4.彼の名は夢太郎

 冷たいものが、頬に落ちてきた。

 と思った次の瞬間には、大粒の雨が、怒涛のように降り注いできた。


 全身ずぶぬれになる前に、なんとか、屋根のあるショッピングモールに逃げ込んだ。

 ばらたたたたたたた。

 雨粒が屋根を叩く大きな音を全身で感じながら、自販機のコーヒーを喉に流し込む。

「……そういや、この時間には派手に降るんだよな、忘れてた」

「前の周回の知識で賢く立ち回る、ループものの基本であろうが。情けない」

「何でオレ一人が悪いことになってんのかね?」

 舌がコーヒーの苦みを感じれば、それだけで眠気は薄れる。カフェインが効いたというよりは、毎朝飲み続けているうちに、そのように体が条件付けされていただけだが。

「それで、ここからどう動く?」

 やたらと甘そうな缶のミルクセーキを飲み干しながら、メリノエが訊いてくる。

「そろそろ、“昨日”の例の時間が近いが」

「そうだな」

 時計を確認する。既に午後の7時を回っている。

「同じ時間に、また巻き戻りが起きると思うか?」

「現時点では何とも言えぬがな、可能性はそれなりにあるだろう」

 拓夢はタイムループというものをよく知らない。聞いた話でしか把握していない。だから、そう言われれば、そういうものかと納得するしかない。

「解析するんだろ? 下準備とかは要らないのか?」

「もう済んでいる。後はただ、その時が来るのを待つだけだ」

「そうか……」

 頭を掻く。

「どうせ巻き戻るってんなら、あんま意味はないのかもだけどよ」

「うむ」

「自己満足に、付き合ってもらっていいか?」

「うむ」

 メリノエは、空っぽの空き缶を、錆の浮いたくずかごに放り込む。

「わざわざ尋ねるあたり、お主もまだまだ、自分がわかっておらぬな」

「あ?」

「間に合わなかった過去に、届かないことなど百も承知で、それでも手を伸ばさずにはいられない――今のお主はとても人らしく、そして畔倉拓夢らしいのだ」

 くすくすと笑う。

「ならば、吾が異を唱えるはずもなかろう。嫌と言われても、隣で支えるのみだ」

「……そうか。まあ、お前はそうだよな」

「うむ。吾はそうなのだ」

 二人、並んで歩き出す。

 ショッピングモールの屋根を叩く雨音が、弱まっていく。雨が上がる。


 さて、目的地はもちろん、あの交差点である。

 その少し手前で、拓夢は足を止めた。そのまま体を、交差点からは死角となる暗がりにねじ込む。

「……こら」

 メリノエが、咎めるような声を出した。

「何だ?」

 小声で答えた。

「何をしている?」

「見ればわかるだろ」

 身を小さく屈め、電信柱の陰に隠しながら、拓夢は胸を張った。

「“昨日”と同じアプローチじゃ進展がねえからな。やり方を変えるんだよ。これで何かの展開が変われば、ループのルールのヒントになるかもだしな」

「それっぽいことを言ってはいるが、今のお主は、傍から見ればただの変質者だぞ」

「…………」

 言われてみれば、確かに。そんな気もする。

「そもそも、まるで隠れられておらんしな」

 それも確かに。拓夢の体格に比べて、電信柱というやつは、あまりにも細すぎる。

 調停者としての免状を取得する際に、簡単な潜伏技術についても訓練は受けている。その身の屈め方は、素人のものではない。しかしそのせいで、余計に怪しい姿を晒すことになっている。

「疚しいことはないのだ、堂々と出ていけばよかろうに」

「いや、それはだな」

 確かに、「疚しい」と言い切れるような事情があるわけではないのだが、それとは別に、顔を見られたくないという気持ちはあるのだ。

 “昨日”、手ひどく失敗してしまったから。あの寂院夜空の前に、この、おじさんになってしまった畔倉拓夢が顔を晒すという行為に、抵抗がある。

 もちろん、当の夜空は“昨日”のことなど、覚えていないだろう。顔を合わせたところで、「かわいい後輩を名乗る怪しいおじさん」扱いはされないだろう。初対面の反応しかされないはずなのだが……それはそれで、なんというか、やりきれない。

