第10話 仮宿の守護者・2

 インノツェンツァの目は逃げ道を探してさまよった。しかし横に脇道はなく、背後の逃げ込めそうな場所はすぐ近くとは言えない。

 この子の横も……多分無理! 足に自信ないし!

 フィオレンツォと二人で逃げる方法を必死で探してインノツェンツァが黙りこんでいると、少年がすっと笑みを消した。感情を失くした表情は冷たく凍え、いっそ人形のようですらある。

「……返してくれる気はないみたいだね」

 呟くような声も冷たく、氷の欠片を転がしたかのようだ。インノツェンツァはさらに一歩、あとずさった。少年から目を離さない。――――離せなかった。

 それじゃあ、と少年は言った。すっと片手を上げる。

 インノツェンツァは背筋が凍った。

「死んで?」

「!」

 少年の言葉と同時に白い線が少年の周囲から放たれた。きらりと一瞬光ったその速度は高速で、正体がまるでわからない。

 まっすぐ自分へ向かってくるそれをインノツェンツァはよけなかった。動かなきゃ、と思っているのに動けない。

 やばいやばいやばい――――――――!

「インノツェンツァ!」

 フィオレンツォが叫んだ。

 インノツェンツァを庇ってフィオレンツォが前に飛び出てきた。インノツェンツァの視界を、フィオレンツォの背中が埋める。

「――――っ!」

 インノツェンツァは目を見開いた。眼前の仕事仲間の名が喉からせり上がってくる。

 そのときだった。

 インノツェンツァとフィオレンツォの前がぐにゃりとゆがみ、焦げ茶の薄い膜のようなものが広がった。フィオレンツォを白い線から守る。

 途端。薄い膜はたちまち質感を得て実体化した。

「木……?」

 自分の視界を遮るものを見上げ、インノツェンツァは目を瞬かせた。

 そう、木だ。深みのある色をした木が白い線――黒光りする鋭い石を我が身で受け止めていた。幹から伸びる枝葉がインノツェンツァの頭上で揺れている。

 その肩では色とりどりの宝石を削りだしたかのような鱗に覆われた、濃緑の目の蛇が鎌首をもたげていた。怒りをあらわに少年を睨みつけている。

 眼前の樹木から放たれる清々しい香りと蛇の身の色に、インノツェンツァの感覚と直感は大きく揺さぶられた。鼓動がまた一つ高鳴り、脳裏に言葉がひらめく。

「ドライアドとノーム……!」

 インノツェンツァの代わりにフィオレンツォが仰天しきった声を漏らした。インノツェンツァもまた、精霊たちの幻想的な姿に見入る。

 姿や素材を考えれば‘アマデウス’にドライアド、‘サラサーテ’にノームが宿っていたのは明らかだ。‘アマデウス’は全体が木材で、‘サラサーテ’には宝石があしらわれているのだから。

 インノツェンツァが父から贈られた二つは‘精霊の仮宿’だったのだ。

 少年は不可解とばかりに眉根を寄せた。

「ちょっと待って、その人間を庇うの? どうして? 迎えに来たのに……一緒に帰ろうよ!」

 と少年はもう一度手を差し伸べるが、ドライアドとノームはすげなく首を振った。さらに少年が帰ろうと精霊たちを促しても動かない。精霊たちが少年の誘いを拒絶していることは明らかだ。

 自分はもう安全なのだとわかったからなのか。最初のうちははらはらしながら見ていたインノツェンツァだったが、次第に緊張が解けていくのを感じた。

「……そう、そんなにその人間がいいんだ」

 眼前のドライアドとノームとの問答の末、少年は不機嫌そうに呟いた。頬をふくらませそっぽを向いている様子は、拗ねているようにしか見えない。先ほどの冷酷な暗殺者の振る舞いは欠片も見当たらない。

 インノツェンツァは思わずフィオレンツォの背後から出た。

「インノツェンツァっ?」

 フィオレンツォの制止を無視し、インノツェンツァは慌てるドライアドとノームの隣に立った。

「私、この子たちの器を大事にしてるよ。これからも大事にするよ。だから…………ごめん!」

 何と言って諦めてもらえばいいかわからず、インノツェンツァはとりあえず頭を下げた。

 少年と精霊たちが一体どういう関係なのか、インノツェンツァにはよくわからない。そもそもこの少年は何者なのか。彼もまた精霊なのか、単なる変わった魔法使いというだけか。

