1.思い出の10カウント
覚悟は決めていた。
どのような荒野を目にすることになろうと、動揺しない。それだけの心の準備をしてから、この作戦に臨んだ。
だからこそ、心は揺れた。
そこにあるものは、荒野でも廃墟でもなかった。それらのどちらとも似つかない、ごくありふれた、住宅街だった。
「嘘……だろ……?」
突破に失敗したのかと、まずは疑った。機械の不備かなにかがあったのではと。滅びた東京に踏み込むことができず、突入場所の周辺、神奈川か埼玉のそこらへんに落ちてしまったのではないかと。
だが、違う。
頭の片隅、埃をかぶっていた記憶が、少しずつ蘇ってくる。目の前の景色と照合し、結論する。自分はこの場所を知っている。自分はかつて、この場所にいたことがある。そして、自分は――
「――――っ!!」
確認しなければ。その想いが弾けた。
それ以外の悉くが、頭から消し飛んだ。
腕の中にあるものをその場に投げ捨て、マスクもむしり取り、立ち上がる。
「ぶぎゃ」
小さな悲鳴が聞こえた。振り返りもせずに「悪い!」とだけ言葉を残し、走り出す。
東京。
その街について想う。
滅びているだろうと、思っていた。覚悟をしていた。
廃墟となったそれを見届けるつもりで、ここに来たのだ。なのに。
(どういうことだよ、こりゃあ!)
失われていたはずの景色の中を、拓夢は走る。
◇
走りながら、いくつか確認する。
そして、通信機から作戦本部を呼び出そうとしても――通じない。妨害電波のような邪魔も検出できていない。廿六木たちから見れば、今の自分たちは、どうしようもないほど完璧な通話圏外にいるということだろう。
(言い換えりゃ、オレたちは間違いなく、 “
そこまでは、元々の想定通り。慌てるようなことではない。
そう、そこまでは。
電信柱や交差点で、現在地を確認する。東京都渋谷区。これは間違いなく、消失していた領域の内側にあった地名だ。時間を確認する。朝の6時半。
(……どういうことなんだよ、こりゃあ)
道行く人々の表情を確認する。誰も彼もが普通だ。疾走する拓夢を見て驚く者がいる程度。閉鎖された世界に生きる焦燥だとか、明日をも知れない我が身に対する絶望だとか、そういう強い負の感情は誰からも読み取れない。
人が増える。
壊れかけたパチンコ屋の看板。奇妙なオリジナルメニューを出している無国籍料理店。庭から強烈な花の匂いを漂わせている平屋のアパート。近所のご婦人たちのおしゃべり場と化している小さな写真館。
(まさか……)
足が自然に動く。遠くなっていた記憶がそれを導く。
忘れていたことが、次々に思い出される。
状況を理解できていない。確認しなければいけないことは数多い。パートナーを放り出してきてしまった。数々の問題を抱えたまま、それでも拓夢は走り続け、
(うちの
角を曲がる。
いろいろと、吹き飛んだ。
そこにももちろん、懐かしい街の景色が広がっているはずだった。モータースポーツ系に強い書店、のびた麺しか出さないラーメン屋、こぢんまりとした薬局とその店頭に立つプラスチック人形。
郷愁を誘うはずのそのすべてが、まったく拓夢の目には入らなかった。
かつて少年だった青年の目には、たったひとつだけしか入っていなかった。
一人の少女が、交差点で信号待ちをしている。
すっとした長身。背まで伸ばした黒髪。ぼんやりとしているようでいて、どこか凛々しさを感じさせる横顔。紺色のブレザー……砦北大学付属高校の制服に身を包んでいる。
まだ7時にもなっていない。一般の通学にはずいぶんと早い時間だ。少女のほかに生徒の姿はない。いたとしても、拓夢の目には映らない。
「あ……ぁ……」
拓夢の呼吸が荒くなる。そして、
「夜空先輩!?」
ひとつの名前が、喉の奥から迸った。
同時に地を蹴る。
調停者免許更新時に測定したデータでは、彼の100メートル自己ベストは11秒強である。それに限りなく近い速度で、拓夢は距離を詰めた。そして衝突の寸前に急ブレーキ。容赦のない土煙を巻き上げながら、少女の前に立つ。
当の少女にしてみれば、もちろん、何が起きているのかもわからなかっただろう。突然名前を呼ばれ、大の男が大迫力の猛スピードで近づいてきたのだ。そして、
「先輩……あ、ああ……本当に……」
今にも泣き出しそうな顔で、おろおろし始めたのだ。
「まさか、本当に、無事で……ああもう……」
その腕は、所在なげに宙をさまよっている。全力で抱き着きたい気持ちを、かろうじて自制しているとでもいうように。