 そんな難しくも面倒なおじさん心が、拓夢を、電信柱の陰に潜ませる。

「知っているか? この国におけるストーカー規制法の制定はちょうど2000年、つまりこの世界でも、つきまとい行為はきっちり犯罪認定されているのだぞ」

「何でそんなことに詳しいんだよ、お前――」

 拓夢は口を閉じた。

 すぐ目の前を、黒髪の少女の姿が横切って、交差点へと向かう。

 赤信号を前に、立ち止まる。

「――先輩」

 小声で、呟く。

 10メートル近い距離。やや斜め後ろからの、横顔を見つめる。

 生きている。動いている。

 体感半日ほど前に、その死を看取ったばかりの相手だ。時間が戻ったと聞いてはいても、こうして無事な姿を見ると、やはり安心する。そして、

「やっぱり美人だなあ……」

 惚れた弱みの色眼鏡かもしれないが、構うものか。寂院夜空は畔倉拓夢にとって、世界一の美女である。その事実は長い時を経ても、年の差が開いてしまっても、まるで揺らいでいないのだ。

「やはり、通報してしまったほうがよい気がしてくるな」

「う、うるせえ、これはあれだ、純愛なんだよ」

「出てくる言い訳まで、純正のストーカーそのものか」

 自分でもそう思う。でも通報は待ってくれ。

 時間が近づいている。

 見覚えのある親子連れが、交差点へと歩いてくる。

 若い母親と、ボールを持った小さな子供。赤信号を見て、立ち止まる。

 母親がふたつ折りの携帯電話を取り出し、ぽちぽちと操作を始める。子供は退屈そうに、鞠つきの要領で、ボールを地面に跳ねさせ始める。

「拓夢」

「わかってる」

 ゆるみきっていた顔を引き締める。

 腕時計を見る。午後8時9分、40秒。41秒。42秒……


 ボールが子供の足に当たる。

 あさっての方角へと跳ねる。

 子供は「あっ」という顔になり、それを追いかけようとする。母親が携帯電話から顔を上げる。黒髪の少女が動きだす。どちらも間に合わない、ボールはそのまま車道のほうへと転がっていく――

 拓夢が、それを止めた。

 かがみ込んで子供と視線の高さを合わせ、「危ないぞ」と一言。ボールを手渡す。子供はきょとんとした顔で、それを受け取る。すみませんすみませんありがとうございますほらたかしもお礼言ってああもう本当にすみませんすみません。青い顔でまくしたてる母親に、いやいや大したことはしていませんよと笑顔で答える。

 一台のバスが、勢いよく、すぐ傍らを走り過ぎて行く。

 それ以上誰が何を言い出すよりも早く、そそくさとその場を離れる。


 角をひとつ曲がり、交差点から見えないところに入って、

「ミッションコンプリート」

 深く息を吐いた。

「あれだな。歴史を変えたような気分になるな」

「似たようなものではあるだろうよ。変えた歴史が、また変わる可能性があるだけだ」

「それはまあ、なあ」

 どうせまたループが起きるのだろう。わざわざ拓夢が防がなくても、事故はなかったことになる。そして、“翌日”、また同じ時と同じ場所で、同じような危機がやってくる。子供が道路に飛び出し、夜空がそれを助けて、死ぬ。

 特定の一日の拓夢が何をしようと、その次の日に起きることには関係がない。時間がループしているとは、そういうことのはず。

 そう思えば、虚しい気持ちが湧いてくるのも確かだ。だが、

「それでいいさ」

 拓夢は肩をすくめた。

「オレがやっておきたかったから、やったんだ。自己満足で動いた以上、満足はしてるし文句はねえよ」

「立派なことだな」

 メリノエは頷いてから、あたりを見回す。

「立派ついでに、どうやら朗報ひとつだ。お主の働きのおかげかはわからんが、変化はあったようだ。がまだ、終わっていない」

 腕時計を見る。午後8時10分、53秒。54秒、55秒。

「……そうだな」

 拓夢は空を仰ぐ。赤と青のグラデーション。あの、怖気の走るような冷たい灰色には、まだ染まっていない。

「まさか、あれか。ほんとに、先輩の死でループが起きてたのか?」

 あの来訪者の日から、この閉鎖市街の外では、決して短くない時間が経っている。

 もしも閉鎖市街ここでも時間自体は流れていて、ただ進んでいなかっただけだとしたら。何万という単位の巻き戻りをして、結果として立ち止まっていたのなら。

 そして、

 想像し、血の気が引いた。

「結論を焦るなと言っただろう」

 メリノエはのんびりと答える。

の違いは、この事故の有無だけではない。まるで関係のないところに引鉄トリガーが隠れている可能性はまだまだある。慎重に考えねばならないところだぞ、そこは」

「そう、か」

「なに、そう難しい顔をするな。正答はもう目前だ。吾等はもとより、推理パートを不正チートですっ飛ばす心算つもりでいるわけだからな――」


「あのっ」


 不意打ちだった。

 声を、かけられた。

 記憶にある、いや、忘れられるはずのない声だった。

「は」

 拓夢の全身が、凍り付いた。

「あの、お話し中すみません」

 再び声をかけられる。

 目を丸くして振り返る。

 黒髪の少女が立っている。もちろん彼女だ。寂院夜空。間違いない。しかし拓夢は目を疑う。なぜここに彼女がいる。なぜ彼女が自分を見ている。話しかけている。今日の自分たちには、面識などなかったはずなのに。思考が止まる。

