第二章 奇妙な楽譜

第5話 愚者の要求・1

 翌日。定刻より少し早い時間に『夕暮れ蔓』へ出勤したインノツェンツァを出迎えたのは、トビアの安堵の表情だった。

「インノツェンツァ! 無事で良かったよ」

 店の奥の事務室に顔を出したインノツェンツァの顔を見るなり、トビアは彼女に駆け寄り両手を握った。

「お、おはようございますトビアさん。……フィオレンツォも」

 いくらなんでも心配しすぎだろうと、少々ひどいことを思いながらインノツェンツァはトビアに挨拶する。次いで店内からやってきたフィオレンツォに目をやった。

「フィオレンツォはどうしてここに? 音楽院は?」

「今日は臨時休講です。ルチアーノ教授が急病になりましてね」

 端的に説明すると、フィオレンツォはインノツェンツァのほうを見た。

「ちょうどさっきトビアさんから話を聞きました。……怪我はないようで安心しました」

「うん、まあ……話だけだったし……」

 長い息を吐いて安堵を全身で表すフィオレンツォの様子に、インノツェンツァは少し気恥ずかしそうな表情で頬をかく。いつもは怒られてばかりなのだ。心配されるとどうにもこそばゆい。

「それで、どこへ連れていかれて誰に何を言われたんだい? もしかしなくても、第二王子に呼び出されたのかい?」

 と、トビアが問いかけてくる。彼もフィオレンツォもインノツェンツァの前職のことは知っているのだ。

 さて、とインノツェンツァは考えた。

 あの馬鹿王子、昨日の話を話すなとか脅してきたんだよね……もしトビアさんとフィオレンツォに話したって知られたら、何をしてくるか……。

 自分の意に添わなかったというだけで侍女や使用人、騎士団員にひどい仕打ちをしたと悪評が絶えない王子だ。口説かれてもなびかなかったさる貴族令嬢を子飼いの部下に襲わせた、なんて噂すらある。報復しにきてもおかしくない。

 だがあんな男の脅迫に屈しただけでもインノツェンツァは充分腹が立っているのだ。これ以上言うことを聞いていられるものか。

 要はばれなきゃいいんだもんね! トビアさんもフィオレンツォも口が堅いし!

 そう自分を納得させると、インノツェンツァは連行されてからの一部始終を二人に話すことにした。

 途中で始業時間になったので、店内に場を移し、話を続ける。今日も生憎の雨模様のせいで、客はやってこない。話の腰を折られることはなかった。

 インノツェンツァが話し終えると、気になるからと事務室に残っていたフィオレンツォは難しい顔で腕を組んだ。

「トリスターノ王子も編曲の依頼ですか……」

「? 他にも誰か……ああ、レオーネ君か」

 一瞬眉をしかめたトビアはすぐ納得したように頷いた。レオーネがインノツェンツァと世間話をしにこの店を訪れるうち、顔見知りになっているのだ。

 フィオレンツォは顎に手を当てた。

「確かにただの音楽会ではなさそうですね。あの悪名高いトリスターノ王子が、わざわざ脅迫してまで元宮廷音楽家の貴女に編曲と演奏をさせようなんて……普通じゃないですよ」

 フィオレンツォもその点が気になるのか、思案の顔で瞼を伏せる。性格が容姿を破壊している第二王子と違って、生真面目な美少年が窓辺で沈思する横顔は一枚の絵画のように美しい。インノツェンツァはこっそり見惚れた。

「それで、弾けって言われた曲なんだけど……」

 思わぬ眼福に気分を良くしながらインノツェンツァは楽譜を二人に見せる。

 途端、二人はなんだこれといったふうな表情になった。

 当たり前だろう。その‘楽譜’には黒い点しかなかったのだから。

 音符に音階を与える五線がない。速度や音の強弱、曲の雰囲気を示す記号も。題名や作曲者の名すらない。

 音の長さを示す線が与えられた音符の連なりが記されただけの数枚の紙。それが、インノツェンツァがトリスターノに弾けと命じられた‘楽譜’だった。

 楽譜とは到底呼べない代物とインノツェンツァの顔を交互に見つめたトビアは、戸惑いの目をインノツェンツァに向けた。

「ええとこれ、楽譜……?」

「いえ、単なる音符の連なりですよ。打楽器の楽譜のようにも見えない……本当に、これだけなんですか?」

 フィオレンツォに問われ、うんとインノツェンツァは頷いた。

「元の楽譜に書いてあるのを丸写ししたって言ってたけど、あの人どう考えても馬鹿だよね。こんなので弾けるわけないよ。どの音を出せばいいかどころか、どの楽器で演奏する曲かもわかんないし。フィオレンツォもわかんない?」

