第2話 彼女の音楽があるところ

 レオーネが言っていた通り魔というのは、近頃エテルノを騒がせている謎の連続殺人犯のことだ。

 昼夜も身分も老若男女も問わず、一撃で獲物を仕留めるのだという。そして必ず所持品を一つは持ち去っていく。盗まれる物は必ずしも高価とは限らないため最初はそれぞれ別の事件だと考えられていたが、同じ手口の報告が相次いだことで同一犯だとみなされるようになった。

 少年による連続窃盗事件も頻発していて、エテルノの治安維持を主任務とする赤龍騎士団がこの二つの事件を捜査している。しかし二日前にも所持品を奪われた下級貴族の青年の遺体が発見され、とある劇場の支配人が自慢の剣を盗まれた話も噂になったばかりだ。そのため庶民だけでなく富裕層からも、騎士団の団長トリスターノに対して非難の声があがっているのだった。

「そりゃあさ、お化粧してもレオーネとフィオには敵わないけど! でもだからって、あんなこと言われてもいいじゃん」

 夕方になる、少し手前。ぶつぶつ言いながら、インノツェンツァは店の裏口の戸を施錠した。ヴァイオリン入れを片手に小路を歩きだす。

 ああもう、思いだすだけでもいらっとする。私がこういう反応することはわかってるくせに。

 ぶつぶつ文句を言いながら、インノツェンツァが大通りを走ってしばらく。杯と剣を蔦で囲んだ看板の店が四つ辻に見えてきた。

 インノツェンツァは店の裏口に駆けこむと、更衣室の自分専用棚に荷物を置いて荒い息を鎮めた。手早く身支度を整えてからホール馴染み客や同僚たちに挨拶しつつ、テーブルの合間を早足で歩く。

 物珍しげな一見客の視線を流していくと次に向けられるのは、舞台前に陣取る常連たちの声援なのか野次なのかわからない声だ。

 看板の意匠と一致した屋号の酒場『酒と剣亭』。それなりに美味しい料理と酒を手頃な価格で提供していて、夕方から夜にかけては仕事帰りの人々で賑わう。都の巷間では有名な店である。

 この店の一番の売り物は毎日決まった時間に始まる催しものだ。インノツェンツァはそのために雇われたヴァイオリン奏者で、今夜はヴィオラやコントラバスの奏者と組んで三重奏をすることになっている。

 インノツェンツァが舞台のほうへ歩いていくと、舞台のそばにいたコントラバス奏者が気づいて振り返った。その隣で客席のほうを見ていたヴィオラ奏者も、腰にヴィオラを持つ手を当ててインノツェンツァを冷ややかにねめつける。

「遅いですよ、インノツェンツァ」

 肩に就く長さで切り揃えた金の長髪、空色の瞳。インノツェンツァより背は高いが華奢な体格で、顔立ちもまた要素の一つ一つが繊細なつくりと完璧な配置をしている。そんじょそこらの女性よりも目の保養になる、という表現はけっして言いすぎではない。

 フィオレンツォ・ミケランジェリ。女性客の熱い視線を一身に集める、この店の看板娘ならぬ看板少年である。

 へらりとインノツェンツァは笑った。

「ごめんごめん。『夕暮れ蔓』のほうで後片付けしようとしたら、レオーネの相手しなくちゃいけなくなって」

「レオーネさんが?」

 フィオレンツォは眉をしかめた。

「もしかして、音楽会へ参加するよう依頼されたんですか?」

「うん、そうだけど……もしかしてフィオレンツォも?」

「ええ」

 インノツェンツァが尋ねると、フィオレンツォは頷いた。

「てことは、フィオレンツォは断ったんだ」

「二ヶ月足らずで編曲をしたうえ演奏の練習もするなんて、僕には無理ですからね。そんな時間はありません」

 きっぱりとフィオレンツォは言った。

 姉と二人で暮らしているこの少年は多忙な姉に代わって家事を一手に担いながら、ガレルーチェ最高峰の音楽学校である王立音楽院へ通っている。こうして職場で演奏の腕を磨いているのも学業のためだ。他の仕事を引き受ける余裕なんてないだろう。

 コントラバス奏者のウーゴも誘われたそうだが、こちらも王侯貴族の音楽会は荷が重いからと断ったのだという。それで困ったレオーネは幼馴染みを頼ろうとした――といったところのようだ。

「一応、王立音楽院の生徒を勧めたんですけどね。王侯貴族の音楽会は富裕層に自分を売りこむ絶好の機会ですから。参加意欲がある生徒は多いはずですが……それで、貴女は参加するんですか?」

