第9話 仮宿の守護者・1
いまだ暗躍する通り魔に人々が怯える日々だが、だからといって大通りの喧騒がまったくなくなったわけではない。
誰にだって仕事はあるし、俺は見た目からして金がなさそうから通り魔に襲われないと笑い話にする者はいる。そもそも事件を知らないよそ者も都を多く行き交っているのだ。だからどの酒場や食堂から客が絶えることはなく、『酒と剣亭』もその例外ではなかった。
そうして今夜も職場を大いに湧かせた仕事帰り。さあ帰ろうとマッチ箱を開けたインノツェンツァは思わずうげ、と年頃の少女らしからぬ声をあげた。
マッチ棒が箱に一本も入ってなかったのだ。
「そーいや今朝、買っとこうと思ってたんだ……」
インノツェンツァはがっくりと肩を落とした。新月の今夜はランプがないと街灯がろくにない下町を歩くなんてできないのに。母に知られたらまた小言を言われてしまう。
というか、また『夕暮れ蔓』か『酒と剣亭』へマッチ箱を届けにとかしかねない……! それは避けないと!
母がもう眠っていることを願いながら、インノツェンツァがランプなしで歩きだそうとしたときだった。
「インノツェンツァ」
「? フィオレンツォ?」
声をかけられたインノツェンツァは足を止め、駆け寄ってくるフィオレンツォを見て目を瞬かせた。
「どうしたの? 何か用?」
「どうしたのって、一人で帰る気ですか? 貴女の家は丘のすぐ下でしょう」
フィオレンツォは咎めるような調子で言った。
というのも昨日、下町の近くで連続通り魔事件があったばかりだからだ。被害者は衣装屋の従業員で、指輪を持ち去られたことが指に残る痕跡からわかっている。今夜の『酒と剣亭』でも話題になっていた。
そうだけど、とインノツェンツァは眉を下げた。
「でも、ウーゴさんはまだ店にいるつもりみたいだし。一人で帰るしかないでしょ」
「だとしても、一人で帰るのは危険ですよ。それにさっき肩を落としているのが見えましたけど、マッチ棒を買い忘れたんじゃないんですか?」
「……」
言い当てられ、インノツェンツァは視線を泳がせた。レオーネだけでなくフィオレンツォもなかなかに勘が鋭い。
フィオレンツォはぶすっとした顔でインノツェンツァの隣に陣どった。
「……僕が送ります」
「へ? でもフィオレンツォ、途中で別の方向じゃなかったっけ」
「僕の家は見回りが多い大通りに近いですから心配ありません。隊長の評判は最悪ですが、赤龍騎士団の団員は職務に忠実な方たちばかりですし。……姉も例の音楽会の準備で忙しくて、帰ってくるのが遅いですしね」
だから行きましょう、とフィオレンツォはランプを肩提げ鞄から出した。鈍い光沢のある藍色は使いこまれた様子で、経てきた歳月を感じさせる。
フィオレンツォの手が刻まれている文字列に触れると、ぼうとガラスの中で火が灯った。そう大きくない火だというのに、インノツェンツァが思っていたよりも遠くまで二人の前を明るく照らす。
インノツェンツァは目を丸くした。
「魔法道具? 高いのによく買えたね」
「死んだ父の持ち物ですよ。僕が小さい頃、サラマンダーの棲みかになっていたことがありまして。そのおかげで、いなくなって何年も経つのにまだ威力が強いんです」
「ああ。‘精霊の仮宿’なんだ、それ」
インノツェンツァは大きく頷いた。
酒場から聞こえる喧騒が賑やかな通りを歩いているとすぐに静かになった。月明かりのない夜道を点々と灯る街灯がささやかに照らしている。
それで、とフィオレンツォは口を開いた。
「今日、ジュリオ一世の楽譜を写しに楽譜館へ行ったんですが」
「あ、行ってくれたんだ? どうだった?」
「……残念ながら一足遅かったようです」
フィオレンツォはそう表情を曇らせた。
「すでにロッカルディ公爵とアメーティス侯爵が借りたあとでした。権力で無理やり、のようです」
「……」
そこまでするか。
インノツェンツァは唖然とした。どちらも王家の血を引く名門貴族である。もちろん音楽会の参加者候補として召集されていただろう。
「……それ、間違いなく妨害工作を兼ねてるよね。どっちも嫌味で女好きだって評判よくなかった記憶が……しかも王室に近いからあんまり抗議できないっていう……」
「でしょうね。職員の方も迷惑そうでした」
それはそうだろう。写譜とはいえ百五十年以上前に作られた、ジュリオ一世の不思議な感覚を示す貴重な資料の一つなのだ。それを世のため公開しているのに権力で持ち去るなんて、迷惑以外なにものでもない。
「いつ返してくるかわかんないし、レオーネに知らせて楽譜館に返させるとかできないかなあ……馬鹿王子と会うのは嫌だし」
「レオーネさんの爵位がなんなのか知りませんが、王族でもないのに公爵家や侯爵家に楽譜を返却させることはできないのでは? 同じ爵位でも王室に近いほうが格上になるのが貴族社会と聞きましたが」
「……まあね」
指摘されインノツェンツァは渋面になる。王侯貴族がそういう面倒な社会であることは嫌と言うほど知っている。
となると他の資料から地道に手がかりを集めるしかなさそうだ。インノツェンツァはうんざりした。
そんな話をしながら下町へ入り、少しした頃。インノツェンツァの背後から足音がした。
続いてまた一つ。
「……」
インノツェンツァはフィオレンツォと視線を交わした。
おかしい。インノツェンツァとフィオレンツォが歩いてきた小路は一本道で、通りからも離れている。もし誰かが歩いているなら、とっくに二人は足音を聞いているはずだ。
なのに足音は、たった今聞こえた。
いやここ幽霊とかそういう話ないよね――――!
