6.寂院夜空の冒険(2)

「はぁ……」

 スポーツドリンクの缶をくずかごに放りながら、夜空は溜め息を吐いている。

 映画館のロビー。少女にとっても思い出の場所である。

 目の前に、上映中の映画のポスターが並んでいる。

 一枚に目を留める。新作のSF映画らしい。キャッチコピーは『この街に、囚われている』。なんてタイムリー。自分たちのこの状況もソレ系のやつなんじゃと思ってしまう。現実とフィクションの間の垣根はかくも脆いのか。そりゃあ全米も泣くというものだ。少なくとも自分は今にも泣き出しそうだ。

 まいったなあ、と思う。

 得体の知れない確信に振り回されて、追いかけることに今日という日を遣った。なのにその確信が、“夢太郎”本人に行き着く前に、途切れてしまった。

 いくら手がかりを集めても、超能力(推定)に浮かれても、結論に届かないのでは意味がない。このままでは、学校をサボってまでがんばった今日の行動がすべて無駄になってしまう。そう考えると、さすがに気が沈む。


      ◇


 懐かしいエピソードを思い出した。

 夜空にとって初めてのデート、になるはずだった日、の思い出だ。


 始まりは、よくある話だった。

 好きなアクション映画の続編が公開されると聞いて、夜空は気分を上げていた。しかし彼女の友人たちは誰も、その喜びに付き合ってくれなかった。

 仕方がない、一人で見に行くかと諦めかけていた彼女の前に、ひょっこりと、やはり同じ映画を楽しみにしている男の子が現れた。一人ずつで行くのもなんだし、二人で一緒に見に行こうとなって、

 ――これはデートなのでは!?

 約束をした当日夜のことである。

 少年とほぼ同じタイミングで、その少女もまた、同じ結論に至っていた。

 同種のバカである。

 もちろん彼女も真剣だった。男女のお付き合いについてまったく考えたことがないと言えば嘘になるが、自分のこととしてはあまり想像しないようにしていた。少なくとも、相手の少年のことを、そういう目で見てはいなかった。

 彼の側はどう考えているんだろうと思った。ヘンな期待をさせたりしたら申し訳ない、逆に何とも思われていないなら、妙な気を遣うのはかえって失礼だ。どっちだ、どっちが正解なんだ。

 考えた。

 年頃の異性のことなどわかるもんかと結論した。

 となると、せめて恥はかかせてやるまいと考えた。そういうのに詳しい友人を捕まえて、さりげないおしゃれの指南を受けた。全力でがんばれ、しかしがんばっていることを相手に気取らせるな、でも本当に気づかれないと心にキツいから適度なアピールはしておけ。迫力ある真顔でそう言われ、うんうんと何度も頷いた。


 そして当日、隣家の森本さんが階段から落ちた。

 森本家の構成員は、証券会社勤めの旦那さんと専業主婦の奥さん、小さな息子が二人、そして大型犬が一匹の四人暮らしである。

 落ちたのは奥さん。旦那さんは出社中。二歳と四歳の子供たちは戦力にならない。犬は言わずもがな。救急車を呼んだり、旦那さんに連絡を入れたり、小さな子供たちを泣き止ませたり、急を要するそういったことのできる人間が、いなかった。

 そんなところに、デートに出かける寸前の少女が、居合わせてしまった。

「うああああ」

 パニックになった。

 ふだんどれだけ後輩たちに大きな顔をしていても、所詮は十六歳。人生経験のとぼしい子供に、突然のこの修羅場はきつい。

 頭が真っ白になって、真っ白な頭のままで、体を動かした。救急車を呼んで旦那さんに連絡して子供たちを泣き止ませて、不安そうに吠える犬に餌をやって旦那さんが病院に急行する間の留守を預かってテンションの高い子供たちに体当たりされまくった。

 約束を忘れていたわけではないのだ。

 けれど、目の前の状況の圧が大きすぎて、頭の片隅に押しやられてしまっただけで。


 祈った。

 祈りながら走った。

 呆れていてほしい。怒っていてほしい。とにかく、帰っていてほしい。

 もう、約束の時間から六時間近くが経っている。普通に考えれば、そんなに長い間を待っているとは考えにくい。常識的に考えれば、とっくに帰っているはずだ。

(でも、ゆめくんなんだよなああ!)

 あの少年は、やりかねない。そう少女は知っていた。

 だから走った。走りながら祈った。

 そしてもちろん、祈りは天に届かなかった。少女が待ち合わせ場所に着いた時、少年はそこにいたし、呆れても怒ってもいなかった。

「ご、ごめ、な、さ、……」

 息が切れていた。そしてそれ以上に、何を言えばいいのかがわからなくなっていた。謝罪も言い訳も、うまく言葉にできなかった。

 そんな彼女に、少年はスポーツドリンクを差し出しながら、言った。


「おつかれさまでした、先輩」


 ……さて。

 それはどういう意味だろうかと、少女は戸惑った。

 こういうシチュエーションでの定番の回答は、「大丈夫?」とか「心配したよ」とか、その辺りだと思う。相手を責めず、逆に気遣ってみせる。いわゆるイケメン回答だ。「どうしたの?」あたりの切り口もポイント高い。なにせ申し訳なさで心が弱っている瞬間である。そんな言葉をかけられたら、あっさり惚れていたかもしれない。

