5.東京ソーマトロープ~再々回転~

 んふんふんふ。

 メリノエが、口をふさいだまま、笑い続けている。

 その頭を、軽く平手ではたいてやる。

「痛いぞ」

「笑いすぎだ」

「仕方がなかろう夢太郎。いやあ、長くお主を見てきたが、さっきの顔は五本の指に入るスマッシュヒットだ。これだけで白飯が無限に食える」

 何ともむかつく笑顔だった。

 文句を言ってやりたかったが、痴態を晒した自覚はある。一瞬だけ悩んだあげく、

「……野菜も食えよ」

 よくわからないことを言ってしまった。

「それにはもう少し、主菜を盛ってほしいものだな。どうだ夢太郎、いっそ明日もあのキャラでいくのはどうだ夢太郎」

「その名を連呼すんじゃねえ」

 とっさとはいえ、妙な偽名を作ってしまったものだと思う。しばらくはこれでからかわれ続けるのだろうと思うと、少々気が重い――


 カチリ、


 その音を聞いた。

 弾かれたように、メリノエと二人、空を見上げる。裸眼で見るそれは、それまでとまるで変わったようには見えなかったが。

「スイッチが入ったか」

「そのようだな」

 時計を確認する。あれから十分以上が経っている。十分そこそこしか経っていないとも言える。有意の差とも、ただの誤差とも言い張れる、微妙な時間だ。

「……まさか、夜空先輩」

 交通事故による死こそ防げたが、その後の彼女の無事を確認していない。たった今、自分たちの見ていない場所で、彼女が改めて命を奪われたのではないか。そうして、ループする一日の辻褄は合わされたのではないか。

 目を離すべきではなかったのかもしれない、と一瞬だけ考える。すぐに振り払う。

 それこそ、考え続けたらきりがない。今はそれよりも、彼女を含むこの東京が、そのような状況になっている事実そのものに向き合うべきだと。湧き上がる焦りを、強引に理性で抑え込む。

「始めるぞ」

 メリノエが片目を閉じる。

 ふちの黒い眼鏡を手渡してくる。受け取り、かける。

 視界が切り替わる。

 何もかもが灰色に染まった世界を見る。

 “昨日”見たものと違いはないように感じた。同じように静止し、同じように短冊に割れて、同じように灰色に染まり、同じように再構築されようとしている。

「ふんっ」

 メリノエが大きく腕を振った。その軌跡を追うようにして、花弁の形をしたあの光が、大量に弾け散る。

 虫眼鏡、鋏、金梃子、鳩時計、船の舵輪――

 今朝も見た大量の道具が、光の中から現れる。

 コルク抜き、ラジオペンチ、台所用スポンジ、懐中電灯、でんでん太鼓――

 今朝は見なかったものも出てくる。

 それらはすべて、幻のように不確かな映像だった。どれもがわずかに透けていて、それら自体がかすかに輝いていて、そして一瞬ごとに違う道具へと姿を変えていた。

 ちょうど万華鏡を覗き込んでいるような気分だった。見えるもののすべてが、その時その瞬間に見えているものでしかない。本質はどこか遠いところにあり、それは目の前に見えているはずなのに、理解できない。人間の目と脳とでは、ただ美しいものだとしか、認識できない。

 そうしているうちに、それらは、人の手になる道具の姿をとることをやめた。虹色に輝く、多面体の結晶。メリノエの周囲を飛び回りながら、時に姿を消し、また出現し、輝きを強め、また弱める。

 コォォン、コォォン、と共振音が無数に重なり、耳元に響き渡る。

 ――メリノエが、姿勢を崩す。

 腕を伸ばし、支える。

「すまんな」

「気にすんな、集中しろ」


 ひとが何者かの「能力」を語るとき、それは必ず、表面的なものになる。

 たとえば、鳥には空を飛ぶ「能力」がある。しかしこれは、単体で独立した特徴ではない。大きな翼を持つこと、その翼で揚力を生むに足るだけの筋力を持つこと、全身が極限まで軽量化されていること、地上生活では使わないような特殊な平衡感覚を備えていること、そういった諸々の特徴すべてが複雑に絡み合った結果として彼らは空を飛ぶ。