「な……」

 つばを飲み込む。

 何かを言わなければいけない。

 もう不審人物とは思われたくない。ならば、紳士的に振る舞わなければいけない。そうだ紳士になれ。紳士って何だ。こういう時にどういうふうに喋るんだ。パニックを起こしたままの頭で一生懸命に考える。

 精一杯の愛想笑いを浮かべ、とりあえず頭に浮かんだ言葉を、そのまま口にする。

「……何かご用ですかな、麗しいお嬢さん?」

 上ずった声と、よくわからない口調。

 隣のメリノエが、そっぽを向いて噴き出した。夜空はそれには気づかなかったらしく、

「ええと」

 勢いよく頭を下げる。

「ありがとう、ございました!」

「……何の話かな?」

「さっき、子供を助けたじゃないですか。こう、さりげない感じでしたけど、ちゃんと見ていましたよ」

「あ、ああ。あれか」

 初めて思い至った、という体裁で頷いてみせる。

「別に、大したことをしたわけじゃない。お礼の言葉なら、彼のお母さんのほうから既に聞いた……あー、君もあの子の親戚ということかな?」

「いえ、知らない子でしたけど」

 首を振ってから、不思議そうな顔になって、

「でも、助けられたのはあの子だけじゃない……ような気がするんですよね、ヘンな話なんですけど。わたしも、お礼を言わないといけないような感じがして」

 それは。

(確かに、あのままだと先輩こそ死んでたわけで――)

 口を開くとうかつなことを言い出しそうだ。拓夢は無言で、頬の内側を噛む。

「ボールが転がったあの時、あぶない、って思って。助けなきゃ、ってなって。それで、頭の中が真っ白になって。お兄さんがいなかったら、わたし、何も考えないで追いかけてたかもしれないんですよ。それで、大ケガしてたかもしれない。うん、そんな気がする、きっとそうだ」

 夜空は何やら自分一人で納得し、

「だから、やっぱり、ありがとうございました」

 再び頭を下げる。

「……やはり礼には及ばない。が、そこまでの気持ちを無にするのは忍びないな。感謝だけは受け取ろう、どういたしまして、お嬢さん」

 妙なことを言わないようにして、ついでにキャラも崩さないようにしつつ、なんとか言葉を絞り出す。

「無事でよかった」

 その一言が、何の気負いもなく、するりと出てきた。

 いけない、と思った。

 紳士ぶって話しているつもりが、畔倉拓夢の素の感情が抑えきれなくなっている。これ以上ここにいると、ボロが出るかもしれない。

「それでは、オレ、いや私はこれで。お嬢さんも、気をつけて帰るといい」

「あ、待って」

 逃げようとしたところを、引き留められた。

「ま……まだ、何か?」

「いえ、その。自分でもよくわからないんですけど、ええと」

 戸惑いの顔のまま、夜空は、拓夢の顔を覗き込んでいる。

 視線が、正面からまっすぐにぶつかり合う。

「なにか、忘れているような……ん、んんー?」

 その距離が、どんどん近づいてくる。

 身長差はある。が、構わず夜空はつま先立ちになり、顔を顔へと寄せてくる。

「お、お嬢さん!?」

 全力で突き放す、のはできないので、両手を上げて降参の意を示す。

「どういうつもりかわからないが、そういうのはいつの時代も、よくないと思――」

「ゆめ、くん?」

 ぽつり。

 本来なら聞き取れるはずもない小声で、夜空がそう呟いた。拓夢はそれを聞いた。

「え、あれ? なんで? なんでゆめくんの名前なんて」

 瞬間、夜空はようやく、我に返ったらしい。そして、自分が年上の男性に超接近している事実にも気づいたらしい。

 顔を赤くして、さりげなく距離をとる。

「は、はは……」

 拓夢は安堵する。これ以上至近距離にいたら、たぶん色々とまずいことになっていた。さっきから、早鐘ビートを刻む心臓がうるさくて仕方がない。

「…………」

 どうやら、まだ終わっていない。

 少女の視線が、常識的な距離こそ離れているけれど、まだ拓夢の顔から離れていない。

「あの」

 夜空は躊躇いがちに、訊いてくる。

「おかしなことを訊くみたいですけど、もしかして、ゆめくんの、ええと、畔倉拓夢くんの御親戚の方だったりしますか?」

 ぐ。

 ド真ん中に、ストレートの剛速球が飛んできた。

 しかし、どう答えればいいのだろう。「ゆめくん」と拓夢の顔立ちが似ているというのは当たり前(何せ本人なのだから)だが、他人の空似と惚けることはできる。しかし、何やら妙な確信を抱いてしまったらしいこの少女に、うかつな嘘を並べるのはまずいような気もしている。