インノツェンツァはランプをぐっと強く握った。フィオレンツォも硬い表情だ。
それでも、足を止めない。止められない。そんなことをしたらどうなるか。
できるだけ平静を装い、インノツェンツァとフィオレンツォは歩く。足音はけして本体から離れることがない影のように、ぴたりとインノツェンツァとフィオレンツォについてきた。
インノツェンツァの喉から腹まで、冷たいものが通り抜ける。体が強張り、意識が背後に集中する。耳に心臓の音がうるさい。
できるなら自宅まで全力疾走してしまいたい。しかしヴァイオリンケースが重いし、フィオレンツォを置いていくなんてできない。そもそも我が家には病弱な母がいるのだ。そんなところへ逃げていいものか。
だが他に逃げ場はない。足音はぴたりとついてくるのだから、フィオレンツォに相談することもできない。
どこへ二人で逃げればいいのか。
どうすれば――――。
「ねえ、おねえさん」
不意に足音が止まり、呼び止める声が路地に響いた。
自分より年下としか思えない澄んだ声に、インノツェンツァは思わず足を止めた。目を瞬かせて振り向く。
インノツェンツァを呼び止めたのは十歳前後だろう、見るからに気が強そうな少年だった。
肥沃な大地を思わせる濃茶の髪、きらきらと輝く濃緑色の大きな瞳。異国の民のような褐色の肌であるが、整った顔形はガレルーチェやその周辺諸国の民のものだ。将来はレオーネやフィオレンツォと並ぶ美形になること間違いない。
足音の正体が意外で、インノツェンツァは目を丸くした。フィオレンツォも同じ表情だ。
「おねえさん、そのヴァイオリンと楽弓、返してよ」
少年は微笑みを浮かべて言う。インノツェンツァは戸惑った。
「え……」
「そのヴァイオリンと楽弓だよ。彼らは僕の仲間なんだ」
と少年はインノツェンツァが持つヴァイオリンケースを指差した。
「だから返してよ。連れて帰りたいんだ」
「仲間って……一体どういう……」
何かの比喩だろうかとインノツェンツァは混乱する頭で考えた。
どう見ても彼は人間の子供だし、‘アマデウス’と‘サラサーテ’は銘木で作られている。仲間なんて普通に考えるならありえない。この少年が度の過ぎた空想好きでもなければ言わないだろう。
これ、さっさと逃げたほうがいいんじゃ……。
インノツェンツァは一歩後ずさった。そんなインノツェンツァの怯みを感じとったのか、フィオレンツォが一歩前に出る。
「一体何を言っているのかわかりませんね。そのヴァイオリンと楽弓は間違いなく、彼女が父親から受け継いだものですよ。その父親も民家から譲ってもらったものです。貴方の勘違いですよ」
「違うよ、僕の仲間だよ。ほら」
そう少年が手のひらをヴァイオリン入れに向けた途端だった。
「っ!」
インノツェンツァが握るヴァイオリン入れの取っ手が突如震えた。いや、単なる振動ではなく脈動だ。たった生まれたかのように、あるいは蘇ったかのように脈打つ生々しい音がわずかにずれて二つ響いてくる。
そればかりかヴァイオリン入れの隙間から新緑と濃茶の淡い光が漏れてきた。脈動に合わせて明滅し、内部に形容どおり光輝く生命があることを示すかのようだ。
何これ――――!
‘アマデウス’や‘サラサーテ’、備品が入っているはずのヴァイオリン入れがまったく違う別の何かになってしまったかのようにインノツェンツァは感じた。ヴァイオリン入れを持つ手がおそろしい。
父の形見を入れているというのに――――。
「ほら、僕の声に応えてくれてる……ね? だから返して?」
無邪気な笑みを浮かべて少年は言う。インノツェンツァにはもう、彼がただの人間のようには思えなかった。
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