 しかし、それら生態や構造の違いまで含めてすべてをリストアップすることは現実的ではない。だからひとは、表面の薄皮一枚だけを拾い上げて、「飛ぶ『能力』」というを貼ることで理解を済ませようとする。

 ――調停者たちの間で共有されている資料によれば、特殊来訪者ID.86の個体Μειλινοηメリノエは、限定的な装備生成能力を持つ、とされている。

 もちろんこれもまた、本質からは程遠いだ。彼女の存在を、その生態を、正確に言い表してはいない。


(たぶんこいつの本来の力は、地球人の尺度から見れば、全能に近い)

 長い付き合いだ、拓夢はメリノエという存在とそのについて、ぼんやりとだが、理解している。

(全能に近いから、逆に、自分だけじゃ何もできない。地球の道具の形状を通して初めて、それは具体的な力として振るえる――)

 たとえば、メリノエの力は、直接「切る」ことには使えない。だからこいつは、鋏というアイテムを夢から取り出す。鋏は「切る」ためのものだから。鋏という形状を経由していれば、「切る」という現象をいくら起こしても筋が通るから。

 科学的な説明にはほど遠い、純度100パーセントの屁理屈だ。が、その屁理屈こそが、メリノエという存在を縛る現実なのだろう。拓夢はそう思っている。

 地球人に理解できる現象を起こすために、地球人の使う道具を使う。だから、メリノエはいつだって、用途のわかりやすい道具ばかりを出してきた。特殊弾もそう。眼鏡もそう。防護服もそうだし、包帯もそうだった。

 なのに。

 今メリノエの周囲を飛び回る多面体は、拓夢の知るあらゆる道具に似ていなかった。素材は目当もつかないし、正確な形状すら認識できないし、用途などもちろん想像もつかない。地球上に存在しない、地球人が使わない道具。

 総合すると、こういうことだ。

 メリノエは、本来の彼女にはできないはずのことを――無理を、しているのだ。

(――ったく、こいつは)

 心配していない、と言えば嘘になる。だが、その必要がないことも理解している。こいつ自身ができると言って始めたことだ、少しだけ待っていれば、どうせその通りになるのだろうから。だから、拓夢にできることは、せいぜいこの小さな体が倒れないように支えることくらいだ。

 不敵にメリノエが呟くと、右の手指しゅしを、まとめてひねる。

 瞬間、正体不明だった結晶多面体たちが、いっせいに姿を変えた。

 まるで毛糸玉のように、無数の黒い繊維に、ほどけた。

「糸……か……?」

 拓夢は呟く。

 糸。このうえなくシンプルな、原始の道具のひとつ。

 それは繋ぐもの。結ぶもの。手繰り寄せるもの。ならば、メリノエの操るそれは、おそらくは、そういった機能を馬鹿げた領域にまで高めたうえで実現するはずだ――

「……馬鹿な」

 メリノエが、うめいた。

 珍しい、と思った。いつも余裕綽々の彼女らしくない、本気の苛立ちを感じた。

「その地点にまで至りながら……なぜ、その道を選ぶ……」

 続くそのうめきの意味は、拓夢にはわからない。と、


 穴に落ちた、と感じた。


「んなぁっ!?」

 例によって例のごとくの、疑似的な浮遊感。七色の光。

 どこでもない空間の中を、上下左右どちらでもない方向へ、落ちてゆく。

 自分が極小へと圧搾され、同時に極大へと拡大される、異様な感覚。

(いきなりかよ、容赦ねえな!?)

