第4話 望まない再会

 ガレルーチェの守護神たる光の神が気まぐれを起こしたのか、なんなのか。その日は滝のような雨が朝から降り続いていた。

 そんなものだから今日の客足は常よりはるかに少ない。『夕暮れ蔓』の前の通りを歩く人もまぱらだ。どこの店も開店休業だろう。

 数少ない客も皆清算を終え、止まない雨を気にしながら店を出ていく。それを見送り棚の整理をしていたインノツェンツァは息を吐いた。

「今日はやっぱりお客さん来ないですね」

「こんな天気だからね。よっぱど今日じゃないとって人じゃない限り、来ないだろうね」

 まあうちはいつもこんな感じだけどえ、とカウンターの内側の椅子に座る青年――先日まで商品の仕入れで出かけていた店主トビア・ロレンツィーニはのんびり言った。

 あまり焼けていない肌に首の後ろで括った焦げ茶色の髪、緑の瞳。二十四歳なのに無精髭とぼさぼさの髪だからかもっと年上のように見える。知的そうな鼻にかけた小さな眼鏡も台無しで、うさんくさいと容姿を形容されても仕方ないかもしれない。

 そんな雇い主を振り返り、まったくとインノツェンツァは腰に手を当てた。

「ロッタ神殿御用達の老舗が赤字続きで閉店って洒落にならないですよトビアさん。今月も売上がとびきりいいってわけじゃないですし」

「でもうちはお客は三分の二くらいが一見さんと初心者さんで、残りが常連さんだからねえ。その年季の入った常連さんたちの払いがいいから、まあなんとかなるんだよね」

 もう少し営業努力をとインノツェンツァは暗に示してみるが、トビアはおっとりと笑ったままだ。この店主は商売をする気がないのである。まあそのおかげでインノツェンツァは客がいないとき、自由に‘アマデウス’を弾くことができるのだが。

 そういや、と唐突にトビアは手を打った。

「ラーザさんにヴァイオリンの点検、十本を明日までにって頼まれていたんだった」

「それ、忘れちゃいけないことだと思うんですけど」

 何やってるんですかもう、とインノツェンツァは呆れた。『夕暮れ蔓』の常連であるヴァイオリン教室の老教師は時間にうるさいのだ。指定した日までに終わらせなかったら、睨まれてしまう。

 小言を言いながらインノツェンツァはトビアと共に弦や駒、糸巻きといったヴァイオリンの各部分を丁寧に調べていった。さすがに漆の塗り直しとなると職人に任せなければならないが、簡単な点検と部品の交換程度なら二人でもできるのだ。

 そうした手間のかかる作業がある意味暇潰しも終えてしまい、閉店までこのまま客が来ないのかと思われた頃。ドアの上部につけられているベルが軽やかに鳴った。雨の日のひやりとした空気が入ってくる。

 真っ先にトビアが書物から顔を上げ、いらっしゃいと客を迎えた。インノツェンツァも遅れて気づき、ヴァイオリン入れを開けようとしていた手を止める。

 そして扉のほうを向き――――ぎょっとした。

 現れたのは深緑の外套に身を包んだ男二人だった。見たことのない顔だが、赤い竜と盾の紋章が刻まれた金のバッジを胸につけているので赤龍騎士団の団員たちなのは間違いない。

 いやでも私、悪いことなんて何もしてないよね?

 赤龍騎士団の世話になるようなことをした覚えはないのに、何故彼らが店に来たのか。インノツェンツァは戸惑った。

 二人の騎士団員はカウンター席に座るトビアに目もくれず、インノツェンツァの前に並んだ。よく鍛えられた体躯の男たちに見下ろされ、その圧迫感にインノツェンツァは身を強張らせる。

 インノツェンツァは騎士団員たちの向こうにいるはずのトビアを探した。しかし彼らの体躯に阻まれ、トビアの姿は見えない。

「君がインノツェンツァ・フォルトゥナータか」

「……そうですけど……」

 外へ撥ねた髭をした騎士に問われて硬い声でインノツェンツァが肯定すると、騎士たちは顔を見合わせ頷きあった。髭の騎士がずいと前に出てくる。

「すまないが、私たちと一緒に来てもらえないだろうか」

「え……な、なんで……」

「わけは言えない。ただ、君を呼んでいる方がいるんだ。手荒な真似はしたくない。抵抗せず同行してほしい」

「……」

 髭の騎士はゆるゆると首を振り、穏やかな声で命令する。インノツェンツァは即答せず、騎士たちをじっと見つめた。平静を装っていたが頭の中は真っ白だった。

 硬直しているインノツェンツァに痺れを切らしたのか、若いほうの騎士がインノツェンツァの腕を掴んで引きずっていこうとした。

 が。

「彼女を呼んでいるという方の名くらいは明かせないのですか。貴方たちを動かせるとなれば限られた人しかいませんが……使いというなら、自分たちを遣わした人物の名を明かすのが礼儀でしょう」

