5.黒い髪が、白い肌が

 あっさりと日が沈んだ。

 時刻はもう、午後の7時を回っている。

「さて。そろそろ今宵の寝屋について考えねばならぬかな?」

 完全に観光客状態のメリノエが、上機嫌でそんなことを言う。

「それもそうだがよ。そろそろ、時間だろ」

「ん? 何のだ?」

だ。忘れんなよ仕事を」

「ん、おお、そういえばそんな話もあったな」

 悪びれもせずに、何度も頷く。

「この船室キャビンの中には、おおよそ五万秒周期で、が発生している。オレたちは、そいつを捕まえて中に入った。だが、そのとやらが具体的にどういう現象なのかまでは聞けてねえ」

「お主が仕事に対して誠実なのは好ましいがな」

 メリノエは目を細める。

「何が起きるのか判らんのなら、どのように備えれば佳いのかも判るまい。気を張って居れば解決するという類いのものでもなかろうよ」

「そりゃそうだが」

「異変が起きてから悩めば佳い。それより今は、もっと多くを見ておきたい――」

 ぽつり。

 鼻の頭に、小さな雫が落ちてきた。

「お」

「おっと」

 見上げれば、上空ではどれだけ風が強いというのか、動画を早送りするような速度で雲が流れている。などと暢気に構えている暇もなく。

 すぐに、雨が本格的に降りだした。

 慌てて、手近なパン屋の軒下に飛び込んだ。

「通り雨だろ、すぐに止むさ」

「であればいいがな」

 などと言っている間にも、空はどんどん黒くなり、雨足もどんどん強くなる。

 どざあ、どざあ、という大きな音が、妙なリズムすらつけて身を包む。

「雨宿りではなく、傘を買って進むべきであったかな!?」

「そうかもな!!」

 雨音の大きさに釣られて、大声を出してしまう。


      ◇


 雨が止まない。

 降り注ぐ勢いこそ五分ほどで弱まった。が、雨そのものはどうにも止まらない。

 諦めて、短い距離を走ってコンビニに駆け込み、二本のビニール傘を買ってきた。

 見回せば、色とりどりの傘がくるくると道を歩いている。それらの間を縫うように、先の自分たちと同じく、雨の中を走る者たち。

「……時間くっちまったな」

 腕時計を確認しながら、拓夢はぼやいた。

ほうらなそうだな

 チョココロネ(軒を借りた礼といって先のパン屋で買った)にかじりつきながら、メリノエが相槌を打った。

「まあ、観光を続けるってテンションでもなくなったな。とやらも来る気配ねえし」

 口の中のものを飲み込んで、

「やはり寝屋を探すか」

「そうするか。ネカフェのひとつやふたつ、探せばあるだろ」

「なぬ。どうせ官の金だというに、そんな質素なことでいいのか。こう、夜景の見えるレストランで優雅にワイングラスを傾けたりはせんのか」

「そこまで予算出ちゃいねえよ」

 東京の夜景を見ながら一杯。確かに、それは魅力的な話ではあった。金額や豪華さの問題ではなく――既に失われたものである「東京」の眺めは、現代を生きる者たちの誰一人として、楽しむことのできないもののはずだから。

 とはいえ、そんな贅沢を楽しんでいられる身分ではない。二重の意味で。

「間をとってもビジネスホテルだが、さてどうしたもんか――」


 少女が立っている。


 拓夢の全身が固まる。心臓だけが早鐘を打ち、ほかの部位はまるで動かない。特に眼球だ。縫い付けられたように、目の前の光景から離せない。

「お?」

 拓夢の視線をメリノエが追う。

 大きな交差点がある。

 時間のせいか、交通量はそれほど多くない。人の行き来もそれなりだ。信号待ちをしている何人かを目に留める。スーツ姿のサラリーマンが二人、女生徒が一人、買い物帰りとおぼしき主婦と幼い子供が一人ずつ。

「ははぁん?」

 得心したぞ、とばかりのいやらしい声。

 拓夢は体の自由を取り戻すと、平静を装って、

「何だよ」

「あれが、か」

「な……」

 ……んでわかったんだよ、と叫び出す寸前で、声を飲み込んだ。もう遅かった。やはりそうなのかと、メリノエは意地の悪い笑みをさらに深める。墓穴を掘った。それも、かなりの深さに、力いっぱい。

