第3話 法を守る者

 楽器街では軒を連ねる店が持ち回りで祠の清掃をすることになっている。街の自治会でも特に大事な役目の一つだ。

 ガレルーチェの各地にある祠には様々な神だけでなく、意思を持った大自然の力の欠片である精霊も祀られている。ジュリオ一世が音楽と精霊を愛してやまなかったからだ。

 特に樹木の精霊ドライアドと土の精霊ノームは楽器の素材への感謝ということで、音楽家や楽器職人たちから篤く信仰されている。音楽の女神と並ぶ人気ぶりなのだった。

 音楽を愛する者が集うこの楽器街も例外ではない。インノツェンツァが祠を掃除するのは当たり前のことなのだった。

 清掃中と出入り口に札を掲げられ、誰も入ってこない祠の中。インノツェンツァは黙々と祭壇や音楽の女神像、ドライアド像とノーム像にうっすら積もった埃を払っていく。

 トランペット、ヴァイオリン、フルート。祠の静けさを埋めるようにすぐ外から路上演奏が聞こえてくる。エテルノ屈指の職人工房が集まる通りの祠前で演奏しようとするだけあって、どの演奏者もいい腕だ。

 腕利きの演奏で気分をよくしながら清掃を終え、インノツェンツァは音楽の女神像や精霊たちの像に祈りを捧げた。特別信仰心が強いわけではないが音楽の都エテルノで生まれ育った音楽家なのだ。神霊に祈りと音楽を捧げる習慣は身体にしみついている。

 最後に看板を外して清掃作業を終え、インノツェンツァがささやかな達成感を噛みしめていると今度は中年男性が祠の前で足を止めた。足元に置いた箱から古めかしい民族楽器の笛を出し、音合わせとばかりに軽く吹く。

 見たことのない楽器……どこの楽器だろあれ。

 インノツェンツァはまじまじと楽器を観察した。道行く人々も楽器街とはいえ民族固有の物は珍しいからか、不思議そうな顔で足を止める。それをちらりと見た男性は音合わせを止め、姿勢を正す。

 そして笛に息を吹きこんだ。

 素朴な笛の音が優しい旋律を奏でながら通りに広がっていった。通りを歩く人々が演奏者を捜して首をめぐらせ、中年男性の周囲に向かっていく。

「……」

 演奏しているのを見ているうち、インノツェンツァも身体がうずいてきた。

 ヴァイオリン奏者にうってつけの職場である『夕暮れ蔓』の欠点の一つがこれなのだ。音楽の女神を祀る祠があるからか、毎日のように目の前で誰かが音楽を奏でだす。骨の髄まで音楽がしみついて演奏せずにいられないインノツェンツァにとっては、演奏したくなるきっかけがいつ眼前に映るかわからないのがなんとも悩ましい。

 ああもう、演奏したいっ……! この旋律ならあの曲……!

 インノツェンツァの頭の中に、民族音楽の要素を採り入れた曲の旋律が浮かんだ。亡き父が好んで弾いていた舞踏会のための曲だ。

 身体がうずうずしてたまらない。音楽を奏でたいと全身が叫んでいる。

 だからインノツェンツァは足早に通りを横切って『夕暮れ蔓』へ戻った。掃除道具を片付け、店内に置いてあったヴァイオリン入れから‘アマデウス’と‘サラサーテ’を引っぱり出す。

 そうしてさあ弾こうとしたときだった。

 突然、右手のほうでわあっと声があがった。驚きや感嘆の色が強い。

 インノツェンツァが驚いている暇もなく、人が行きかう通りに若い男が姿を現した。何かに追われているのか必死な表情だ。

 しかしその若い男の足元がにわかに光ったかと思うと、若い男は突如足を止めた。それが不本意なものであるのは、下半身に赤く光る糸が絡みついているを見れば明らかだ。足元を見ては、なんとか走ろうとしている。

