9.クロクゥス(3)

(く、そ――)

 唇の端を噛みちぎり、痛みで意識を保とうとする。

 しかし抵抗は虚しく、見ている景色が急速にぼやける。時間の感覚が薄れていく。ここが現実だという認識が霞んでいく。自分は夢を見ているのではないかという思いが強くなる。夢と現実が融け合ってゆく。

 すべてから、現実感が消えていく。

(あ、あ――)

 それでも、寸前までの勢いのままに、拓夢の体は最低限の動きを果たしてくれた。


 勢いのままに拳を?

 振るった。

 なにかを、なぐった?

 ような気が? する?

 なにかが、ふきとんだ?

 のが見え、た?


 ――そうだ、いま自分は戦闘中だ。集中しろ――

 ――目の前に敵がいるはずだ――それも強敵だ――

 ――強敵ならたぶん強いだろうし――

 ――強いということはデカかったり固かったりするはずで――

 ――目の前にいるものの姿がぼやけてよく見えないけれど気がつけば見上げるほどデカくなっているし金属の塊でできているし棘がたくさん生えているしどうしてこんなものと戦わなきゃいけないんだ世界は平和に包まれているんじゃないのかそんなわけがないだろうだからオレたち調停者は日夜戦っているんだここでテーマソング流してくださいパーパパパーン――


 そこにあるはずの現実が、感じ取れない。

 目は開いているし、脳まで情報は届いているはずなのに、認識ができない。


 落下? する? している?

 体が、地に、打ち付けられる?

 痛み? が全身に走り抜けて、る?


 ――立ち上がらないと――

 ――立ち上がるって何だっけ――

 ――両足を動かすんだ、両足ってどこにあったっけ、いや先に腕を使って上半身を起こすんだ、腕ってどこに生えてたっけ、動かし方が思い出せない、そもそも先に空気を吸わないと体は動かないぞ、でも空気ってどうやって吸うんだっけ、やばい苦しい、息のやり方を思い出せ、そういえば何かをしなきゃいけなかった気がする――


「――か、は、」

 目前で、同じように落下したはずの何かが、ゆっくりと、立ち上がる。

 その気配を、感じる。

 拓夢は、立ち上がれない。

 体を動かさないといけない、とは感じている。

 けれど、うまくいかない。

 明晰夢の中で金縛りに遭っているような感覚。

 体と心とが、繋がっていない。

「装束の制御が切れたか。私の勝ち、のようだな」

 唇の端から血を流しながら、柊は宣言する。

 先ほどの交錯で柊に与えていたダメージは、本来それで勝負が終わっていておかしくないほどの、深刻なものだった。戦いを続けるどころか、動き回ることができない。瓦礫にもたれていなければ、立っていることもできない。それほど深く彼は傷ついていた。

 それでも柊はまだ生きていたし、意識を繋いでもいた。さらには、戦う意志も残されていた。

 その事実を、拓夢はうまく認識できない。

「とどめを、刺させてもらう」

 柊が、右の手のひらを、拓夢に向けた。その掌中に、小さな光が宿る。

 ――ああ、何だか、白くて綺麗だな――

 放たれれば拓夢の命を奪うだろう凶弾。そのチャージ速度は、柊の口元に苦笑が浮かんでしまうほどに遅い。だが、着実に大きくなっていく。

の私の部屋で、また会おう。今度は裏表なく、心から歓迎させてもらうとも」

 その言葉は、拓夢に聞こえている。

 聞こえているし、認識してもいるけれど、理解ができない。

 オレは、なにをしていたんだっけ。なにをしなきゃいけなかったんだっけ。

 拓夢の意識はもう、半ば夢に溺れている。夢の内側からでは、周囲の何もかもに現実を感じられない。

 焦りだけが、どうしようもなく燻る。そこに、

「夢太郎さん!」

 その声が、聞こえた。


      ◇


「夢太郎さん!」

 思わず、夜空は叫んでいた。

 状況はわかっていない。そりゃもう、笑えてくるくらいにさっぱりだ。

 統央カイロスタワービルが目前にある。何というかこう、見るからにボロボロである。壁面にはクレーターめいた衝撃痕が無数に刻まれ、そこらの民家がまるごと潜れそうな大穴がいくつも空いている。脇腹をごっそりえぐりとられたような見た目になっているせいで、倒壊しないよねと心配になったりもする。

 上層階から降り注いだ瓦礫で壊滅状態になった玄関前ロータリー、薙ぎ倒された観葉植物、明滅する街灯、めくれ上がったアスファルト。

 そして、二人の男。

 片方は赤い鎧のようなものを着ていて、さらに血塗れで、立ち上がっていた。あと、懐中電灯でも持っているのか、手が眩しく光っている。

 そしてもう片方は、深紫色の全身スーツのようなものを着ていて、うずくまったまま動かずにいた。

 後者の男が自分の探し人だ、と夜空は理解した。

 距離とスーツのせいで顔も見えないが、間違いない。パン屑の道標ブレッドクラム・ビーコン、もとい今朝からの謎の直感が指し示していた先。いつだったかどこだったかで会った謎の男。畔倉夢太郎。

「夢太郎さんってば!」

 ここで何が起きたのかはわからない、しかし尋常な状況ではないということくらいは容易に察せられる。目の前の二人が敵対関係であるらしいだとか、戦争映画でも見ているのかというくらいの派手な破壊はそのせいなのだろうだとか。

 畔倉夢太郎が、どうやらピンチに陥っているのだろうだとか。

(――ああもう! 誰か、ちょっとでいいから説明してよホント!)

