第6話 愚者の要求・2
「……どう聞いてもこれのことですよね、その楽譜って」
「だねえ」
インノツェンツァが‘楽譜’に目を落とすと、トビアもなんとも言えない表情で‘楽譜’に視線を向けた。
でも、とインノツェンツァは首を傾けた。
「参加した人の記憶がないのはなんで? 皆忘れてるっておかしくない?」
「王宮付きの魔法使いに命じて、参加者の記憶に干渉したからじゃないかな。そういう魔法があるから」
「ですね。所持していた‘楽譜’もおそらくはできるかぎり回収したでしょう」
トビアに続いてフィオレンツォも頷き、そう推測した。
そっか、とインノツェンツァは残念そうに息を吐いた。
フィオレンツォが聞いた話が事実なら、この‘楽譜’がジュリオ一世の書いた楽譜の写本というのはありうる話だ。ガレルーチェは建国以前から音楽で慰霊をしていた土地柄なのである。ベルナルド一世による慰霊の音楽会が王家の伝統になっていたとしても不思議ではない。
――――何故参加者の記憶を改竄してまで隠すのか、という疑問はあるが。
トビアも首をひねった。
「もしあの‘楽譜’が世に発表されていないジュリオ一世の曲だとしたら、それはそれで不思議な話だね。どうしてこんな、自分でさえあとから見たときに解読できないかもしれない記述をしていたのかな。ただの下書きで、あとから書き直すつもりだったようにも思えるけど」
「でなきゃ、どういう旋律なのか誰にも知られたくなかったのか……ですよね」
「それも考えられるね」
インノツェンツァの推察にトビアは同意した。
「もし君が言ったような理由なら、この‘楽譜’を解読できる人を探すために音楽会は催されていたのかもしれない」
ベルナルド一世が見つけられなかったから、悲願は次代へと受け継がれていった――――。
しかし仮にそうだとしても、それはまた新たな謎を呼ぶ。
だったら王立音楽院にもこの‘楽譜’を提供すればいいんだよね。ベルナルド一世の頃はまだまだ無名の音楽学校だったけど、次の代の王様あたりからは国内外で有名になっていい先生もいたんだもん。
なのに王家はしなかった。秘密の音楽会という非効率な形にこだわり続け、今でも解読できないでいる。
絶対におおやけにしたくないってことなんだろうけど――――なんで?
知れば知るほど、考えれば考えるほどに謎が深まっていく。慰霊の音楽会とは何なのか、あの‘楽譜’は一体誰が、何のために書いたのか。
考えるほどにインノツェンツァは腹が立ってきた。一晩経っているというのに怒りはまだ収まっていなかったらしい。
「あーもうっなんでこんなめんどくさいこと私がしなきゃなんないわけっ? 王侯貴族絡みで演奏するつもりなんてさらっさらないのに脅迫されるし! しかも曲の音探しからしろって、そんなの無理だって!」
「イ、インノツェンツァ落ち着いて」
「大体、私のこと平民風情とかさんざん見下してたくせに! 王族だかなんだか知らないけど一体何様よ! ふざけんなー!」
トビアが慌ててたしなめようとするのを無視し、インノツェンツァは怒鳴った。一度怒りをぶちまけだすと余計に怒りが湧いてきて、次から次へと言葉が漏れていく。
それ以外にも少々言いたいことをがなりたてたあと。ようやく気が済んだインノツェンツァはぜいぜいと肩で息をした。
そこにトビアがそろそろと水を渡してくれる。我に返ったインノツェンツァはフィオレンツォの冷ややかというよりは呆れた視線や通りを行き交う人々の目を丸くした顔に気づき、恥ずかしさで真っ赤になる。
や、やっちゃった……!