 中野区の朝へと落ちていくこの「突入」も、今回で三度目である。不本意ながら、少しは慣れた。だから改めての驚きこそないが、それで不快感が和らぐわけでもない。

 しばらくして――五感が戻ってくる。

 本物の浮遊感に包まれる、つまり体が落下を始める。

「っと」

 受け身をとった。メリノエを潰さないよう細心の注意を払いつつ、見覚えのあるアスファルトの上を転がる。眼鏡までは守り切れず、地面に落とす。小さな澄んだ音を立てて、眼鏡は光に解けて消える。

 ふぅ、と一息。

 見回す。背の低いコンクリート塀。年季の入った木造家屋。おんぼろのアパート。そのすぐ隣に、比較的最近に建て直されたと思しき三階建てのマンション。がらがらの月極駐車場。缶ジュースの自動販売機。チェーンの薬局の看板――

 間違いない。

 最初の突入の時に見た、そして“昨日”のループの時にも見た、あの場所だ。

「かくて三日目は始まれり、てか」

 立ち上がる。

 それから、腕の中のメリノエを下ろす。

「大丈夫か」

「うむ……」

 声が、少し沈んでいるように感じた。

「おい? マジで大丈夫か?」

 メリノエの体は、変化を知らない。いくら食べても、太らないし痩せない。殴られようと切られようと、傷つくことも血を流すこともない。

 こいつの体は、そういうふうにはできていない――ということらしい。当人いわく、水面に映る鏡像に石を投げても、鏡像が血を流すことはないだろう、とか何とか。よくわからないが、流血や外傷という形でダメージを受けることはないし、逆にダメージがそれらの形でわかりやすく表に出たりもしないのだと。

 当人いわく、「このアバター自体がSNSのプロフィールアイコンのようなものだからな」「吾が変える気になるまでは変わらぬよ」とのこと。例によって意味はわからない。

 とにかくそういうわけだから、先ほどの無理が彼女にどのような負担を与えたのかを、外見から知ることはできない。

 鼻血の一筋も出してくれれば、わかりやすいというのに。

「無茶すんな」

 気遣いのつもりでかけたその言葉も、口にした当人が呆れてしまうほど白々しい。何が彼女にとっての無茶なのか、拓夢はまるで理解していないのだから。

 パートナーとは何なのだろうと、情けない疑問が浮かぶ。こいつに何もしてやれないこの憐れなでくの坊に、そんなものを名乗る資格はあるのだろうかと。

 メリノエは――特大のあくびをひとつ漏らしてから、

「心配はいらん」

 やはり晴れない声で、そんなことを言う。

「多少は手こずらされたがな。目当てのものは全て読み取れた」

「いや、それはどうでもよ……かねえけどよ、後回しだ。お前自身はどうなんだ、疲れたなら言えよ、言ってもらわねえとわかんねえんだからな、お前の場合」

「む?」

 メリノエは目を丸くして、

「ああ……そうだ、そうだったな」

 小悪魔のように笑って、からかうように、

「いや実は、こう、エネルギー的なものを使い果たして活動限界がオーバーワークでな。今にも死者の河レーテーを泳ぎ切りそうだ。今すぐ人肌のぬくもりと甘味を補充せねばピンチなのだ、ああ困った」

 そんなことを言いつつ、身を寄せてくる。

 そのまぶたが、半ば近く落ちそうになっているのが見てわかる。眠いのだろう。それだけの力を、夢から引き出していたのだろう。

 ああ――畜生。まったく、こいつは。

 いつも通りのふざけた物言い、余裕としか見えない振る舞い。しかし実際に、その肌はいつもよりいくぶんか冷たくなっているように感じられる。こいつの肉体自体には変化などないはずなのに、そう、感じられてしまう。

「ったく、ふざけんな」

 うめくように言い、拓夢は少女の体を、改めて抱きしめた。

 やはり冷たい、と感じた。

 触れている場所から、熱が奪われるような気がした。本当にそうであってほしいと願った。自分は無力だ。そんな無力な畔倉拓夢にも、こいつに対して分け与えられるものがあるというなら、遠慮なくガンガン持っていってほしい。

「お……お?」

 拓夢のそういう反応は想定していなかったのだろう、メリノエの当惑の声が聞こえる。無視して両腕に力を込める。

 半ば忘れそうになっていたが、ここは朝の住宅街である。

 登校中とおぼしき小学生が何名か、驚いた顔でこちらを見て、すぐに目を逸らして歩き出す。あまりよくないものを見せてしまったような気がする。いやまあ、今はそんなことを気にしている場合でもないか。


 そんな風にして、拓夢たちにとって三度目の、6月5日が始まる。

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