 ろくに回らない頭で、それでも拓夢は少しだけ考えて、

「……拓夢の叔父で、畔倉夢太郎と言います」

 何言ってんだオレ。もう少しマシな言い訳はなかったのかオレ。

 メリノエが体をの字に折って、苦しそうに腹を押さえている。あとでしばくと心に決める。

「あ、やっぱり! 目元とか、すごくそっくりなので」

「ははは。拓夢のお知り合いですかな?」

「あ、同じ高校でして。ゆめく……拓夢くんとは、良い友人付き合いをさせていただいています……今のところは、ですケド」

「今のところは?」

「ええと、もしかしたら、金曜日あたりに、関係が変わるかも、みたいな……まだわからないんですけど……あはは、なに言ってんでしょうね、わたし」

 細い声。夜空は顔を赤くして、目をそらす。

「ほ、ほほう。これはこれは、あいつも隅に置けない」

 ――金曜日。

 遠い約束のことを思い出す。かつての拓夢少年が、思いを伝えるために、愛しの夜空先輩を呼び出そうとした。それが、あの時と同じ週の金曜日。

 忘れないでいてくれたのだ、と思う。

 彼女にしてみればその約束をつい昨日交わしたばかりなのだから、よく考えれば、覚えていて当たり前ではある。だが、それはそれとして、嬉しいものは嬉しい。目頭が熱くなるのは止められない。

「なんていうか、おかしな感じなんです。ゆめくんとずっと会えてないみたいな、ずっと会えないみたいな、そんな気がして。昨日も、学校で会ったばかりのはずなのに」

「……そう、なのかい?」

 はい、と夜空は頷く。

「なので、彼に伝えておいてくれませんか。寂院が会いたがっていたと」

「ははは」

 朗らかな笑い声の裏側に、拓夢は、今にも爆発しそうな感情をまとめて隠す。

「約束します。確実に、拓夢に伝えておきましょう……夜空先輩」


      ◇


 さて、奇妙なその男と別れた直後の、寂院夜空の話である。


 不思議な感じの人だったな、と。

 自宅への道を歩きながら、夜空はそう思った。

 初めて会ったはずなのに、そんな気がしない。ゆめくんと雰囲気が似ているけれど、彼にはない、謎の……ミステリアスさ? のようなものがある。

 もう少し話していたかったような気もする。これといって話題があるわけでもないけれど、なんとなく。

「…………んー?」

 足を止めた。

 違和感があった。

 少し考えて、気付いた。彼は今、別れ際に、こちらを『夜空先輩』と呼んだ。けれど、よくよく思い出せば、自分は彼に、「寂院」という苗字しか名乗っていない。彼は、寂院夜空の名も、ゆめくんの先輩であるということも、知らないはずだった。

「え……これ、どういう……」

 慌てて振り返る。

 別におかしなことじゃない、とも思う。

 実はあの夢太郎氏は、ゆめくんと学校生活の話をしているのかもしれない。親戚なのだからありえない話じゃない。夜空先輩という想い人の話まで聞いていて、先ほどの会話の中で、ああこの人がそうなんだなと納得したのかもしれない。ふつうに考えたら、それしかない。


 いや、違う。


 わけのわからない確信が、胸の中にある。

 うまく説明できないけど、そういうことじゃない気がする。

 彼は――畔倉夢太郎を自称する彼は、そうじゃない。ゆめくんから聞いたというのとは別の形で、この寂院夜空のことを知っていたのだ……という気がする。

 わからない。わからないのは、焦る。

 走り出していた。来た道を引き返していた。

 先ほどの交差点の近くまで戻った。しかし、彼の姿はもう、どこにもなかった。

「…………」

 立ち尽くす。

 理由もない焦燥が、胸の中で膨らんでいく。

 あの人を逃してはいけなかったのだという、意味不明の確信がある。


 ――遠くの空に、鴉が鳴く。

 太陽が沈んでいく。

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