 暴力的な勢いの風が、辺りに渦巻いている。夜空の髪が暴れる。

 彼に駆け寄りたい、と思った。そうしようとした。しかし、足が動かなかった。今回ばかりは、不思議な力などではない。状況に対して感じる恐怖、当惑、無意識の拒絶、そういった夜空の中にある諸々が、体を前に進ませようとしなかった。

 ここから男たちのいる場所までは、10メートル以上の距離がある。

 ここで夜空にできることは、ただひとつ。声を張り上げることくらいだ。

「夢太郎さん!」

 何度も、名前を呼んだ。そのたびに、彼はわずかに動いた。聞こえていないわけではないのだ。ただ、届いていないだけで。

 どうしよう、と思う。

 赤い男がこちらを見て、驚いた顔をしてから、無視して夢太郎に向き直った。その手の中の光はどんどん強くなっていく。あの光が何らかの武器で、数秒後には夢太郎を死に至らしめるものなのだろう。わからない尽くしの状況でも、そのくらいのことは察せられた。

 何かを言わないといけない。

 でも、名前を呼ぶだけでは足りない。

 寂院夜空は、これまでふつうの高校生として生きてきた。気丈と言っていいだろうその心の強さにも、限度があった。危機感と無力感に押しつぶされては、まともに思考できるはずもなかった。頭蓋の内側から思考が消し飛び、真っ白になった脳が、彼女自身にも予想のできなかった言葉を叫ばせた。


      ◇


「がんばれ、ゆめくん!」


      ◇


 畔倉拓夢は、その声を聞いた。

 畔倉拓夢に、その声は届いた。

「……は」

 体が、動いた。

 夢から逃れられたわけではない。現実を正しく認識できたわけでもない。

 ただ、その声と言葉は、あまりにも特別だった。

 何度夢に見ただろう。どれだけ現実に思い返したことだろう。

 今の拓夢に、ゆめうつつの区別はつけられない。だがこの瞬間に限り、そのことは何の弊害にもならなかった。ちぎれていた心と体が、ちぎれたままで同じく動いた。夢の中の拓夢と、現実の拓夢との区別が、その瞬間だけ意味をなくした。

 クロクゥスを放棄する。

 深紫の鎧だったものが無数の糸にほどけ散り、さらに一瞬の後には、無数の花弁の形を取って閃光に弾ける。

「な!?」

 柊は反応した。視界を遮られながらも、拓夢のうずくまっていたその場所に光を解き放つ。生身となった拓夢に直撃すれば、むろん容易く命を奪っていたはずの一撃。

 拓夢は動いていた。

 クロクゥスを解いたところで、すぐに現実感が戻ってくるわけではない。頭は回らず、視界も安定しない。それでも体は動いた。身を投げ出し、光条の射線から逃れた。腰に手を伸ばし、汎生体制圧用マルチシリンダーを抜き放つ。照準を合わせる余裕はない、だいたいの方向だけを合わせて引鉄を引く。幾度も、幾度も。

 弾が尽きる。それに気づかず、引鉄を引き続ける。


 時間が経つ。閃光が消える。

 拓夢が落ち着きを取り戻す。銃を下ろし、立ち上がる。


 柊が、倒れている。

「柊サン……」

 手の中のシリンダーをちらりと見て、拓夢は呟く。来訪者ドルンセンジュと融合している今の彼に、通常の拘束弾では効果があるかわからなかった。だから、戦いに臨む寸前に弾倉を入れ替えておいたのだ。

 今の彼にも確実に効くだろう――そしてその命を奪うだろう、強装弾に。

「おめで、とう」

 唇の端から、濁った血の泡とともに、柊が称賛の言葉を吐き出す。

「……私は、死ぬ。取り決め通り、この勝負は君の勝ちだ」

「オレはっ!」

 嗚咽が言葉を切る。

「オレは……そんな取り決めに、乗った覚えは、ねえスよ……」

「ならば、私の我儘に、付き合ってくれたということでいい……優しい後輩だな、君は」

「そんな」

 馬鹿な話があるか、と叫びたかった。

「急ぎたまえ、このビルの二十八階だ」

 遮られた。

「私は死ぬ。長めに見て、十分といったところか。それが過ぎれば、この船室キャビンはまた巻き戻る。このビルにまた人が戻ってくる」

 柊は、表情を無理やり動かして、笑う。

「それでは面白くなかろう? 勝者のトロフィーは、勝利の余韻が残るうちに受け渡されるべきだ」

 ああ――そうか。

 夢に浸っていた余韻か、大事なことを忘れかけていた。自分たちは、この閉鎖市街をこの形に留めている舞台装置を破壊するために、ここに来たのだ。

 顔を上げる。

「行くがいい。そして、明日以降の私を、よろしく頼むよ」

 その言葉には答えない。

 微笑む柊から離れ、戦場から少し離れた場所にまで歩く。

 街路樹のそばに横たえていたメリノエを抱き上げる。肌が異様に冷たく感じられる。その瞼は下りたままで、目覚める気配はない。その表情は恐ろしいほどに虚ろであり、どのような夢を見ているのかを察することもできない。

 こうして深い夢に沈んだ彼女の体は、人形そのものにしか見えない。活発に動き回り、表情豊かに振る舞っていたメリノエのほうが、造られた偽りの姿なのではないかと思えてしまうほどに。

 ぼんやりとそんなことを考えていた背中に、

「――――あ、あのっ」

 少女の声が、かけられた。

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