第26話 呪印
彼の姿を見て、ブルリと体が震える。こんなおかしな事態の中、急に現れたのだ。警戒しない方がおかしい。
じりじりと後ろに下がりながら身構えるが、古空はそんな紬を見ても、さっきまでと変わらず笑みを浮かべたままだ。
「道に迷ったのなら、部屋まで案内して差し上げようか?」
「い、いえ。大丈夫です」
本当は部屋に戻るまでの道などわからないのがが、これをただの善意と受け取っていいかわからない。
向けられている笑顔も、どこか信用できない気がした。
詩が中庭で戦っていた時、脇差を突きつけられたことを思い出す。
結局それは、幻術で見せた幻であり、実際に突きつけられていたのは、脇差でなただの木の枝というのが後にわかった。
しかしだからといって、その時の怖さが無くなるものではない。
「そうだ、幻術!」
この屋敷についてから、幻術によって様々な幻術を見てきた。
ついさっき、目の前で消えた詩。あれはまさに、幻術で消えていった幻と同じだったのではないか。
そして、そんな詩と入れ違いに現れたのは、この男だ。
「あ、あなたが、幻術を使って詩の幻を見せたの!?」
大きく後ずさり、これまでにないくらいの警戒を見せる。
なのに古空は、少しも動じる様子はない。それどころか、怯える紬を眺めながら、どこか楽しそうな表情を浮かべていた。
それが、答えだった。
「察しがいいね。もっとも、ただ幻を見せただけじゃないけどね」
「どういうこと?」
「幻を見せたのは、君を部屋からここまでおびき寄せるため。詩のやつ、眠れないのか、ほんの少しだけ部屋を外していたから、その隙にね。だけど、いくら詩に似せた幻で君を呼んだとしても、状況があまりにも不自然だ。普通はのこのこやってくるなんてことはしないだろう。だから、君の心を操ったんだよ。君を呼ぶ声に従いたくなる。そんな風にね」
「なっ!?」
心を操るなどと言われても、とても実感がわかない。だが幻術ならそんなこともできると、詩も言っていた。
そしてそれなら、自分でも納得いかなかった行動にも説明がつく。
「心を操るって、そんなの、簡単にできるものなの?」
「いいや。ここまで都合よく操るのは、並大抵の術者じゃ難しいだろうね。それに、術をかけているところに詩が戻ってきたら、面倒なことになる。だから、事前に仕込みをしておいたんだ」
古空が得意げに言った瞬間、紬の喉元が、薄っすらと光り出した。
紬の視点だと、ハッキリ見える位置ではないが、それでも、自分の体に異変が起きていることはわかった。
「な、なにこれ……」
「それが仕込みだよ。呪印っていってね、それを刻むことで、離れたところからでも強力な幻術をかけられるようになる」
「仕込みって、こんなのいつつけたのよ!?」
そこで、ハッとする。
詩が戦っている最中、脇差を突きつけられた場所が、まさにここだ。
「あの時やってたっていうの?」
「その通り。ただ呪印を刻むだけじゃ詩に気づかれるかもしれないから、君を脅かすことで、本当の目的に気づかれないようにしたんだ。それでも、全てうまくいくかは賭けだったけど、運は僕に味方したみたいだ」
詩ですら気づかなかったのだから、幻術のことなど何も知らない紬が気づけるはずもない。
だが、自分の体にそんなことをされ、何もかも古空の計画通りに事が進んでいたと思うと、悔しさが湧いてくる。
「私を誘い出して、何をしようって言うの?」
誰にもバレないよう、コソコソやっていたのだ。
どう考えても、嫌な予感しかしない。
「君の霊力をいただくためだよ。それ以外に何があるというんだ」
やはりそうか。自分の霊力がアヤカシにとっていかに魅力的かは散々聞かされてきたので、予想通りの答えではあった。
震えそうになるのを堪えて、古空を睨みつける。
「私は、次期当主である詩の花嫁なんでしょ。そんなことしていいの?」
「もちろん、ただではすまないだろうね。なんでもありの跡目争いとはいえ、御当主がわざわざ設けた試合の直後にこんなことをしたら、彼女の顔を潰すことになる。次期当主の座からは大きく遠のくことになるだろうね」
「だったら、どうして……」
「だからね。そうなる前に、僕は君を連れて逃げようと思うんだ。それからゆっくり君の霊力を吸い続け、詩も御当主も凌ぐ力を得た頃に、また戻ってくる。僕が当主なるのはそれからだ」
「なっ!?」
想像していたよりも、さらに恐ろしい答えが返ってくる。この男は、紬や詩だけでなく、今は主である沙紀にまで仇なそうとしているのだ。
もちろん、そんなものに利用されていいわけがない。クルリと背を向け、一目散に逃げようとする。
しかし、駆け出した廊下の先に、突如数体アヤカシが現れた。彼らは、まるで壁のように並び立ち、紬の行く手を塞いだ。
「なっ!?」
小さく悲鳴をあげるが、その瞬間、数体が紬の手足を掴み、拘束する。
「僕の考えに賛同する者も、それなりにいるんだ。逃げようと思っても無駄だよ」
「いやっ! 離して!」
暴れるが、押さえつける力は少しもゆるむことはない。
そんな紬に向かって、古空はゆっくりと近づいてくる。
「怖がることはない。これは、君にとっても幸せなことだよ」
「えっ……?」
何を言っているのよな。このままさらわれ、霊力を搾取される。そこに幸せがあるとは、到底思えない。
古空は、紬に向かって手を伸ばし、首にある呪印に触れた。
するとその途端、それまで小さく丸がついていただけのようだった呪印が一気に大きくなる。
まるで生き物のように形を変え、全身へと広がっていく。
「やっ! な、なに、これ……」
古空が何をするつもりなのかはわからない。だが、自分の体に得体の知れない何かが起きているというだけで、震え上がるには十分だ。
「心配いらないよ。ただ、夢を見てもらうだけさ。決して覚めない、幸せな夢をね」
そう古空が言うのを聞いたのが、紬の最後の記憶だった。
その直後、呪印が全身に広がり、次の瞬間彼女の意識は途切れた。
全身の力が抜け、崩れ落ちそうになるところを、古空が受け止める。
そして彼は、不敵に笑う。
「手に入れたよ、月城の花嫁。これで君は、僕の餌だ」
しかしその言葉は、既に意識を失っていた紬に届くことはなかった。
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