「……すまないが、本当に何も話せないんだ」

 若い騎士の行動を制するように感情を押し殺した声音でトビアが問うと、髭の騎士はそう繰り返した。苛立った顔の若い騎士とは反対に、心底申し訳なさそうな様子だ。理不尽な命令だと本人も感じているのだろう。

 静かに怒るトビアの声を聞くことができたからか、同情してくれる人がいるからか。突然の事態に停止していたインノツェンツァの思考はようやく動きだした。

「……わかりました」

「インノツェンツァ」

 腹をくくってインノツェンツァが同意すると、トビアは驚いた声をあげた。

 インノツェンツァは無理やりへらりと笑ってみせた。

「このまま押し問答してても、埒があきませんから。多分帰りが遅くなると思うんで、母には上手く言ってごまかしてください。‘アマデウス’と‘サラサーテ’も頼みますね。あと、今夜仕事が入ってるんで『酒と剣亭』の店長には事情を話しといてください」

「……わかった。気をつけるんだよ」

 インノツェンツァの決意を見てとったのか、トビアは硬い表情で頷いた。

 それから重苦しい空気で馬車が雨の中を走ること、しばらく。大きな施設の前でインノツェンツァは馬車から下ろされた。

 エテルノの一画にある赤龍騎士団の本部だ。インノツェンツァは小さい頃、亡き父の仕事についていったことがある。

「すまないな、インノツェンツァ殿」

「いえ……」

 『酒と剣亭』の常連でもある出迎えの騎士の謝罪に、インノツェンツァは苦笑して緩く首を振る。彼らは命令に従うしかなかっただけだ。仕方ない。

 そう、この騎士たちは何も悪くない。悪いのは、こんなくだらない命令をくだした人間だ。

 若い騎士に促され、インノツェンツァは足早に建物の中へ入った。

 石造りの内装は地味というか、豪放だった。所々絨毯やタペストリーが飾られているが致命的に華がない。そのうえこんな雨の日だというのに、あちこちから訓練に励む男たちのむさ苦しい声か聞こえてくるのだ。貴族の夫人や令嬢ならさっさと逃げるだろう。

 そんな雨の肌寒さをものともしない熱を避けるようにして、案内役の騎士は建物の奥へと向かっていく。

 ということは、騎士団の上層部の誰かが私に会いたがってるってわけだよね……。

 つまりあの男というわけか。この世で一番大嫌いなあの男。

 インノツェンツァはすべてを理解した。不愉快で顔がゆがみそうになるのを、どうにかこらえる。

 やがてインノツェンツァたちは武骨な造りの廊下に不似合いな設えの扉の前に到着した。騎士が中に応答しているあいだ、インノツェンツァは扉にかけられた金の板を見る。団長室と記す書体も、やはり騎士には相応しくない優雅なものだ。

 その違和感は室内へ入って一層増した。絨毯も調度も、何から何までが華やかできらきらしい。完璧な貴族趣味である。特に部屋の隅にある精緻な細工の大きな箱は、騎士が使うにしては装飾が多すぎて不似合いだ。

 しかしそんな箱も部屋の主――金の縁取りの椅子に座る男の持ち物なのだと考えると、納得できる。

 歳は二十代前半、金の巻き毛に青い瞳。すらりとした長身の、実にきらびやかな美形と言っていい。しかし顔立ちやまとう空気からは高慢な性格がにじみ出ている。驕りが服を着ていると言ったほうがいいかもしれない。

 あーもう、なんでこの人にまた会わなきゃなんないのかな。

 インノツェンツァは心の中で毒づいた。宮廷音楽家を辞めてよかったことの一つが、この男と二度と間近で会わないことだったのに。

「……それで、お話というのは何でしょうか。トリスターノ王子」

 騎士たちが扉を閉めて部屋を去ったあと。低めた声でインノツェンツァが問いかけると、第二王子トリスターノは高級そうな机に頬杖をつきくすくすと笑った。

「おやおや、せっかちだね君は。相変わらず私は嫌われているらしいね」

 わかっているならさっさと用件を話せ、この馬鹿王子。

 インノツェンツァがそう内心で罵ったのは仕方ないだろう。この男には、会うたびに庶民如きがと蔑まされた記憶しかないのだ。同じ部屋にいるのも不快だった。

 インノツェンツァに睨まれたトリスターノは首をすくめ、仕方ないとようやく話しだした。

「君にしてもらいたいことは、たった一つだ。近々王家の主催で音楽会を催すことになったのだが……君にある曲を編曲し、演奏してもらいたい」

「……」

 やっぱりお前もか。

 インノツェンツァは心の中で罵った。

「なんで私なんですか。取り巻きなり国立音楽院の学生なりに声をかければいいでしょう」

「確かに君でなくても他に適任者はいるだろうね。だが君はあのファウスト・フォルトゥナータの娘だ。ヴァイオリンの演奏だけでなく、編曲もできるだろう。だから白羽の矢を立てたわけだ。光栄に思うがいい」

