第四章 よみがえる旋律

第22話 母のまなざし

「これでよし……と」

 鏡に映る髪を櫛で整え、インノツェンツァは軽く息を吐いた。

 音楽会当日。インノツェンツァはいつもより少し早めに朝食をとったあと、長らく衣装箱にしまっていた宮廷服に着替えた。

 金のボタンで飾られたブラウスの上にリボンタイ。すとんと落ちる格子柄の長いスカート。草花や音符の刺繍が施された上着は膝に届く丈で、金糸の縁取りやレースを袖口にふんだんに用いている。

 耳飾りは新緑色の音符が入れられた金の鳥籠。髪飾りは鼻と蔦の透かし細工。イザベラが呼んでくれた一流針子によるこの正装は、インノツェンツァもお気に入りなのだった。

「しかしホント、ぴったり寸法が合ってるよね……」

 一年前とまったく同じ着心地に、インノツェンツァは空笑いになる。どこも締めつけられた感じがしないし寸足らずにもなっていないのはそれだけ、身体が大して成長していないということなのだから。特に胴体が。

 レオーネやフィオレンツォの背丈が年々伸びているのに、自分だけ変わらないのはどうにも悔しい。特に外見をよくしたいとかそういう願望はないのだが、子供体型のままであるのは妙な敗北感があるのだ。

 儚げな美人の母さんと背が高かった父さんの娘の私がこの平均身長の平凡顔って、嫌な方向の突然変異を起こさなくていいのに……。

 食習慣を見直したほうがいいのだろうか、いやしかし食費が――――と庶民らしいことを考えながら、インノツェンツァはヴァイオリン入れの蓋を開けた。するとドライアドとノームがふわりと漂い現れる。

 さらに。

「うわ、人間の貴族みたいな格好してる」

 声と共に窓がきいと開いた。あのノームの少年だ。

 インノツェンツァは苦笑した。

「今日行くところはこういうのを着ないと駄目な場所だから。私は元々宮廷音楽家だったし」

「宮廷……ってことは城とかで弾いてたの?」

「うん。まあ色々あって辞めちゃったんだけどね。今は城下で働いてるの」

「ふうん。人間ってなんかめんどくさそうだね」

 曖昧に笑ってインノツェンツァが短く説明すると、ノームの少年はあまり興味がなさそうに鼻を鳴らした。

「じゃあ、今日は大人しくしててね。神官の人たちが君に気づいたらきっと騒ぎになるだろうから」

「わかってるよ」

 肩をすくめて言うとノームの少年は目を閉じた。すると身体は柔らかな焦げ茶の光に包まれ、黒光りする鋭い鉱物が宙に浮かぶ。

 あのノームは黒曜石の精霊だったのだ。インノツェンツァは納得した。

 ――――連れてってよ、あの丘まで。

「……うん。一緒に行こう」

 ノームの少年の声が脳裏に響いてきて、インノツェンツァは微笑んで答えた。宙に浮く黒曜石を柔らかな布で包み、ヴァイオリン入れの片隅へ小物と共にしまう。

 それからドライアドとノームのほうを向いた。

「貴方たちも一緒に行こう。皆でいるほうが心強いだろうし」

 ――――僕は別に一緒じゃなくてもいいけど。

「でも‘アマデウス’と‘サラサーテ’はこの子たちの‘精霊の仮宿’だもん。いつもは中にいるし。今日だけ待っててもらうなんてできないよ」

 ――――好きにすれば。

 ため息交じりの声でノームの少年は言う。ドライアドとノームが同胞たる黒曜石に不穏な目を向けたが、当の本人はもう無視だ。何も答えない。

 そうしてドライアドとノームも自分の‘精霊の仮宿’へ戻ったあと。インノツェンツァがヴァイオリン入れを片手に一階へ下りると、椅子に座って針仕事をしようとしていたリーヴィアが顔を上げた。

「インノツェンツァ、もう行くの?」

「うん。そろそろ馬車が下に着いててもおかしくないし」

 インノツェンツァは頷いて答えた。その場でくるりと回ってみせる。

「ねえ母さん。私、変な格好になってない?」

「ええ、ちゃんと着こなしているわ。化粧はしないのね。隈は薄くなっているから、しなくても大丈夫だと思うけど」

「やだよ。私は弾くだけなんだし。めんどくさい」

 インノツェンツァは眉を下げた。絶対に嫌というわけではないのだが、演奏するのが音楽家の本分なのだ。清潔感があればそれで充分だろう。レオーネの前で気取って着飾るのもなんとなく癪だ。

 娘がきっぱり主張するからか、リーヴィアは頬に手を当て長いため息を吐いた。

「ヴァイオリンの才能だけじゃなく、そういう着飾るのを好きじゃないところもファウストさんにそっくりだわ。ますます似てきたんじゃないかしら」

「父さんよりはましだと思うけど」

「そう言っているうちに似てくるものよ。あの人も『ごてごて着飾るのは面倒』って、口癖だったもの」

 インノツェンツァが口を尖らせ自己弁護した端からリーヴィアはくすくす笑う。インノツェンツァも思いだし、半笑いになった。

 そうだった。父さんはヴァイオリンというか音楽に関して妥協をしないのに、普段はいい加減な人だったんだよね……。特に服は、私や母さんに言われるまで穴だらけの上着を着てたことがあるくらいで……。

 リーヴィアは頬を緩めた。

「……貴女がその服を着て笑っているのをまた見られるのは、やっぱり嬉しいわね」

「あはは……最後はひどかったもんねえ」

「ええ。それに音楽のこともあまり好きじゃなくなっていて……あの頃の貴女を見るのはつらかったわ」

 心労で痩せ、肌の色も悪かった一年前の娘の姿が脳裏をよぎったのか。リーヴィアは痛ましそうに目を細めた。

「また王家の音楽会へ参加すると聞かされたときは、正直心配だったわ。参加する気になっていたから見守ることにしたけれど」

「……」

「でも、心配しすぎだったのね。貴女はもうあの頃の貴女じゃない。ファウストさんと一緒に、国王陛下の御前で演奏していた頃の貴女」

 リーヴィアは己に言い聞かせるようにささやいた。一度目を閉じ、また開いてインノツェンツァの両肩に手を置く。

「背を伸ばして堂々としていなさい。貴女は音楽家。どんな服を着ていたって、そこが演奏の場であれば関係ないわ」

 儚げな未亡人であることを感じさせない、凛とした声音だった。眼差しは穏やかでいて、娘への愛情にあふれている。苦しい過去から立ち直り、今や自らそこへ向かっていけるようになったことへの喜びもにじむ。

 インノツェンツァの胸がじんとしびれた。目の周り共々急に熱くなる。

「……うん。私はヴァイオリン奏者で、父さんの娘だもんね」

 気恥ずかしさをごまかすためにインノツェンツァはへらりと笑った。熱くなった顔を隠したくて身をひるがえす。

 ああもう、泣きそう。

「じゃあ、いってきます。もしかしたら帰ってくるのが遅くなるかもしれないから、無理しないで早く寝てね」

「ええ。いってらっしゃい」

 柔らかな声がインノツェンツァの背中を押してくれる。その声はいつもより優しく、想いが籠っているようにインノツェンツァには聞こえた。

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