 でもこの子、ドライアドとノームを連れて帰りたがってるんだよね……。彼らは嫌がってるみたいだけど。

 彼らの‘精霊の仮宿’の持ち主としては黙っていられない。せめて彼らを傷つけたりしないと約束するべきだと思った。

 インノツェンツァなりに誠実であろうとした結果だったのだが、少年はまったくの無反応だった。戸惑っているか、呆れているのか。

 フィオレンツォにいたっては何をやってるんですかとうめいて、呆れを隠しもしていない。ただでさえ緩んでいた場の緊張感はこの決定打によって完璧に失せ、何とも言えない空気が辺りに漂う。

 いやだって、ここはこうするしかないでしょ。

 微妙な空気に耐えられなくなったインノツェンツァが頭を上げようとしたところで、不意に何かが彼女の腰に絡みついた。瞬きをしているあいだにインノツェンツァは後ろへ引きずられる。

「えっ何っ?」

 わけもわからずインノツェンツァが視線をさまよわせていると、ドライアドは自分の背後にインノツェンツァを連れ戻して束縛を解いた。ノームはインノツェンツァに首を伸ばしてきてかっと口を開く。

 えーとこれ、お説教的な……?

「……無茶なことをするなと説教しているように思えますが」

 思わずといったふうでフィオレンツォは呟く。するとノームはこくこくと何度も頷き、またインノツェンツァに目を向ける。

 まったくもう、と言わんばかりにドライアドも木の枝を腕のように伸ばしてインノツェンツァの両の頬を撫でた。触れられた感触はやはりなく、触れられた気がしない。

 けれど見下ろす女の面に安堵が浮かんでいるからか、インノツェンツァはくすぐったい心地を覚えた。

「貴女も心配してくれてるの? ありがとう、私は大丈夫だよ。貴女たちが守ってくれたから――――」

 そこまで言いかけ、インノツェンツァははっとした。ドライアドの胸に埋まる石を見る。

「これ……」

 ドライアドは平然としているが、あの速さでこんな鋭い石が身体に深く突き刺さって痛くないわけがないのだ。我慢しているだけに違いない。

 それに改めて見てみれば、ドライアドの半透明の身体はあちこちが傷ついていた。ノームもだ。‘アマデウス’と楽弓の美しさからは想像できない傷つきようである。

 痛ましさにインノツェンツァに顔をゆがめた。

「ねえ、痛くないの? これ、抜いたほうがいい?」

 石に触れてインノツェンツァが問うと、ドライアドはゆっくりと首を振った。代わりにインノツェンツァを抱きしめる。

 やはり触れられた感触は一切ない。生き物のぬくもりさえない。空気に抱きしめられたらこんなふうなのだろうか、とインノツェンツァは一瞬思う。

 けれどドライアドとノームの喜びや慈しみといった温かな感情は伝わってくるのだ。彼らはインノツェンツァという存在を受け入れ、望んでくれていた。その心地良さにインノツェンツァは目を閉じ、うっとりと身を任せた。

 それらを呆れた顔で見ていた少年は、やがて長いため息をついた。

「…………なんかもうべた惚れって感じだね。……わかったよ。好きにすればいいよもう」

「はあ? ちょっ、何それ」

 投げやりな科白に、インノツェンツァは思わず声を裏返した。

 意味がわからない。さっき、彼らを取り戻すためにこの少年はインノツェンツァを殺そうとしていなかっただろうか。

 どこを見てもそうじゃん、と少年は嫌そうに言った。

「ドライアドとノームは人間嫌いが多いんだよ。人間は木を伐るし、鉱物を奪って削ったり土地本来の姿を壊したりするから。そりゃ、人間が綺麗に加工した宝石が好きなノームもいるけどさ」

「……」

「なのにこれなんて…………無理に連れて帰ろうとしたところで、おねえさんのところに戻ろうとするに決まってるよ。おねえさん、彼らに何したのさ?」

「何やったさって……何もしてないけど……」

 どう思い返しても、インノツェンツァは精霊たちに気に入られるようなことをした覚えはない。そもそも精霊が宿っているなんて知らなかったのだから。父も言っていなかったからきっと知らなかったのだろう。

 インノツェンツァは亡父がくれたヴァイオリンと楽弓に名を与え、使いこなそうと日々努力していただけだ。手入れはもちろん丁寧に入念にしていたが、それは所有者として当然のこと。特別なことは何もしていない。

 そうインノツェンツァは説明するが、少年はまったく信じてなさそうに鼻を鳴らした。本当なのに。

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