少女の表情から混乱が薄れ、わずかなりと、状況を察した顔になる。
その目に、困惑と警戒と侮蔑の入り混じった光が宿る。端的に言ってしまえば、変質者を見る目である。
「えっと」
少女は一度つばを飲み込んでから、おずおずと、
「どちらさまで?」
尋ねる。
めちゃくちゃに怪しまれている。そのことに拓夢は気づいているが、だからといって、昂る自分自身を止めることはできない。
「オレだよ、畔倉拓夢!」
叫ぶように、答えていた。
「は?」
「だから拓夢だって、
突然、見えている景色が、右にズレた。
ついでに、ぐらりと傾いた。
こめかみに強い衝撃が入ったのだと、訓練された体が即座に判断。倒れ込みそうになったのを堪え、消し飛びそうになった意識を繋ぎとめる。
蹴りだ、と拓夢の意識の片隅が分析した。今自分を襲ったのは、恐ろしく正確で迷いのない革靴の一撃だと。
「……あのねえ、おじさん?」
蹴り足をゆっくりと引き戻しながら、噛んで含めるように、少女は言う。
「どういうつもりかわからないけど、笑えない冗談は犯罪よ?」
「え……いや、それは」
「わたしのゆめくんはね、一生懸命なところがかわいい、十五の男の子なの。わかる? おじさんみたいな職業変質者とは、性別以外の何もかもが違うのよ」
「え……」
信号の色が変わる。それ以上の問答は不要とばかりに、「ふん」と一度だけ鼻を鳴らし、少女――寂院夜空はその場を立ち去った。
肩を怒らせて歩くその後ろ姿を呆然と眺めてから――
「……あー……」
拓夢は、大の字になって、その場に倒れた。
視界いっぱいに、青空が広がる。
効いた。
蹴りの一撃はもちろん、その後に続いた一連の言葉が。立っていられないくらい、ここがリングの上なら余裕で10カウントをとられそうなくらい、効いた。
考えてみれば、いや考えるまでもなく、当たり前のことだ。
どういうわけか、ここに広がっているのは2002年当時の東京。
そこに生きているのは2002年当時の寂院夜空。
そして彼女の知る畔倉拓夢とは、当然のことながら、2002年当時の鼻たれ坊主のことなのだ。
不老存在であるメリノエと長く
突然現れた見知らぬおじさんが少年の名を名乗っても、そりゃあ、まともに取り合ってもらえるはずがない。蹴りの一発で済ませてもらえてありがたいくらいだ。いやはやまったく。
「は、ははは」
自分の感情が、よくわからない。
けれど、笑いが溢れてきたということは、喜んではいるのだろう。
彼女に会えた。生きて動いている彼女を見られた。声を聞けた。ただそれだけで、充分に嬉しい。
「……かわいい男の子、かあ……」
笑いながら、ぽつり、夜空の言葉の一部を繰り返す。
当時の自分は、かっこいい男を目指していた気がする。それこそ、憧れの先輩の力になって、何かあったら守れるような自分になりたいと考えていた。それなりに努力して、それなりには達成できていたと自認していたのだけれど。
そんなところを「かわいい」と思われていたというのは、今さらながら、うん、ほんの少しばかり、キツいかもしれない。
喜びと、心の痛みとが、拓夢の中で入り混じって、複雑な感情のスープを作っている。
「ずいぶん楽しそうだな?」
頭の上から、呆れたような声が降ってきた。
そちらに目を向けるまでもなく、視界いっぱいに広がる青空の一角に、メリノエの整った顔が入り込む。
「……おう」
「『おう』ではなかろう。まったく、ひとを猫の子のように放り出しおって」
頬をふくらませる。
「悪い悪い」
拓夢は身を起こす。
「何をしていたのかは知らぬが、吾の目の届かぬところで勝手に幸福になるな。つまらんだろうが」
「悪い悪い」
埃を払う。
改めて自分の格好を見る。都市迷彩の作戦服。廃墟と化しているはずの東京での活動を想定してのチョイスだが、とりあえず見た感じは平和なこの街中では、何というか、だいぶ浮いていると言わざるを得ない。
「にやけているな」
「ん、そうか?」
言われて、自分の頬に触れてみる。なるほど、笑っている。
「良いことでもあったのか?」
「まあ、そうだな。プラスマイナス複雑だけどよ。総合的には、オレのこれまでの人生がまるごと報われた気分だ」
「では何か? 吾は、それほどの重要イベントをまるまる見逃したことになるのか?」
「そういうことになるな」
笑顔で頷く。
その頬を、メリノエの細い指で、思い切りつねられた。
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