アヤカシの世界での日々
第10話 妻としての務め
誰かが近づいてきた。そんな気配を察して、閉じていた目を開く。
布団をはいで上半身を起こすと、部屋の襖の向こうから、声が届いた。
「紬様、おはようございます」
若い女性の声。
返事をしようにもすぐには声が出ず、かろうじてうーんとうなると、襖がスっと開き、僅かに顔を覗かせる。
いや、この表現は少々間違っているだろう。何しろ戸を開けた女性には、顔と呼ぶのに必要な目や鼻や口が存在していないのだから。
「おはよう。忍さん」
眠い目をこすりながら、入ってきたのっぺらぼうに挨拶する。
彼女の名は、忍。花嫁行列の時、紬の乗った籠に寄り添い歩いていた相手で、この家でも彼女の世話係となっていた。
紬がこの屋敷に来てから、今日で三日目。こうして毎朝紬の部屋に起こしに来るのも、すっかり日課になっていた。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「まあ、それなりに」
本当は何度も目が覚めたのだが、眠りが浅いよはいつものことなので、別段言う必要はないだろう。
そう思ったが、彼女は目ざとく気づいてくる。
「本当にそうですか? 目元、少しだけくすんでいますし、昨日もそうでしたよ。そういうのは自然と顔に出るものですよ」
顔のない彼女にそんなことを言われるの、なんだか妙な感じだ。
「紬様も、新しい生活で慣れないことが多いのでしょう。困ったことがあったら、遠慮なく言ってくださいね」
「別に困ってるわけじゃないんだけど。それより、紬様って呼び方、何とかならない?」
元々彼女は、紬のことを奥方様と呼んでいた。それをやめてくれないかと頼んだところ、今のように紬様と呼ぶようになったのだが、紬としては、それでも調子が狂ってしまう。
「そうはいきません。詩様とは今のところ形だけの夫婦であることは知っていますが、それでも主の奥方というのには変わりませんもの。たとえご命令でも、こればかりは譲れません」
胸を張ってそう言われると、それでもやめてとは言えなくなってしまう。
そうでなくても、忍相手には、どうにも強く言いづらい。
花嫁行列の最中、彼女を騙して逃亡したという後ろめたさがあるからだ。
そんな相手の世話係などさぞかし嫌がるだろう。そう思っていたのだが、彼女はそんな様子を微塵も見せずに、何かと世話を焼いてくれている。
顔がないため表情を読むことはできないが、もしあったとしたら、きっと気さくで明るい笑顔をしていることだろう。
だからこそ、付き合い方がよくわからない。
月城の家にも使用人はいたが、その中に紬に敬意を払ったり気づかったりする者など、一人もいなかった。
常貞たちが紬を見下すのを見て、使用人たちもまた、紬を見下すようになっていった。
(夫婦なんて形だけのものだし、私に敬われるような価値なんてないのに)
それから、忍に手伝ってもらい寝間着から着替える。
本当は一人でやりたいところだが、ここでの生活は基本的に着物ばかり。一人で着付けをするには時間がかかった。
「さあ。お着替えもすんだことですし、次は奥方としての務めを果たしてもらいましょうか」
「また、あれをやるのね」
わかっていたことだが、ため息が出る。とはいえ、仕方の無いことだ。
忍と共に部屋を出ると、廊下の向こうから、白くて丸い毛玉が数体、ワラワラと群がりながらこちらにやって来ていた。もちろん、全部アヤカシだ。
こんなにもたくさんのアヤカシがいる光景など、紬も少し前までは滅多に見ることはなかったが、早くもそれに慣れつつあった。
「あっ、奥方様だー」
「奥方様だー」
「こら、あなたたち。奥方様でなく紬様です」
毛玉たちが紬を奥方様と呼び、忍がそれを窘める。
この毛玉、ある程度の知性はあるようだが、詩や忍らと比べると少し単純なようだ。
その後二人は、紬の部屋のすぐ隣にある部屋の襖の前に立つ。
ここからが、忍の言っていた、奥方としての務めの始まりだ。
とはいえ、大したことをするわけではない。
「詩──」
形式上夫となった相手の名を呼ぶが、返事は無い。
紬のやることというのは、要は寝ている詩を起こすこと、それだけだ。
そんなもの、さっき紬が起こしてもらったように忍たち使用人でもできるだろうし、実際紬が来るまではそうしていたらしい。
だが形だけとはいえ夫婦になったのだから、妻に起こしてもらうくらいの楽しみはあっていいはずと、よくわからないことを主張ししたのだ。
とはいえ紬も、相当都合のいい条件でここにいる身。そのくらいならと、特別嫌がることなく引き受けたのだが……
「詩──詩────」
さらに二度呼ぶが、またも返事はない。
襖を開けると、畳の上に敷かれた布団がひとつ。詩は、それに包まれながら眠っていた。
「声をかけただけでは、起きないようですね」
「わかってるわよ」
昨日も一昨日もこうだったのだから、今日もそうなのだろうという気はしていた。
ため息をつきつつ部屋の中に入ると、寝ている詩の傍らに座る。
横向きに寝ている彼の寝顔を見ると、本当に驚くくらいの綺麗な顔をしている。
もしも彼が人間だったなら、この見た目に釣られて寄ってくる女性は数多くいるだろう。
とはいえ、紬もそんな彼に惹かれるかというと、そんなことはない。
それは、詩がアヤカシだからというわけではない。
人に好かれることのなかった自分には、人を愛するということが、どうしても想像できないのだ。
「詩!」
大きな声で、もう一度彼の名を呼ぶ。すると小さくううんと唸った後、顔を傾け、僅かに目を開いた。
「紬……」
紬の名を呼び、ニコリと幸せそうな顔で笑う。
とりあえず、起きてはくれたようだ。
そう思った途端、詩の手が急に伸びてきて紬の肩を掴み、そのままグッと引き寄せた。
「あっ……ちょっと!」
「紬〜」
抱きつくような体勢になりながら、詩は実に幸せそうに声をあげる。
それだけでない。寝ぼけているのか、今にも密着しそうなくらい、顔を近づけてきた。
「い、いい加減にしなさーい!」
吐息がかかるほど近づいたその瞬間、バッと振り上げた紬の手が詩の頬を打ち、バチーンと大きな音を響かせた。
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