「まさか。断ったよ。あっちには関わりたくないし」

 インノツェンツァは肩をそびやかして苦笑した。

「ならいいのですが。ともかく、始めましょう」

「うん」

 フィオレンツォに促されて頷き、インノツェンツァたちは舞台へ上がった。

 インノツェンツァは肩幅に両足を開くと、ヴァイオリンを片方の肩に乗せ、顎で挟んで首を持った。糸巻きから糸止めまでまっすぐに張られた弦に、楽弓を当て、呼吸を整える。

 三人が軽く音合わせをすると酒場の雰囲気が微妙に変わった。ざわめきが少しだけ静まり、客たちの間に好奇や興味、期待が生まれて空気に溶ける。

 音合わせを終え、舞台の真ん中に立つインノツェンツァが振り向いて大きく頷く。それを受けてウーゴはチェロを弾き始めた。

 流れるのは料理の匂いや体臭、談笑やかち合う食器やグラスの音がごちゃまぜの酒場に相応しい、底抜けに明るい旋律だ。

 フィオレンツォのヴィオラが重なれば、待っていましたとばかりに女性の熱烈な支持層が黄色い声をあげ目を輝かせて見入る。

 そしてインノツェンツァが主旋律を奏でだすと、舞台前列のテーブルに座った常連の男たちが一層大きな歓声でそれを迎えた。前奏を聞き流していた者たちもその囃子と素直で底抜けに明るいヴァイオリンの音色に心を惹かれ、舞台へ目を向けて曲に聞きいる。

 ますます盛り上がる酒場の熱気と陽気な音楽は外へとこぼれ、店の外を行き交う人々の目も店内へ一瞬でも向けられた。食事処を探していた者は音色に惹かれて酒場の扉を押し開ける。

 そうして今夜も大盛況のうちに演奏を終え、インノツェンツァは舞台を降りた。酒を片手に顔が赤くなった常連客たちに荒っぽく髪を掻きまわされたり、肩を叩かれたり。酔っ払いの陽気な称賛をいつもと同じように浴びながら店の奥に引っこむ。

 ――――が。

「おい、インノツェンツァ。お客だぞ」

 インノツェンツァが奥へ入ろうとしたところで壁際に立っていた、一目で子供を泣かせそうな強面の店長がインノツェンツァに言った。くい、と自分の斜め後ろを指差す。

 今日はやたら人が会いにくるな、と不思議に思いながら何気なく視線をそちらへ向けたインノツェンツァはぎょっとした。

 淡い色の服の上に空色のショールを羽織った、唯一の肉親である母リーヴィアが客だったのだ。

「お母さんっ? なんでいるのっ?」

「なんでって、貴女ランプを忘れたでしょう。帰るときは危険だから、必ず持っていきなさいといつも言ってるのに」

 娘が慌てているのとは反対に、リーヴィアはほら、とリーヴィアは持っていた青緑のランプをインノツェンツァに見せた。それでインノツェンツァはやっと、自分が忘れ物をしていたことに気づく。

 しかしこんなところで忘れ物の暴露なんて公開処刑に等しい。実際、周りの大人たちはくつくつにやにや笑っているではないか。インノツェンツァは膝からくずおれそうになった。

 あ、穴があったら入りたい……!

 インノツェンツァが顔を真っ赤にしていると、しかしとフィオレンツォが口を挟んできた。

「ご婦人が一人で夜道を歩くのも危険ですよ。体調のこともありますし」

「ええ、そうなのだけどね。今夜はロッタ神殿の神官長様が馬車に乗せてくださったのよ」

「神官長様が?」

 インノツェンツァは目を瞬かせた。

 ロッタ神殿はエテルノ東部にある丘の上に立つ神殿だ。ガレルーチェ建国以前からあった神殿の廃墟を第二代国王ベルナルド一世の御代に増改築したもので、歴代国王の霊廟となっている。国の守護神である光の神をはじめとする神々を祀ってもいるため多くの参拝者が訪れる、ガレルーチェ随一の聖地でもあった。

 インノツェンツァは亡き父の縁故で、このロッタ神殿の神官長と母共々顔見知りだ。とはいえ、母と神官長が顔を合わせたことはそう多くないと思うのだが。

「なんで神官長様がうちに来たの?」

「いえ、神官長と会ったのは『夕暮れ蔓』の前よ。貴女がまだあっちにいるかもと思って行ってみたら、神官長様に声をかけられたの」

「『夕暮れ蔓』に?」

「トビアさんに用があったみたいよ。楽器の仕入れに行っているのを知らなかったのね。それで帰ろうとしたところに私を見つけて、声をかけてくださったのよ」

 ありがたいことだわ、とリーヴィアは深く頷く。

 しかしインノツェンツァはなんとも言えない表情になった。ちらりとフィオレンツォと視線を交わす。

「インノツェンツァ? どうしたの?」

「っなんでもない」

 つい自分の考えに没頭しかけていたインノツェンツァは、不思議そうな母の声で我に返り慌てて首を振った。ごまかすように店長のほうを向く。

「店長、母に待ってもらってても構いませんか? 母一人で帰るのは危険ですし」

「構わんよ。リーヴィアさん、何か飲みますかね?」

 と店長はにこやかにリーヴィアをカウンターのほうへ案内していった。それを見送り、インノツェンツァはほっと息をつく。

 けれど不安はどうにも消せない。神官長の『夕暮れ蔓』来訪は、レオーネが言っていた王家主催の音楽会と関連があるようにしか思えないのだ。王家主催の行事に出席することがあるロッタ神殿の神官長なら、例の音楽会に出席していてもおかしくはない。

