6.東京ソーマトロープ~再回転~

 道端を、ボールが転がっている。

 ガードレールを大きく歪めさせ、バスが歩道に乗り上げている。子供が泣きわめいている。その子を、蒼白な顔の母親が強く抱きしめたまま、へたりこんでいる。

 そして、

「夜空先輩ッ!?」

 名を呼び、駆け寄った。

 交通事故といえど、常に人の命が失われるわけではない。角度、速度、当たり所、様々な要因が噛み合えば、奇跡的に無傷のまま助かることだってある。そういう知識が、拓夢に小さな望みを抱かせた。

 そして現実は、その小さな望みを、根こそぎ奪い取った。

 強く打った右胸部が潰れている。全身がおかしな方向にねじれている。骨が砕け、肺や心臓などが破裂し、冗談のような量の血があふれ出している。瞳孔はうつろに開き、唇は凍えるように小さく震えている。

 まだ、生きている。

 けれど、数秒のうちに、確実に死ぬ。

「先輩ッ!! 夜空先輩――ッ!?」

 血に汚れることに構わず、というより気づきもせずに、抱き上げた。呼びかけた。返事などあるはずもないが、それでも。

 ぼう、と。薄紅色の、小さな花弁のような光が、いくつも周囲に浮かび上がった。

 どこからか出現した白い包帯が、少女の体を包み込む。ねじれていた全身を、ひとの本来あるべき形に戻す。流れ続けていた血を堰き止める。まぶたが閉じ、唇の震えも止まる。安らかといえる表情を象る。

「……すまんな」

 いつの間に追いついていたのか、すぐ傍らからメリノエの声を聞く。

「吾には、死に顔を整えてやるくらいしか、できぬ」

 こいつはなにを詫びているのだろう、と、半ば凍り付いた頭で拓夢は思う。

 自分は何もできなかった。伸ばした手で、何も掴めなかった。

 そんな自分に、誰かを咎める資格など、あるはずもないのに。

 そういえば、そもそもこの閉鎖市街せかいに入る際に、畔倉拓夢はそのつもりだったはずだ。寂院夜空はずっと前に失われたのだと、死んでいるのだと、その事実を受け止めるためにここに来たはずだったのだ。

 だから、ある意味において、これは予定通りといってもいいことのはずで。

「先輩――ッ!!」

 叫びも、ただ虚しく。

 腕の中の少女は、ただ重く、そして冷たくなっていく。


 カチリ、


 なにかのスイッチが入った。そういう音が聞こえた。

「――――あ?」

 続いて、巨大な機械音が下腹に響く。無数の歯車とカムとクランクが、一斉にその構造を変えて、違う機能のために動き出した。そういう音だった。

 それが何を意味するかなど、拓夢にはすぐには考えられなかった。が、

「拓夢!」

 珍しく緊迫したメリノエの声を聞いて、顔を上げた。

「すまぬが、どうやら今は嘆いている時ではない。ようやく見え始めたぞ、この船室キャビンの中身と、の正体が」

 まず見えたのは、あのボール。そして、子供、母親の順。

 先ほどまでそこにあったものが、そのまま揃っている。何も増えても減ってもいない。それなのに、そう、何かがおかしい。

 動いていないのだ、と気づく。

 転がっていたはずのボールも、泣き出す寸前の子供も、恐怖にひきつった顔の母親も。凍り付いたように、まったく動かない。

 そういえば、とても静かだ。何も聞こえない。人やら車やらが発するものだけではない、風が木の葉を揺らす音すらもが消え去っている。

 ゆっくりと膨れ上がる違和感が、拓夢に冷静な思考を取り戻させた。

「使え」

 手渡された黒縁眼鏡を、迷わずかける。

 そもそも眼鏡とは、「光学的にピントを合わせた状態にすることで、もともと見えにくかったものを見やすいようにする」道具だ。メリノエの寄越す道具の常として、もともとのその道具の機能を超えることはない。しかし、その性能は、ちょっとばかり大げさというか、誇張されたものになる。

 見える。

「これ、は……」

 レンズ越しに見た周囲の世界は、あらゆるものの色彩が、消えていた。

 すべてが灰色の明暗だけで彩られた、モノクロ写真めいた景色だけが広がっている。

 自分の腕の中を再確認する。少女の亡骸もまた、同じようにすべての色を失っていた。あんなにも鮮やかに見えていた血の赤も、今や、黒々としたナニカにしか見えない。

「成程、少し見えたぞ。目的はとかく、手段だけは理解した」

 メリノエの口調は苦い。

「此処の主は、吾と話は合うかもしれんが、趣味はまるで合いそうにないな」

「メリノエ……?」

「説明はあとだ。備えろ拓夢、ぞ」

 何が、と問うまでもない。メリノエがそう言うのだから、詳しい説明をしていられないほどすぐに、何かヤバいものが来るのだろう。

 拓夢は立ち上がり――なぜか腕の中には何もなく、ただ白い包帯がぱさりと地に落ちた――手を伸ばす。その手をメリノエがしっかりと掴む。

 周辺に広がる景色のすべてに、短冊状の線が入ったのが見える。

 その短冊が、さらに細く小さく、刻まれていく。

 のっぺりとした灰色が、景色に落ちる。壊れた液晶画面のように、本来そこにあるはずの色彩を欠落させて、塗りつぶす。そして、灰色は増えていく。広がっていく。すべてを塗りつぶしていく。

