第一章 音楽会への招待状

第1話 楽器街のヴァイオリン弾き

 この世界には、ガレルーチェ音楽国と他にはない呼称で知られる王国がある。その王都はエテルノといい、近隣諸国からも音楽を志す者がやってくる都市として名高い。

 そんな土地柄を体現している一画の一つが楽器街だ。楽器職人の工房や音楽の専門店、劇場が通りの両脇に軒を連ねている。先人のように人気を博して大物になる野心を抱き、路上で演奏する者も少なくない。

 音楽の夢の宝石箱。そう表現される楽器街の中ほどにある、両隣の楽器店を合わせた広さの弦楽器専門店『夕暮れ蔓』でも今日も今日とて音楽談議が花開いていた。

「ねえ、店員さん」

 弦楽器や楽譜、消耗品が広々とした店内で箱を抱えて歩いていた店員はそう背後から呼び止められた。

 背の半ばまで届く烏羽の黒髪、夏に向けて芽吹く緑をそのまま写した色の瞳。特別背が高いわけでなければ痣などの特徴があるわけでも、造作が並外れて整っているわけでもない。人ごみに埋没する、十人並みの容姿の少女である。

 インノツェンツァ・フォルトゥナータ。それが、今年で十六歳になったばかりの彼女の名だ。

 インノツェンツァが振り返ると、十歳前後だろう栗色の髪の少女はカウンター奥の棚を指差した。

 棚に置かれているのは、飴色のヴァイオリン入れと光沢がつややかなヴァイオリン、そして宝石の粒で装飾された楽弓だ。

「あのヴァイオリンと楽弓は、売り物なの?」

「ううん、あれは売り物じゃないよ。私のヴァイオリン。‘アマデウス’と‘サラサーテ’っていうんだ」

 インノツェンツァはにっこり自慢そうに笑って説明した。

 このヴァイオリンと楽弓は亡き父がインノツェンツァに贈ってくれたものだ。旅先で見つけたものらしく、‘アマデウス’は深みのある音色を遠くまでよく響かせるし、‘サラサーテ’はよく手に馴染む。初めて弾いたときからインノツェンツァはこの二つの道具の虜になっていて、とても大切にしていた。

 少女はぱっと目を輝かせた。

「おねえちゃんは、ヴァイオリン弾くの?」

「うん」

「っじゃあちょっと待ってて!」

「あ! こら!」

 何を思いついたのか、少女は母親の制止を無視して身をひるがえした。母親がインノツェンツァに申し訳なさそうにしているあいだに、商品棚から楽譜を持って戻ってくる。

「この曲ってどんな曲なの? 上手じゃなくても弾ける?」

「うーん、そうだねえ……」

 インノツェンツァは眉を下げた。

「曲そのものはそんなに難しくないと思うよ。凝った装飾もないし、すごく練習しなきゃ弾けないわけじゃないし。でも、曲を作った人の想いを表現するのは難しいかもしれないね」

「?」

「これは、モンタルバーノという人が、奥さんを亡くしたときに作った曲だから」

「悲しい曲なの?」

 と、少女はぱちぱちと目を瞬かせる。

 インノツェンツァは苦笑しながら頷くと、こういう曲だよと‘アマデウス’を肩に乗せ、曲を演奏してみせた。

 むせび泣くように細く震える音が緩やかに連なっていく――――。

 何の前触れもなく最愛の妻を亡くした悲しみと尽きない愛を作曲者が注ぎこんだ――――そう言い伝えられている曲を弾くほど、インノツェンツァは旋律が筆となって漆黒のキャンパスの上を様々な色で塗りあげ、一枚の絵画に仕上げていくのを見ているような気分になっていった。

 周囲の音は遠い。闇の中で描きあげられた絵は、鮮やかな色彩を所々に有しているがどこか陰を漂わせている。華やかなものを遠くから見つめる切なさやさみしさ、虚しさが見える。

 曲の前半部分を軽く演奏したところで、インノツェンツァは楽弓を止めた。すると二つの小さなものに加え、他の客の拍手が店内に響く。インノツェンツァがそちらに照れた顔で会釈していると、少女は目をきらきらさせてインノツェンツァに飛びついた。