 となると神官長も音楽会の演奏者候補を探していたのだろうか。

 神官長もインノツェンツァの過去を知っているのだから。

「……インノツェンツァ、大丈夫ですか?」

 隣を歩くフィオレンツォは少し心配そうにして、インノツェンツァを見た。店の奥へ下がっても、インノツェンツァの表情がいつもと同じではないからだろう。

 インノツェンツァはまたたかせ、へらりと笑った。

「うん、大丈夫だよ。立て続けに知ってる人が来てるから驚いただけ」

「……だといいのですが」

 フィオレンツォは小さく息を吐いた。

「なんにせよ貴女はすでに宮廷音楽家を辞めたわけですし、もう呼び戻さないでほしいものですね。貴女はここの演奏者なんですから、またあちらへ行かれたら困ります」

 主旋律がいないと話になりません、とフィオレンツォは前を向いて言った。

 そう、『もう』なのだ。

 インノツェンツァは二年前から一年前まで、史上最年少の宮廷音楽家として王城に出入りしていた。亡き父ファウストが宮廷音楽家で、父と共に宮廷で演奏する機会が何度もあったインノツェンツァの才能を現国王が高く評価したのだ。

 だが、十五歳の平民の小娘が名誉ある宮廷音楽家の一人として名を連ねることを快く思わない者はいるもの。それに当時のインノツェンツァは王城に出入りしていても、王侯貴族の社会で生きていくのに必要な社交術や考えかたが不十分だった。在学していた王立音楽院でも孤立しがちだった。

 そうして馴染めない貴族社会での日々に神経をすり減らしたインノツェンツァは、精神的に追いつめられていった。生気をなくしていく娘を見ていられなくなったリーヴィアが国王に娘の解任を嘆願し音楽院も中退させなければ、インノツェンツァの精神は壊れていたかもしれない。

 そのあと。親子二代で世話になっているトビアがそれならと雇ってくれ、さらに演奏の場が必要だろうと『酒と剣亭』も紹介してくれたのだ。

 今とは別人の、疲れきったインノツェンツァを間近で見ていたのである。また王家主催の音楽会に誘われたと知れば、リーヴィアは心を痛めるに違いない。

 一流の医師を派遣し薬代も半額を払ってくれている恩人のレオーネからであればなおのこと、恩義との板挟みで悩むだろう。やはり母に言わないほうがいい。

 まったく……なんでレオーネは私に音楽会へ参加しろなんて誘ってきたのかな。

 あの頃のインノツェンツァがどうだったのか考えれば、断るだろうと想像できないはずがないのに。それだけ、切羽詰まっているということなのだろうが。

 心の中で幼馴染みに文句を言いながら、荷物置き場に入ったインノツェンツァは自分用の棚からヴァイオリン入れを出した。そのとき緩く吹きこんできた風と一層大きな外のざわめきに誘われ、開け放したままの窓に顔を向ける。

 窓の向こうでは大通りを集団で歩く人々がいた。出てきた人々の顔はどれも明るく、興奮冷めやらぬ様子だ。通りの少し先に劇場があるので、そちらでの公演の帰りなのかもしれない。

 芝居だったのか、演奏会だったのか。ともかく充実した時間を過ごせたのが一目でわかる。

 あの劇場へ行ったことはないけれど、どんな舞台なのかな……。

 公演の余韻に包まれた人々をぼんやりと見ながらインノツェンツァは、ふとそんなことを思った。

 インノツェンツァはかつて、劇場の舞台で演奏するのが好きだった。特に王城の‘音楽の間’や城下の王立劇場の舞台は、音楽を響かせることにこだわった設計だからどんな場所よりも演奏したかったのだ。両親やレオーネの妹イザベラが手配してくれた服で着飾って、褒められるのも嬉しかった。

 でも今のインノツェンツァにとってあのきらびやかな世界は、貴族との付き合いを我慢し母を不安にさせてまで行きたい場所ではない。

 音楽の素晴らしさを忘れかけた自分を救ってくれた『酒と剣亭』と『夕暮れ蔓』が、今のインノツェンツァにとっての劇場なのだ。

 インノツェンツァは‘アマデウス’と‘サラサーテ’を脳裏に思い描いた。

 どちらも元々は、インノツェンツァの父が出かけた先の古い民家の住民から譲ってもらった代物だ。没落貴族の子孫の家だと言っていたから先祖が手放せなかったのだろう、とインノツェンツァの亡き父は言っていた。

 貴族の盛衰を見つめていた道具だ。インノツェンツァの苦しみも喜びも身に浴び、響かせてきた戦友たち。

 そう、彼らと共に望まれる舞台であれば自分はそれでいい。ジュリオ一世が色彩の注文をつけたという、あのきらびやかな舞台でなくても。

「……どこで演奏するかより、誰に聴いてもらうかだよね」

 貴方たちは、どこで誰に演奏したって同じだろうしね。

 呟いて笑い、インノツェンツァは‘アマデウス’と‘サラサーテ’をヴァイオリン入れにしまった。

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