穴があったら入りたい。いたたまれずインノツェンツァはコップをがぶ飲みした。
その横でフィオレンツォは一口紅茶を飲むと、ちらりとインノツェンツァに目を向けてきた。同い年なのに彼のほうがよほど冷静で大人びている。
「……それで、どうするんですか。あの悪名高いトリスターノ王子のことです。従わなければ何をされるかわかったものではありませんよ」
「うん、そうなんだよね。あの馬鹿王子はあとで資料をよこすとか言ってたけど、あてにならないというかしたくないし」
インノツェンツァは腰に手を当てて舌打ちした。
「マリアさんにお願いして、ロッタ神殿の書庫にあるジュリオ一世関係の資料を見せてもらえたらいいんだけど……他の人も同じこと考えるよね。もし今もジュリオ一世の慰霊のためって言って、国王陛下が参加者を集めてるなら」
「当然、国王陛下はそう伝えているでしょうね。ロッタ神殿も想定内でしょうが……」
「まあ、見せてくれないだろうねえ。特定の誰かにしか見せないのは公平性に欠けるとか言って」
とフィオレンツォの言葉をトビアはため息交じりに補足した。
あー、神殿長様なら言いそう……。
インノツェンツァは王城で見た神殿長と貴族のやりとりを思いだし、半笑いになった。温厚そうに見えてもなかなか食えない人なのだ。
「あとは……王立音楽院の楽譜館にも他の参加者は目をつけるでしょうね。あそこにはジュリオ一世のヴァイオリン曲の原譜が保管されていますから」
だが古今東西の有名な音楽家の楽譜が所蔵されている楽譜館の管理人は、とても厳格なのだ。相手が王侯貴族だからといって部外者に貴重な資料を見せたがるとは思えない。
「とりあえず王立図書館で音楽史の本あさって、王家主催の謎の音楽会について書いてないか調べてみる。あとは宗教音楽もかな。……音楽理論のほうもやんないと駄目かなあ……」
苦手なんだけどなあ、音楽理論は……。
本に並ぶ難しい言葉と数字の羅列を思い浮かべ、インノツェンツァはがくりと肩を落とした。
トリスターノは亡き天才の娘だからとインノツェンツァに目をつけたようだが、生憎インノツェンツァに作曲や編曲の才能はないのだ。興味や関心も薄い。あの王子は人選を間違っている。
まあまあ、とトビアは苦笑した。
「ここにも古い楽譜集はあるし、探したらこれに似た旋律の曲があるかもしれないよ」
「僕も何かそれらしい話を知らないか、教授たちに探りを入れてみます」
「! フィオレンツォ手伝ってくれるのっ?」
思いがけない申し出に、インノツェンツァはぱあっと顔を輝かせた。フィオレンツォは勢いにやや気圧された様子で頷く。
「え、ええ。僕も気になりますし……授業の帳面も貸しますよ。教授の小話も面白そうなものは書いてありますから、何か手がかりがあるかもしれません」
「! ありがとうフィオレンツォ!」
フィオレンツォの両手を自分の胸の前でぎゅうっと握ってインノツェンツァは感謝した。
まさか協力してくれるとは思わなかったのだ。いつも迷惑をかけているし、彼は苦学生なのである。我関せずを貫くとばかり思っていた。
「べっ別に、教授と世間話をしたり帳面を貸すだけです!」
「でも私は音楽院へ行けないから、すっごく助かるよ。それにフィオレンツォの帳面って細かいところまで書いてあるから、その音楽会についても手がかりが書いてあるかもしれないし。やっぱりフィオレンツォは賢くて優しいよね!」
今度はフィオレンツォが赤くなってそっぽを向くが、彼が協力してくれるのが嬉しいインノツェンツァは上機嫌なままだ。真っ暗だった目の前に小さな光が灯ったような気さえしていた。
二人のやりとりをほのぼのと見ていたトビアは、のんびりと言う。
「僕も少し調べてみるよ。ロッタ神殿にも近々備品を納入しに行くところだから、専属の演奏家たちに話を聞けるだろうし。フィオレンツォ君は音楽院で調べてみてよ」
「トビアさんも? ありがとうございます」
「可愛い店員のためだからね。私もその音楽会について気になるし。王族の秘密を探るなんて小説の主人公みたいじゃないか」
冗談めかしてトビアは言う。助けてくれるのが嬉しくて、インノツェンツァは満面の笑顔を向けた。
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