「ええ、こういう形式のものは初めて見ますよ。古代の記譜法ならこの形の音符はまだないですし、かといって中世以降であれば楽譜には一本でも線が引かれていているはずですし……」

 本当に楽譜なんですかこれ、とフィオレンツォは疑わしそうに楽譜を見下ろした。

 楽譜の歴史は古代、神殿で神官が賛美歌を歌う際に歌詞を書いた紙に音の高さを指示した記号を所々挟むようになったことから始まるといわれている。

 千七百年ほど前になると楽器専用の譜面が登場し、線で音の高さを示すようになった。それから新しい楽器の登場や発達に合わせて様々な記号や標語が生まれ、様式が統一されて現代の楽譜へと進化していったのだ。

 その歴史から考察するとこれは明らかに異質と言える。曲のすべてを記していない点では中世以前のもののようなのに、音符の形そのものは中世以降――つまり現代に近い形をしているのだ。中世から現代のあいだに生きた誰かの備忘録だとしても、それならどうして五線譜がないのだろうか。

 つまりトリスターノはヴァイオリンで演奏可能な曲なのかすらわからないこの‘楽譜’を曲として仕立て直し、演奏しろと言っているのだ。しかも、二つの仕事をこなしながら一ヶ月程度で。

 無謀を通り越している。ふざけているのか、としか言いようがない。

 当然インノツェンツァはトリスターノに猛抗議した。だが、権力の乱用を口にされては刃向かえないのである。本気でこの曲を演奏させたがっているのか疑いながら、インノツェンツァは帰路に就くしかなかった。

 しかしここでフィオレンツォが口を開いた。

「……もしかすると、ジュリオ一世のものかもしれません」

「ジュリオ一世? なんで?」

 予想外の名前にインノツェンツァは目を丸くした。

 確かに初代国王であるジュリオ一世は優れたヴァイオリン奏者であると同時に作曲家でもあり、彼が書いた楽譜やその写本は王立図書館などで保管されている。どれも不思議な旋律の曲だったのがインノツェンツァには印象深く残っている。

 しかしインノツェンツァが見たものはすべて五線譜だ。どうしてこの線のない譜面がジュリオ一世のものかもしれないのか。

 実は、と前置きしてフィオレンツォは続けた。

「一昨日の音楽史の講義で聞いたところなんですが、王家には謎めいた音楽会を主催するならわしがあるらしいんです」

「え?」

「第二代国王ベルナルド一世の頃からで、御代によって数に差はありますがどの国王の治世でも必ず一度は行われているとか」

「何それ、そんな音楽会があるの? 私初めて聞いたよ」

「僕も初めて聞くね、そんな音楽会」

 宮廷音楽家だった自分が知らない王家主催の音楽会があったことに、インノツェンツァは目を丸くした。トビアも驚き顔だ。

 未完成のロッタ神殿に勤めていた下級神官バーダの手記について講義で聞いたのだと、フィオレンツォは語った。

 手記によればベルナルド一世は亡き父王の霊を慰めるためという名目で、複数の王族と音楽家を連れて増改築中のロッタ神殿を訪れることがあったのだという。それも、四度も。

 彼らはロッタ神殿で真っ先に工事が行われた奥に向かい、人払いをしたうえで儀式をおこなっていた。そのためバーダのような下級神官はどのようなものだったのか、まったく知ることはできなかったのだ。

 しかし。参加した音楽家に後日話を聞いたところ、その音楽家は音楽会に参加した記憶がなかった。神殿へ行ったことは覚えているがそのあとは何をしたのか覚えておらず、気づけば神殿の一室にいたとか。

 そしてその部屋で音の高さがわからない謎の楽譜を見たのだと、音楽家は語ったのだった――――。

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