「すっごーいおねえちゃん! とても上手だね! もしかして、有名なヴァイオリン奏者なの?」

「ううん、私は全然有名じゃないよ。ここと『酒と剣亭』っていう酒場で弾いてるだけ」

「あら、そうなの? この店には宮廷音楽家の女の子が働いてるって聞いたのだけど」

「えっおねえちゃん王城で働いてるのっ?」

 母親が目を丸くした途端、少女は目を大きく見開いて反応した。

 インノツェンツァは苦笑した。

「王城で働いてたのは、一年前までですよ。死んだ父が宮廷音楽家だったので、跡を継ぐみたいな感じで拝命しまして。そういう棚ぼたですしすぐ辞めたんで、すごいというほどでもないですよ」

 こういう身の上の説明は今回が初めてではない。一体誰が話しているのか、インノツェンツァの経歴を伝え聞いてこの店を訪れる客はたまにいるのだ。インノツェンツァも面倒ではあるが説明することに慣れてしまっていた。

「それよりどう? 弾けそう?」

「うーん、多分弾けると思うけど……なんか悲しくなるから嫌かも」

 少女は首をかしげ、むうと眉をしかめて考えこんだふうの顔をする。

 その表情がなんだかおかしくて、インノツェンツァはくすりと笑って少女の頭を撫でた。

「ヴァイオリンの先生が指定してるなら弾かなきゃ駄目だけど、そうじゃないならやめておくのもいいと思うよ。気持ちを表現しようと考えながら弾くのは、簡単じゃないし。難しいことを無理に練習してるうちに、つまらなくなるかもしれないから」

「うー、どうしよう……どっちがいいかなお母さん」

 買うか買うまいかと悩む少女が母親を振り返ると、母親は困った顔をしてそうねえと間延びした声をあげた。ヴァイオリンには詳しくないのかもしれない。

 結局、楽譜は少女の手に渡ることになる。インノツェンツァが楽譜を紙袋に包んで渡すと少女はとても嬉しそうな顔をして、母親と共に店を出ていった。

 もう二組の客が店を出て棚の掃除も終わり、帳簿もつけてすることがなくなったインノツェンツァは大きく伸びをしたついでに、インノツェンツァはカウンター奥の壁に掛けられている時計を見上げた。そろそろ店を閉める時間だ。

 なのでインノツェンツァは戸締りをしようと扉に近づいた。扉に掲げた札を『本日の営業は終了しました』にしないと。

 ――――しかし。

 インノツェンツァが作業をしようとすると、その扉が開いた。軽やかな音をたてて鈴が鳴り、見慣れた人物が店内に入ってくる。

 明るい栗色の髪に漆黒の瞳、無駄な肉のない体格。安物の庶民の服を着こなしているが、富裕層の生まれ育ちとしか思えない品のよさや人に指示することに慣れた雰囲気は隠せない。立っているだけなのに華がある美青年だ。

 レオーネ・ガレルヴェリアはインノツェンツァより二歳上の幼馴染みだ。まとう雰囲気が示すように王侯貴族の御曹司なのだが、亡き父の仕事の関係で幼い頃に出会って以来身分を気にせずお互いに言いたいことを言いあってきた。もっとも、気心が知れすぎて子供じみたじゃれあいになることのほうが多いわけだが。

 インノツェンツァは眉をしかめた。

「レオーネ? なんでこんな時間に来たの? もう店閉めるとこなんだけど」

「話があるからに決まっているだろう。私だって忙しい」

「話? 私に何か用なの?」

 言いながら、インノツェンツァは閉店の準備を始めた。どうせ大したことではないだろう。

 だが。

「…………王家が主催する、音楽会の演奏者を探している」

 レオーネは一言そう言った。重く、苦渋に満ちた声音で。

 インノツェンツァは思わず手を止めた。振り返ると、レオーネは声そのままの表情をしている。

「時期は、一ヶ月半後。おそらくは半日程度で終わる仕事だ。王侯貴族が参列する場だが、演奏のあとにお前が出席者に声をかけられたり、また音楽会に出席をと依頼されないようにもする。演奏だけでなく編曲もしなければならないから、報酬は弾む」

「……」

「余計な気遣いはしなくていい。……やる気はないか」

「嫌」

 真顔で問いかけてくるレオーネに、インノツェンツァは一瞬の迷いもなく即答した。考えるまでもないことだからだ。

 レオーネは片方の頬をひくつかせた。

「迷うそぶりもないのか」

「だって、つまりは前みたいに貴族の前で弾けってことでしょ? 冗談。それに、その音楽会の日にトビアさんが帰ってきてるかわかんないし。夜に音楽会があるとしても早じまいしないといけないから、無理」