「こりゃあ……」

 驚いている間にも、住宅街の景色は、もうほとんどが失われていた。

「世界のが始まる。手を離すでないぞ」

 そしてすべてが灰色に染まり、


 穴に落ちた、と感じた。


 重力の実感を奪われたことで発生する、疑似的な浮遊感。

 同時に、時間の感覚が消失した。

(……これ、は)

 七色の光の奔流が上下左右を埋め尽くす――と感じたのは、もちろん実際に辺りが可視光で満ちていたというわけではないだろうが。とにかくそういった現象を拓夢の脳は認識した。

 全身が圧搾されながら無限に引き延ばされているような、異様な感覚。

 痛みこそないが、それに似た不快感が全身で爆発する。

(この感覚、は)

 既視感。いや違う。

 追体験。いや違う。

 五感が、機能を取り戻した。再びの、今度は実際の感覚を伴う浮遊感。

「ぐっ」

 アスファルトとおぼしき硬質の地面に、肩から落下した。転がって衝撃を逃がす。顔から外れた眼鏡が地面に落ちる。かしゃん、氷細工が割れるような音。

「…………」

 地面に転がったまま、ゆっくりと目を開いた。

 背の低いコンクリート塀。年季の入った木造家屋。おんぼろのアパート。そのすぐ隣に、比較的最近に建て直されたと思しき三階建てのマンション。がらがらの月極駐車場。缶ジュースの自動販売機。チェーンの薬局の看板。

 ここはもちろん、自分たちが先ほどまでいた交差点ではない。そう遠いというわけではないが、少し離れた場所。

 拓夢たちがこの閉鎖市街に突入した際に、出現した座標そのままだった。

 だが、違いも多い。

 世界から色は奪われたままで、すべては灰色に支配されていた。動きも失われたままであるらしく、見上げれば数羽の鳥が微動だにしないまま空に張り付けられていた。

「成程な。先刻は笑ったが、冗談でなく、ここは古典SFの世界であるらしい」

 メリノエの声を、自分の胸元から聞く。手をつないだだけのつもりでいたが、いつの間にやらまた、強く抱きしめる姿勢になっていた。

 腕をほどいて、少女を解放する。

 ついでに気づく。そういえば拓夢自身の服装も、突入時に着ていた、都市迷彩作戦服に戻っている。先ほどまで眼鏡をかけていたはずの顔もしっかり、保護ゴーグルとマスクで覆われている。現地で買い替えたはずの服は、どこにもない。

「古典SF?」

 メリノエは立ち上がり、軽く体操などして体をほぐしながら、答えてくる。

「最初、時間の流れがおかしくなっていると言ったろう。あれがあの時点で、50点の正解だった。残り50点ぶんは、読めなかったというか」

 悔しげに首を振りながら、

「まあ、定番といえば定番なのだが、まさか本気で実現する者が現れるとも思っていなかったからな。思い込みを突かれた」

「からくりが、読めたのか?」

「概ねのところは。ケン・グリムウッドの『リプレイ』と言ってわかるか?」

 沈黙をもって答える。

「……まあ、あまり良い喩えではなかったな。ちと古過ぎた。しかし近作から探そうとなると、あまりに例が多すぎて選びづらい」

「例はいいから、結論から言ってくれ。この街は――」

 夜空先輩は、と言いかけたのを吞み込んで、

「――この世界は、いったいどうなってるんだ」

「時間を、巻き戻している」

 拓夢の要求した通り、端的に、結論を述べられた。

 それは拓夢自身も薄々感づいていたことではあったが、それでも言葉を失う。

「ある意味において疑似的に、ではあるがな。おそらくは東京消失の瞬間の、”船室キャビン”内のありとあらゆるモノの状態を記録セーブし、何らかのトリガーでそれを呼び出して上書きオーバーライドしている。時間そのものを直接操作しているのではなく、特定の時間帯を物理的に再現しているというわけだ」

 拓夢は、呆けたように口を開いて、それを聞いている。

「おそらく、これまでにも同じようなことが、幾度も繰り返されてきたのだろう。だからこそ、閉鎖市街このまちは、消失から長い時が経ったいまも、健在でいられる」


 再び、下腹に響く、巨大な機械音。


 この世界を構成している無数の歯車が、また組み替えられて、働きを再開した。ナンセンスだとは思いつつ、そう感じた。

 世界に色が、動きが、音が、戻ってきた。

 空の鳥が、細い声で鳴きながら、飛び去ってゆく。

「つまり……この場合の古典SFってのは」

「ああ。いわゆる“ループもの”だ」

 メリノエは頷く、

「おそらくこの街は、6月5日を、繰り返している。船室キャビンの外で流れる月日を無視して、ずっとな」

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