8.クロクゥス(2)
人が、流れるように、同じ方向に向かって歩いている。
ただ一人、その流れに逆らって、寂院夜空は歩いている。
そうしているうちに、周囲に誰もいなくなった。動いている車すら、一台も見ない。
断続的に、爆発音も聞こえる。
いくつもの細い光の筋が、連続して飛び交っているのも見える。あれもアクション映画の破壊光線的なやつだろうか。
ここまで、警察車両も消防車も救急車も、あと自衛隊の戦車とかそういうやつも、まったく見ていない。周りに誰の姿もない以上、この異常に立ち会っているのはどうやら自分だけということらしい。それ自体が特上の異常事態としか言いようがない。
もうこれ以上進むなと、本能が叫んでいる。
「…………」
それでも、感じるのだ。
なぜだか、確信できるのだ。
近づくにつれて、“直感”の精細さが増している。斜め前方に127メートルほど。自分が今日探し求めていたナニカは、その位置にある。
「……むんっ」
平手で頬を叩く。気合いを入れ直す。
異変の中心地は、もう見えている。この視線の先、127メートルの場所にそびえる高層ビル。名は、統央カイロスタワービル。
◇
柊豪十郎とドルンセンジュは、強い。
彼らの放つ砲撃は、
「嘘だろ……」
そうこぼしてしまう。
今の拓夢の拳には、軽くコンクリートを砕く威力がある。まともに当たればそれで終わる。また、今の拓夢が纏う深紫色の装甲には、戦車砲の直撃をも耐え抜く堅牢さがある。牽制程度の速射であれば、難なく捌ききれる。機動力もそうだ、拓夢自身がブラックアウトしないレベルにまで抑えているが、つまり戦闘機やF1に迫るレベルのトップスピードは出せているはず。
接近戦に持ち込めさえすれば有利に戦える、そのはずだった。そして実際に、何度となく、拳の届く距離にまで詰め寄った。
もちろん拓夢は格闘の専門家というわけでも、まして達人というわけでもない。しかしそれでも、調停者として一流の戦闘訓練を受けてきているし、経験だって積んでいる。つまり、ただ力任せに拳を振るっているわけではない。今の自分の膂力に合わせた重心運び、連係の組み立て、フェイントの挟み込み、持ちうるすべての術理を注ぎ込んで戦っている。
なのに、攻めきれない。
光弾の応用なのだろう、柊が両腕にまとった光が、拓夢の拳を器用に逸らす。的確に撃ち出された光が、装甲を灼くことこそできずとも、衝撃で動きを制してくる。肩を、膝を、脇腹を、喉を、ハンマーじみた力で衝かれるたびに戦術機動が狂わされる。高い機動力も、組み上げた格闘予定も、まともに活かせない。
それらをどうにかねじ伏せて、戦闘の主導権を無理やりもぎ取ろうとする。その焦りに付け込まれ、爆発物の場所に誘い込まれる。最悪のタイミングに起爆されて、無理やりに戦況をリセットされる。これも何度か繰り返した。
手玉にとられているような気になる。
クロクゥスに守られているとはいえ、攻撃を受け続ければダメージは積もるし、動きは鈍っていく。加えて拓夢には制限時間がある。このまま凌ぎ切られれば、負ける。
「嘘だ、は、こちらの台詞だろう……」
その一方で、柊の声や表情にも、余裕はまったくない。
「その装束が高水準な力であることに、驚きはない。見合った制限もあるようだしな」
砕けたコンクリートの破片でか、あるいは近距離で浴びた爆風でか、全身に細かい傷が刻まれている。
拓夢の拳を凌ぐ度に、血と汗とが混ざり合って飛び散る。
彼も必死なのだ。当たれば終わる拳と、攻めても打ち崩せない砦を前に、紙一重の防戦を延々と続けている。卓越しているなどという簡単な言葉では表せないほどの洞察力と技術、そして集中力で。
「信じられないのは、その後だ……その馬鹿げた力を、君は乗りこなしているのだな」
「苦労したんでね!」
答えつつ、少しだけ、嬉しいと感じてしまう。
クロクゥスは暴れ馬だ。コンピューター制御されていない巨大ロボットだ。それ自体が強い力を出すことはできるが、暴走させず制御するためには、着ている人間が力を尽くし続ける必要がある。
なにせ拓夢自身のほかには、誰にも体験できない苦労である。これまで、理解を示してくれる者などほとんどいなかった。
「畔倉拓夢。強いな、君は」
「柊豪十郎。強いよ、あんたも」
互いを讃え合う――と、ほぼ同時。
拓夢が大振りの拳を放ち、柊が強い光を放った。
ふたつの力は正面からぶつかり合い、打ち消し合うことなく、その場で球状の衝撃として弾けた。
衝撃に巻き込まれたビルの壁が、床が、砂糖細工か何かのように崩れていく。二人はそれぞれ、逆の方向へと、10メートル以上の距離を弾き飛ばされる。
視界がぶれたように感じた。
(まずい)
そう思った。今の感覚は、クロクゥスの制限時間を過ぎた証だ。今すぐにでも武装解除しなければならない。さもなくば自分は夢に呑まれ、戦闘どころではなくなってしまう。
(しめた)
同時にそうも思った。今の爆発で、柊が体勢を崩している。千載一遇のチャンス。今、この瞬間ならば、彼はあの神業めいた捌きが行えない。仕留められる。
双方ともにあと二秒、と拓夢は見積もった。
自分が戦闘不能になる前に、二秒ほどは戦えるだろう。
柊を撃ち倒すのに、やはりあと二秒ほどが必要だろう。
このふたつが同時ということはない。どちらかが先にはなるはずだ。だからこれは賭けだ。どちらの二秒が先に過ぎるか。斃れることになるのは誰なのか。
獣の咆哮をあげて、崩れた床の残骸を蹴った。
爆風のエネルギーの残る空間を、一息に突っ切って、柊に迫ろうとした。
0.1秒未満の時間を争う、研ぎ澄まされた集中力の世界。
自分自身と倒すべき敵、このふたつの他に何も存在しえないはずの場所。
現実味のない、限りなく透明な決戦の瞬間に、
ふらり、
再び、視界がぶれた。
同時に、意識が、一瞬だけ途切れた。
まずいと感じた、その危機感すらもが、ほんのわずかな間、空隙に溶けた。
(しまっ――)
クロクゥスを着て動くということは、極限に近い集中力を維持し続けるということだ。どれだけ強靭な精神力を備えていたとしても、疲労と消耗からは逃れられない。
そしてクロクゥスは、本来、メリノエの夢の奥底にあるべきモノ。そこには常に、夢に還ろうとする力が働いている。その力は、着用者の意識を、現実から引き剝がすものとして働く。
この力は、幼子が夢の波打ち際で水遊びをするようなものだ。少しでも限界を踏み越えれば、簡単に潮にさらわれる。地に足の届かない場所で、夢に溺れる。
二秒は、とうに過ぎていた。
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