「トビアさんなら一日くらい休みでも構わないと言うんじゃないのか?」

「だから。私の都合で臨時休業にして、お客さんをがっかりさせたくないんだってば」

 珍しく食い下がってくるレオーネに、苛立ちを声音に混ぜてインノツェンツァは言った。

 店の一切を取り仕切っているインノツェンツァだが、実はこの『夕暮れ蔓』の店主ではない。店主は商品を仕入れに遠方へ出かけている最中で、唯一の店員であるインノツェンツァが店番をしているのだ。

 都合に合わせて店を開けてもいいとの言質はもらっている。そこでだから自分の都合に合わせて店を閉めよう、とならないのがインノツェンツァなのだ。

「そりゃ、国王陛下や王太子殿下が聞いてくださるのは嬉しいけどさ。イザベラ様ともお会いしてないし」

「……」

「でも、私はああいう世界にもう関わらないって決めてるの。きっと母さんも、私が王家主催の音楽会に出るって言ったら心配するよ」

 だから嫌なのと、インノツェンツァは腰に手を当ててきっぱりと言った。

「…………わかった、今のは忘れてくれ」

 レオーネは長い息を吐き、あっさり引き下がった。インノツェンツァにまったく出席する気がないと理解したのだろう。

「悪かったな、こちらの都合で音楽会に参加させようとしたりして」

「別に。レオーネが突然私に無理難題か嫌味ふっかけてくるのは、いつものことだもん」

 と、インノツェンツァは肩をすくめる。

 助けてやれないのを申し訳なく思いつつ、まあでも、とインノツェンツァはわざと明るい声で続けた。

「私に音楽会に出るよう頼むなんて、レオーネらしくないね。私なら断るだろうってわかってたでしょ」

「……まあな」

 苦い顔で、レオーネはインノツェンツァに同意した。ところで、と話題を変える。

「リーヴィアさんの具合はどうだ? 半月前に医師を派遣したときは、少し身体の具合がよくなかったと聞いているが」

「うん。お医者様がくれた薬のおかげで、よくなったよ。今朝も朝ご飯作ってくれたし。近所の人たちもいるから大丈夫」

「そうか、それはよかった」

 インノツェンツァが説明すると、レオーネはほっとした顔をした。家族ぐるみの付き合いなので、インノツェンツァの母が病弱であることを知っているのだ。

 それどころかレオーネは定期的に腕利きの医師を派遣し、薬代を半額払ってくれてもいる。裕福な彼は全額払うと言っていたのだがさすがにそこまで甘えたくなかったし、母も恐縮しきりだったので半額は亡き父の遺産から払うことにしたのだ。

 気前が良すぎるというか……。あれだよねえ、高貴な者の義務とかいうやつ。根っからの王侯貴族なんだよね。

 だからインノツェンツァは自分の心のまま、レオーネの頼みを断らなければならない。彼は日々の貸しを返してもらうつもりであんな頼みごとをしてきたはずがないのだから。レオーネが苦々しい表情だったのも、恩返しを強要しているような振る舞いだと思っているからに違いない。

 いつだって自分が思うまま相手にぶつかっていく。それが身分と性別を超えて腐れ縁を続けてきた、自分たちの関係なのだ。

 これで話は終わりのようで、レオーネは踵を返そうとした。しかしふと足を止め、インノツェンツァを振り返る。

「……何もないだろうし無駄だとは思うが、身の周りに気をつけろ」

「? いきなり何、そんな当たり前のこと」

 あんまり真剣な顔で言ってくるものだから、インノツェンツァは眉をしかめた。今の話のどこをどうすれば、そんな表情をする話になるというのか。

「まだ通り魔が捕まっていなくて、物騒だからな。そっちでなくても押し入り強盗が増えていると聞くし……お前が気紛れで狙われないとは限らない」

「はあっ? 顔と声がいいだけの馬鹿ぼんに言われたくないっ」

 ふんと鼻を鳴らして傲然と言われ、当然の如くインノツェンツァは眉を吊り上げる。そんなインノツェンツァの反応を見たレオーネは、実に満足そうな表情だ。

 インノツェンツァはぷるぷると拳を震わせた。

 申し訳なく思う必要、なかった。私の良心に謝れ。

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