詩の秘め事

第32話 幻術が解けた理由

 紬が目を覚ました時、まず感じたのは、気分の悪さだった。おそらくこれは、見ていた夢のせいだろう。胸の奥から、言いようのない不快さが込み上げてくる。

 さらに、なんとも言えない頭の重みもあった。とても長い時間寝た後にある、独特の感覚だ。

 そんなにもぐっすり寝ていたのだろうか。辺りを見回すと、布団のすぐ側にある棚に、漫画やゲームが入っている。

 いつも寝ている、詩の屋敷にある自分の部屋だ。


「なんで? 私、玉藻の本家に行ったはずなのに。それで、古空ってやつに拐われて、それから……詩はどうなったのよ!」


 何があったか思い出そうとするが、覚えているのは、古空に幻術をかけられ、古空と詩が戦っている途中で目覚めたところまで。それ以降はさっぱりだ。

 ただ、あの時の詩のケガを思うと、心配になってくる。


「だ、大丈夫よね」


 不安な気持ちを抑えながら部屋を出ると、軽いめまいが起き、わずかにふらつく。

 するとそこに、ちょうど見知った使用人のアヤカシが通りかかった。


「紬様、目覚めたのですか!? 詩様、紬様が目覚めました! 詩様ーっ!」


 あまりに大声で叫ぶものだから、重かった頭がさらにクラクラする。

 それから、ドカドカと激しい足音を立てて詩がやってきた。


「紬、気がついた? 体の調子はどう? まる一日寝てたんだけど、痛いとか苦しいとかない?」

「とりあえず、うるさいから声を小さくしてくれない」


 心配しているのはわかるが、これでは余計に調子が悪くなりそうだ。

 

「あなたこそ大丈夫なの? 古空ってやつに、だいぶやられてたけど」

「俺なら平気。古空は倒したし、こうして無事に本家から戻ってこれたからね。それに、あれくらいの荒事は慣れてるから」

「あんなのに慣れてるっていうのもどうなのよ」


 あの時詩は、何度も殴られ蹴られ、それどころか最後は刀で斬られようとしていた。

 もしかすると、死んでいたかもしれないのだ。


「迷惑かけてごめん。あんなにやられたの、私のせいよね」


 あの時詩は、決して反撃しようとせず、一方的にやられていた。

 それが、自分を人質にとられていたせいだというのは、紬にもわかる。

 自分が捕まったせいで、危険な目にあわせてしまった。申しわけない気持ちが込み上げてくるが、詩は少しも責めることなく、ニコリと笑った。


「そんなことより紬、助けてくれてありがとう」

「えっ?」

「俺の妖力を込めた簪で、古空を攻撃しただろ。あれがなかったら、やられてたかもしれない」

「あれはただ、自分が助かるためにやったことだから……」


 謝らなければならないのにお礼を言われるなど、これではあべこべだ。

 実はあの時、詩が斬られそうになるのを見て咄嗟に体が動いたのだが、わざわざそれを言うのは恥ずかしかった。


(私も言わなきゃ。助けてくれて、ありがとうって)


 本当なら、詩より先に自分が言うべきこと。

 なんとか言葉にしようと口を開くが、それより一瞬早く、詩が言う。


「それにしても、どうやってあの時目を覚ましたんの? 幻術にかかっていたら、普通は勝手に起きることなんてないのに」


 それは、純粋な疑問だった。

 紬は高い霊力を持ってはいるが、訓練もなしに幻術に対抗できるものではない。古空もそう思っていたからこそ、油断して簡単に攻撃を受けたのだろう。

 なぜあの時目を覚ましたのか。詩はどれだけ考えてもわからなかった。


「────っ!」


 するとそれを聞いたとたん、紬の顔が曇る。

 頭が重くフラついていたさっきまでと比べても、ずっと固く険しい表情を浮かべた。


「紬……?」


 それを見て、詩も何か不穏なものを感じとったのだろう。

 心配そうに紬の名を呼ぶが、彼女はそれを無視して、さっきの疑問の答えを告げる。


「そんなの決まってるじゃない。あなたも言ってたでしょ。幻術ってのは、心の底から幻だって思えば解くことができるって」

「そりゃそうだけど、普通はそんなことできないよ。いったい、どんな術をかけられたの?」


 そんな理由で解けたと言っても、詩は到底納得できない。

 例え幻や夢でも、目の前にあるものを完全に嘘だと思うのは、簡単なことではない。


 それに、気になることがもうひとつ。

 話せば話すほど、紬の表情が、どんどん暗くなっていくのだ。


「夢を見せられたのよ。お母さんの夢を」

「お母さん?」

「そう。月城の家に引き取られる前に、一緒に暮らしていたお母さん。それが目の前に現れて、私を迎えに来たって言ってくれた。大好きって言って、抱きしめてくれた」


 なぜだろう。紬の語る夢の内容は、紛れもなく幸せなもののはず。

 にも関わらず、彼女の表情は、変わらず暗いままだ。


「大丈夫? 辛いなら、無理して言わなくていいから」


 いったい何が紬をこんなにさせているのかはわからない。だがこんな顔をさせるくらいなら、この話はやめにした方がいいのではないか。

 だが紬は、堰を切ったように言い放つ。


「平気よ。こんなの、いつものことだから」

「いつもって……」

「いつか、お母さんが迎えに来てくれる。そんなの、月城に引き取られてから何度も想像したわ。けどその度に、そんなことあるわけないって思い知らされた。だから今更そんな夢を見たって、すぐに嘘だってわかるのよ」


 夢の中で母と出会えて、抱きしめられて、最初は嬉しかった。だがそれから、すぐにズキリとした痛みが走った。

 自分には、こんな幸せなどやってこない。月城の家に連れていかれてから何年もの間、幾度となく思い知らされた。その度に、何度絶望したかわからない。

 すっかり紬の心に刻まれたその思いは、幻術で見せた夢や幻よりも、ずっと強いものになっていた。


「あんな夢で騙せるわけないのに、バカみたい」


 言って、くしゃりと顔を歪める。

 夢が幸せであればあるほど、胸の奥から、痛みと気持ちの悪さが込み上げてきた。

 目が覚めてからも、その痛みはずっと残っていた。


 一方、それを聞いた詩も、穏やかではいられない。

 そのおかげで、紬は幻術から抜け出すことができた。しかしだからといって、とても良かったと言えるものではない。

 今も苦しそうにしている紬を見て、いても立ってもいられなくなる。


「だったら、会いに行かない? 紬のお母さんに」

「えっ……?」


 そんなことを言われるとは思わなかったのだろう。目を丸くする紬に向かって、さらに言う。


「前に言っただろう。行こうと思えば、人間の世界にだって行けるって。紬のお母さんの住んでるところに行くことだってできるんだよ」


 紬に、笑顔になってほしかった。

 母親と会えなかった日々を取り戻すことはできない。だが、再び会うことならできる。そうすることで、心にできた傷を少しでも埋めることができたら。そう思っての提案だった。

 だが…………


「やめて!」


 今までよりもさらに苦しそうに顔を歪めながら、紬は叫んだ。


「会っても無駄よ。言ったでしょ、あんな夢みたいなこと、あるわけないって。だってお母さんは、私のことなんて嫌っているから。それだけのことを、私はしたんだから」


 震える声でそう告げた時、紬の頬を一筋の涙が伝った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る