 なのに、なぜそこで、「おつかれさまでした」になるのだ。

「え? えー……改めて訊かれると自分でもよくわかんないスけど」

 問われた少年は、頬を指で掻きながら答えた。

「先輩だから、スかね。何をしてきたのかはわからないけど、今日もすげえがんばってきたんだってのはわかるんで」

 そこで歯を見せて笑い、

「がんばってる先輩はかっこいいんスよ。で、今日の先輩、なんか最高にかっこいいんで。こりゃもう絶対、すんげえがんばってきたんだろうなって。三段論法ス」

 ああ、なるほど。それなら確かに、第一声が「おつかれさまでした」になるというのもわかる。理屈が通っている。納得できる。

 いやいや。ンなわけあるか。

 こっちはな、それこそ精一杯がんばって、かわいくおしゃれを決めていたんだぞ。服とか超選んだし化粧も変えてんだぞ。まあ、全力疾走のせいでその努力が台無しになったのは認めるけども、だからといって、なんで、そこにかけられる言葉が「かっこいい」なんだ。責められるのなら受け入れられた、けれどその方向の称賛は、なんというか、まるで納得ができない。

 あまりに納得できなかったから、

「……あは、」

 一周回って、笑えてきた。

 駄目だなぁ、と思った。

 これはデートなのでは、と思っていたはずなのだが。やっぱり自分たちの関係は、男女のお付き合いという感じではない。ここで殺し文句のひとつも言えないこの子を、自分はそんな目では見られない。

 寂院夜空にとっての畔倉拓夢の関係は、きっともう少し複雑で、とても単純。

 この子にとっての自分は、かっこいい憧れの先輩。それでいい。

 だから、自分にとってのこの子は、かわいい大切な後輩。それがいい。

 いつかはその関係が変わる日がくるのだろうけれど。その日までは、そういう二人でいよう。そのために、この子の前では、かっこいい自分でいよう。

 そう決めた。


 デートをすっぽかしたあの日、寂院夜空に、ひとつの秘密の習慣が生まれた。

 がんばった日。自分へのごほうびが何かほしいという時。映画館に行くのだ。そして映画には目もくれず、入り口すぐそばの自販機で、微妙な味のスポーツドリンクを飲むのだ。

 条件付けのようなものだ。パブロフの犬だ。この場所に立ち、舌の上にこの味を乗せると、いつでも思い出せる。あの日あの時の、あの少年の顔を。彼が戸惑いながら口にした、間の抜けた最高の一言を。

 そのルーチンが、夜空に元気をくれる。

 もっとがんばろう、という決意をくれる――のだけれど。


      ◇


 


 もう少しだけ休憩をしよう。それから今後について考えよう。そう考えて、

 気づいた。

 映画館のロビーには、本来、色々な人がいる。そのほとんどは、これから映画を見る人と、既に映画を見た人だ。つまり、入ってくる人と出ていく人と、二種類の人の流れがあるのが当たり前のはずなのだけど。

 入ってくる人が、いない。皆が、出ていく側の流れの中にいる。

 客だけではない。職員の制服を着た者たちまでもが、自然な足取りで、そのまま外へ出ていく。館内の人間の数が、見る間に減っていく。閉館のアナウンスでもあったのだろうかと思う。そんなものを聞いた覚えはないけれど――

「あれ……」

 気付いた。自分の足が、無意識に動いている。

 背筋を、冷たい恐怖が走り抜けた。

 周りの人々と同じように映画館を出て、どこかへ向かおうとしている。そのことを、今この瞬間まで、不思議に感じていなかった。そして、違和感に気づいた今になってなお、その足は止まろうとしなかった。

「ちょ、ちょっと……」

 腿を何度も叩いた。

 そっちになんて行きたくないと強く考える。

 ふんぬ、と気合いを入れる。力も強く込める。

 そうしているうちに、どうにか体のコントロールを取り戻す。

「なに、なんなの……」

 人々は変わらず、同じ方向へと歩き続けている。それぞれに自然な足取りで、会話をしたり鼻歌を歌ったりしながら。見れば、車道の事情も似たようなものだ。人の群れと同じ方向に向かう車線だけが車で埋まっていて、逆方向へと向かう車は一台もない。

 立ち止まっているのは、夜空ただ一人。

 近くの人に声をかけてみたが、ちらりとこちらを一瞬だけ見て、すぐにそのまま歩き去ってしまう。中途半端に反応があるぶん、無反応を貫かれるよりも、よほど気味が悪い。

 これは、たぶん、あれだ。渋谷の近くで出くわしたあの現象と、同種のナニカ。

 頬を冷や汗が流れ落ちる。と、

(――あ)

 不意にあの直感、ええとなんだっけ、そうだ「パン屑の道標ブレッドクラム・ビーコン」が戻ってきた。そう遠くないところに“夢太郎”がいる。その確信が抱けた。

 そしてその方向は、案の定というか、人波の向かう方向の逆だった。

 そっちには行きたくない。どこからか、そんな気持ちが湧いてくる。

 離れたい。去りたい。遠ざかりたい。帰りたい。退散したい。別の場所に行きたい。様々な種類の気持ちが次々と膨れ上がってくる。

 嫌な汗が止まらない。でも。

「金曜日になったら、関係、変わるかもしれない、けど――」

 SF映画だかパニック映画だかホラー映画だか知らないが、負けてられるか。

 こっちはガチ青春ストーリーの真っ最中ぞ。甘酸っぱい展開にこそなってないけど、いちおう予約はしているんだ。邪魔をするな。そういう気持ちで。

「今日のわたしはまだ、ゆめくんの、かっこいい先輩、なんだよねえ!」

 がんばって、がんばってがんばってがんばって、ありったけの勇気を振り絞って。

 踏み出す。前へ。

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