「……」

 誰が光栄に思うかっての。私じゃなくても皆そう言うよ。

 トリスターノの傲慢な笑みに、インノツェンツァは心中で吐き捨てた。

 インノツェンツァの父ファウストはヴァイオリンだけでなく作曲や編曲の方面でも才能のあった人で、生前作った曲は有名な演奏家からも高い評判を得ている。娘であるインノツェンツァも、とトリスターノが注目するのは一般論なら間違っていないだろう。

 インノツェンツァは不快を示す皺を顔に刻み、声を低めた。

「……そんなふうに命令されて、誰が従うと思ってるんですか。あんなに私を蔑んでいたじゃないですか。その貴方が取り巻きの貴族じゃなくて私を音楽会の演奏者になんて、どう考えてもおかしいですよ。理由も言わずに編曲して演奏しろと言われても納得できません」

 この男は身分差別を当然とし、汗水流して働くことを毛嫌いする最低な人間だ。どれほど才能にあふれ世の人々の称賛を浴びている者でも、その身分が庶民であるというだけで蔑む。インノツェンツァも幼い頃からどれほど彼に心ない言葉を浴びせられ、しかし身分の差ゆえに言い返せずにいたことか。

 そんな男が称賛を得たいからというだけで、毛嫌いしているはずのインノツェンツァを貴族の音楽会に参加させようとするのである。どれだけ金を積まれても、真っ平御免だ。

 どうしてこの男はこんなにも性根が腐ってしまっているのだろう。彼の父王は寛容で気さくな敬愛すべき賢王だし、兄王子も身分の上下を気にしない人だ。母である正妃も、接した限りでは傲慢な人ではなかったように思うのに。インノツェンツァは不思議でならない。

 トリスターノは首を傾けて言う。

「聞く必要はないだろう。君は私に雇われ、演奏するだけでいいのだから」

「私はまた宮廷に出入りするつもりはないし、弾きたくないのに弾かされるのも御免です。大体そんな裏があるとしか思えない、胡散臭い音楽会に誰が出席しますかって話ですよ。そんなに私を擁立したいなら、事情を説明するのが筋だと思いますけど」

 説明するのは面倒だと言外に告げるトリスターノだが、インノツェンツァは食い下がる。どうせ出席するつもりは欠片もないし話してくれると期待してもいないが、この男に従順でいる気はまったくなかった。

 話がすんなりまとまらないのが腹立たしいのか、トリスターノの表情はみるみるうちに不機嫌になっていく。インノツェンツァは心の中でざまあ、と痛快に思った。

 しかしトリスターノ突然たちの悪い笑みを浮かべた。インノツェンツァは悪寒を覚え、顔を強張らせる。

「ところで君は、ここがどこなのか知っているかな」

 トリスターノが悠然と問うと、机越しに彼と対峙するインノツェンツァの顔に見えていた苛立ちが増した。

「……砦ですね。騎士団の本部の」

「そう。そしてその団長である私には、当然ながら騎士団に自由に指示できる権限がある」

「…………何が言いたいんですか」

 押し殺した声でインノツェンツァが問うと、トリスターノは勝ち誇った顔をした。

「君や君の周囲の人間を、通り魔の関係者、あるいは他の事件の犯人として逮捕することもできるということだよ」

「っ!」

 人の上に立ち民を守る立場にある者とは到底思えない科白に、インノツェンツァは絶句した。開いた目と口が塞がらなかった。

 卑劣な男だと知ってはいたがこれがこの国の未来を支えるべき第二王子、都の治安を守る赤龍騎士団の長であることがいまだに信じがたい。

「卑怯者! それで王族だの騎士団長だの、よく名乗ってられますね!」

「口を慎んだほうがいい。私が誰なのか忘れたのかい? こうして君が対等に口を利いていられるのも、私の心が広いからだと忘れないでほしいね」

 先ほどまでの不機嫌さはどこかへやって、トリスターノはインノツェンツァの罵倒をせせら笑う。完全に自分が上位に立ったと確信してだ。

 それが一層腹立たしく、インノツェンツァは怒鳴りたい衝動を必死に抑えなければならなかった。

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