 そんな若い男を追いかける者がいた。

「!」

 インノツェンツァは目を見開いた。慌てて外へ出る。

 追跡者が若い男の腕を掴むと赤い糸はふっと消えた。若い男は再び逃げようとするのだがそれよりも早く追跡者が腕をひねって若い男を転がし、追跡者が素早く拘束する。

「大人しくしろ。どのみちお前はもう破滅だ。赤龍騎士団がお前の家をくまなく調べているんだからな」

「……っ」

 追跡者――――灰青色の制服の女性の低い声の脅しに若い男の表情が固まった。逃げようともがいていた身体が動かなくなる。

 鮮やかな手並みである。周囲からわっと歓声があがった。

 そこに、臙脂色の制服の騎士――――赤龍騎士団の団員が駆けつけてきた。追跡者は抵抗する気力を失っている若い男を立ち上がらせて団員に引き渡す。

 それを見届け、インノツェンツァは追跡者に近づいた。

「マリアさん」

「ああ、インノツェンツァか。久しぶりだな」

 振り返ってインノツェンツァを見た男装の女性――マリアは頬を緩めた。

 肩を少し過ぎる長さの眩い金の髪、切れ長の空色の目。整った顔立ちははっきり女性のものであるが凛々しく、女でもうっとりする格好よさだ。

 この男装の麗人はマリア・ミケランジェリ。フィオレンツォの実の姉である。『酒と剣亭』にも時折来店するので、インノツェンツァも親しくしていた。

「マリアさん。あの人悪いことをしたみたいですけど、何やったんですか?」

「精霊保護法違反だ」

 端的にマリアは言った。

「精霊が宿っていると知りながら‘精霊の仮宿’を購入し、精霊が逃げないよう魔法道具で閉じこめている者がいると告発があってな。残念ながら神殿の関係者も含まれているということで、赤龍騎士団と連携して捜査していたんだ。それで今日逮捕に踏みきったら逃げられてしまってな、私が追いかけるはめになったというわけだ」

 とマリアは肩をすくめる。彼女らしい経緯にインノツェンツァは苦笑した。

 世界を巡る大自然の力が姿と意思を得た存在である精霊は、大抵は自分の苗床となった場所で力を蓄えてから自由に動き回るようになる。しかし苗床と同じ物に引っ越して棲みかとすることもあり、それを‘精霊の仮宿’と人間は古くから呼んでいた。

 ‘精霊の仮宿’に宿る精霊は力の弱い個体がほとんどだ。魔法で閉じこめようとする悪人は少なくない。そのためガレルーチェでは精霊そのものを捕らえたり、‘精霊の仮宿’を研究以外の目的で収集したり売買することを法律で禁じているのだった。

 マリアが捕らえた男は神殿関係者でありながらその法律に違反した、ということか。それは確かに逮捕に値する。インノツェンツァは納得した。

 エテルノの治安維持を主任務とする赤龍騎士団の団員に連行される男の背中を見送り、インノツェンツァは息を吐いた。

「いなくなりませんねえ、精霊にひどいことをする人は」

「まったくだ。精霊を愛すると諸国に称賛される我が国、しかも神殿に仕えていながらこれとは嘆かわしい。まあ近頃は幸か不幸か、連続通り魔や窃盗犯のおかげで摘発が続いているのだがな」

「え? そうなんですか?」

「なんだ、知らないのか?」

 インノツェンツァが目を丸くすると、マリアはおやというような顔をした。

「両方の事件で被害者から盗まれた品の中には、‘精霊の仮宿’も含まれているという話だ。だから赤龍騎士団が被害者の周辺を調べるうち、精霊保護法違反に行き着くこともあるそうだ」

「へえ……」

 瓢箪から出た駒、というやつか。インノツェンツァはなんとも言えない気持ちになった。いくら命や所持品を奪われた被害者でも、精霊を在るべき場所から引きずり出していたのなら同情しきれない。

「そういうわけだから、貴女も持ち物には気をつけるようにしたほうがいい。連続通り魔や窃盗犯に盗まれた品のすべてが‘精霊の仮宿’かどうかはわからないが、‘精霊の仮宿’を持っていると思われれば襲われる可能性は否定できない。それと『酒と剣亭』から帰るときは、必ずランプと笛を忘れないように」

「はい」

「くれぐれも危険なことはしないでくれ。私は貴女に怪我をしてほしくないし、フィオも悲しむ」

 言って、マリアはインノツェンツァの頭を撫でた。剣胼胝がたくさんできた手に優しく撫でられ、インノツェンツァは嬉しくなる。

 ミケランジェリ殿、と若い男が控えめに名を呼んだ。身なりからすると彼女の同僚のようだ。

 マリアは同僚に頷くと、インノツェンツァに微笑んだ。

「ではな、インノツェンツァ。あとで『酒と剣亭』へ顔を出す」

「はい! とびきりいいのを演奏しますね!」

 満面の笑みでインノツェンツァは約束する。

 やっぱりかっこいいなあ、マリアさんは。

 同僚と共に雑踏へ消えたマリアの背中に、インノツェンツァはほうと息を吐いた。

 常に凛々しく職務に忠実で、弱い者を労わる心も併せ持っている。年の離れた弟を養い王廟を守って国に尽くすマリアは、インノツェンツァにとって憧れの存在だ。

 武器を持って戦うことはできないし、容姿だって到底敵わない。けれどせめて彼女のような気概でありたいといつも思う。宮廷音楽家の職を辞したから、なおのこと。

 上機嫌でインノツェンツァは歩きだした。足どりも軽く『酒と剣亭』へ向かう。

 マリアがそうしていたように、インノツェンツァの背筋は自然とまっすぐ伸びていた。

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