く変わり出す。

 まるで炎のような、いや、ようなではない。いつの間にか、尾は細長い炎へと姿を変え、熊たちの周囲を完全に取り囲んだ。

 さらに、それが二重三重にと重なる。まるで炎の檻だ。


「なっ……なぁっ…………!?」


 一人が、驚きと恐怖の入り交じった声をあげる。

 他の者も、できるだけ炎から逃げるように、円の中央へと身を寄せ合う。


「狐火だ。やろうと思えば、その子を残してお前たちだけ焼き殺すこともできるけど、どうする?」

「ひぃっ!」


 熊たちからあがる声は、もはや悲鳴になっていた。

 中にはまだ戦う気があるのか、身構えているものもいたが、それも長くは続かなかった。


「あ、あんたいったい何者だ!」

「玉藻の家の者。っていったらわかるかな。そしてその子は、俺の花嫁だ」

「なぁっ!? た、玉藻だと!」


 玉藻と聞いたとたん、構えをとっていたやつらも、一気に青ざめる。

 玉藻という家がどんなものなのか、紬は詳しいことを知らない。

 たが代々続く名家というものは、時に個人の力よりもずっと強力になる場合もあるというのは、月城家を見て嫌というほど知っていた。


 アヤカシの世界でも似たようなものなのか、熊たちにもう戦意は残っていなかった。

 詩が炎の檻を解いたとたん、彼らは我先にと、一目散に逃げていった。


 そしてその場には、紬と詩の、二人だけが残る。


「紬!」


 未だ倒れたままの紬に向かって、駆け寄ってくる詩。


「大丈夫? ケガはない?」


 彼が来ていなければ、紬は間違いなく、さっきのアヤカシたちに食われ、殺されていただろう。

 言わば、詩は命の恩人だ。

 だが紬には、感謝の気持ちなど僅かもなかった。

 そんなもの、抱けるはずがなかった。


「……どうして」


 詩が抱え起こす中、紬はポツリと呟く。

 さっきアヤカシたちに食われそうになった時よりも、もっとたくさんの涙が、目から溢れる。


「えっ? どうしてって、何が──」

「どうして死なせてくれなかったのよ! このバカ!」


 涙声で叫び、肩で大きく息を切らす。


 死が怖くなかったわけではない。それでも、死ぬことが自分の掴める唯一の自由だと思っていた。

 だが、その結果がこれだ。


 花嫁と夫。そんなのは名ばかりの、生贄として捧げられる相手に、ずっと考えていた計画が阻止されてしまった。

 それが、どうしようもなく悔しかった。


「あなたに捧げられるために、自由も家族も、全部奪われた! なのに、どうして最後まで邪魔するのよ!」


 手を振りあげ、詩の頬をめがけて思い切り打ちつけようとする。


 相手はアヤカシ。しかも今見たような強大な力を持っている相手に、こんなことをしてどうにかなるとは思わない。

 それでも、怒りをぶつけずにはいられない。


 しかし、そんな紬の予想に反して、彼女の手は詩の頬へと叩きつけられる。

 その拍子に、それまでつけていた仮面が外れた。

 当然、その下にある顔が顕になる。


「えっ……?」


 初めて見る、詩の素顔。

 それを一言で表すなら、美しかった。


 まるで人形のように整った目鼻立ち。想像していたよりも、ずっと若く見える。

 アヤカシの歳のとり方がどうなっているのかは知らないが、外見だけでいえば、自分とそう変わらない。


 だが、紬が最も目を見張ったのはそこではない。


 自分を見つめる詩の表情は、酷く切なく、悲しげだった。

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