 改めて、視線の先には、一人の少女がいる。

 すっとした長身。背まで伸ばした黒髪。美人かと問われると、客観的なことは言えないぞと前置いたうえで、拓夢は心の底から断言する。世界一だと。

 寂院夜空。もちろん彼女だ。

 朝にも見かけて、少しとはいえ言葉を交わした相手が、そこにいる。

「そうか、あれがお主の心を捕らえたまま放さぬ、罪深き女か」

「おかしな言い方すんなよ、先輩は清純派なんだ」

「さほど胸が豊かなようには見えんが。お主の趣味とは違わんか?」

「だからそういう汚れた目で先輩を見るなって、あの人はあれが全部いいんだ」

「……むう?」

 メリノエは納得できていなそうな声を出して、首をかしげる。

「しかし、妙な時間に、妙なところにいるのだな。お主らの通っていたという高校、ここいらに在ったのか?」

「あ?」

 言われて。

 拓夢は初めて、そのことを違和感として認識した。

 もちろん、懐かしの学び舎である砦北大付属は、こんなところにはない。少なくともここは、自分の知る寂院夜空の通学路上ではない。

 時刻はすでに午後の8時。来訪者たちにかき回される前の世界は比較的治安がよかったとはいえ、制服姿の少女が一人で出歩くのにはあまり向いていない。

「先輩に限って、制服で夜遊びするタイプでもねえしな……」

「お主の知らぬ意外な一面というやつか。なんといったか、年上の男性と食事などを共にすることで小遣いを戴くという、見目の良い女生徒にのみ許された稼ぎが」

「違ぇから」

 メリノエの下世話な想像を、力強く否定する。

「なんか大事な用事があったんだろ、このへんの何かによ。たぶん、そんだけだ」

「何もわからんというだけのことを、自信たっぷりに断言するのう」

「うるせ」

 見回す――ビル街が広がっている。

 その中のひとつ、すぐ傍らに立つ、大きな病院に目が留まる。その正面玄関と交差点との位置関係的に、おそらく、夜空はつい先ほどまで、ここにいたのだろうと推測が立つ。

(誰かの見舞い、か? それとも――)

 そういえば、体が弱い人だったような気もする。

 気丈だったし、弱いところをあまり見せようとしないしで、そういうイメージは決して強くない。しかし、何度か眩暈やら何やらで保健室に担ぎ込まれる姿を見たような記憶がある。

「見るだけでいいのか?」

「ん?」

「愛しの相手と離れ離れだったのが、ようやくここまで近づけたのだろう? 満足するには早い。言葉は交わさずとも佳いのか?」

「……近づけちゃ、いねえよ」

 軽く、自嘲的に唇を曲げる。

 言葉ならば、すでに交わしている。

 朝の通学路で、これ以上ないほど情けない形で。

「距離ならもう、どうしようもないほど開いてる。オレの中の夜空先輩は、昔のままだ。でも夜空先輩の中のオレは――十五歳の拓夢は、もうどこにもいない」

 メリノエが、小さく首をかしげる。

 こちらの言わんとしていることが、伝わっているやらいないやら。

 まあ、どちらでもいい。図太くて無神経で無配慮で、ついでに来訪者でもあるこいつに、細かい人間の心の機微を理解してもらおうとは思っていない。

「よくはわからんが、だからもう、会う気はないと?」

「ああ」

 頷く。

「生きててくれたってだけで、その姿が見られただけで、最高に御の字だ」

 そう言って、背を向けた。

 言葉にしたのは強がりだ。会いたい、話したい、彼女に自分を認識してほしい。そういう思いは、胸の中で燻り続けている。何かの拍子に燃え上がってしまいそうだ。だから、早めに離れようと思った。

「つうか、宿だけじゃなくて、先に晩メシのことを考えねえと――」

 ちらりと、何の気もなく腕時計を確認した。現地の、つまりこの東京の現在の時刻が表示されている。午後8時09分、31秒。


 突然、悲鳴が聞こえた。


「――あ?」

 振り返った。

 車道を、直径20センチほどのボールが、転がっている。

 それを追って、小さな子供が、車道に飛び出している。悲鳴をあげたのは、その母親。姿勢を崩しながら懸命に腕を伸ばして、しかしその手は子供の背を掴めず、空だけを握っている。

(まじかよ!?)

 拓夢の頭の中で、火花が弾けた。

 考えるよりも先に、走り始めていた。そして走りながら、冷静に考えた。ここからでは遠すぎる。交差点を曲がって大型のバスが走り込んできている。あの位置、あの角度からでは、運転手の視界にあの子供は入らない。つまり、どうあがいても間に合わない。

 その判断を意識から蹴り飛ばし、拓夢は走った。

 届くはずもない手を伸ばした。

 そして、いや、だからこそ、見た。

 母親ではなく、拓夢でもない、また別の一本の手が、子供の襟に届いた。ぐいと引き戻し、体を入れ替えるようにして、その子供をバスの前から救い出したのを。

「あ――」

 駆けながら。

 手を伸ばしながら。

 拓夢はその一部始終を、見たのだ。


 黒い髪が、

 白い肌が、

 見慣れていた制服が、

 ――血に染まる。

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