第7話 幼馴染みは心配したがる・1
そうして謎の音楽会に向けた準備が始まった数日後。インノツェンツァは客がいない合間を縫って、編曲に向けて資料に目を通すことにした。
――――のだが。
「私を誰だと思ってるんだ、あの馬鹿王子……!」
資料を物騒な目で見下ろし、インノツェンツァは毒づいた。
仕方ないだろう。先ほどトリスターノの部下が押しつけてきた資料はまったくと言っていいほど役に立たない代物だったのだから。
ジュリオ一世やベルナルド一世の詳細な功績と略歴年表、当時の音楽に関わる出来事、国立音楽資料館に展示されているジュリオ一世の楽譜の一部。
このエテルノに遷都したあと。ジュリオ一世が精霊の棲みかとなっていた丘を立ち入り禁止区域にしていたこと。
王城などいくつかの国の主要建築物で用いられる色彩に自分の好みを反映させていたこと。
『真実の色だから』と言ってガレルーチェの裁判官の制服の色を紫に定めたこと。
王城の謁見の間などの色彩にもこだわっていたこと。
とまあ書いてあったのは要するに、宮廷音楽家であればほぼ常識の範囲内の知識ばかりだったのだ。ジュリオ一世の特異な色彩感覚についても王城など設計に関わったとされる建物を現国王のはからいでじっくり見る機会があったので、インノツェンツァはよく知っている。
そんなものだから役に立ちそうなのはせいぜい、ジュリオ一世の楽譜の一部くらいのものだろうか。これでインノツェンツァに怒らずにいろというのは無理だ。
あの馬鹿王子、私が一年で音楽の知識をまるっと忘れたとでも思ってんのか……!
資料を丸めて思いきり投げてしまいたい衝動をインノツェンツァは必死に抑えた。投げてもそのあとごみ箱に捨てなきゃ駄目なんだから、と自分に言い聞かせる。
それでもやっぱり腹立つけどね!
せめて音楽会のときに顔を合わせないで済む方法はないものか。そうインノツェンツァが心の中でため息を吐いていると、不意に足音がした。
「ただいまインノツェンツァ」
「あ、おかえりなさい――て、トビアさん、荷物危ないですってそれ!」
声に誘われてそちらを見たインノツェンツァは、店の奥から荷物を両手に抱えてふらふらしながら歩くトビアを見てぎょっとした。大慌てで駆け寄り、下の大きな木箱からずり落ちそうな二つの木箱を奪い取るように抱えてカウンターに置く。
腕が楽になったトビアはへらりと笑った。
「ありがとうインノツェンツァ」
「どういたしまして。トビアさん、重いなら私を呼んでくださいよ。落としちゃ駄目なんですから」
「いやあ、編曲中だったら悪いかなと思って」
「気を遣ってくれるのは嬉しいですけど、商品が優先です。店長なんだから商売のこと考えないと」
ただでさえ毎月赤字と黒字を行き来してるんですから、とインノツェンツァは指を突きつけてトビアに言う。
「それより、その箱はもしかしなくてもヴァイオリンと楽弓ですよね? また買ってきたんですか?」
「うん、ボッティチェッリさんとリベルディさんが新作を見せてくれてね。すごく綺麗な子たちだし、少し弾いてみたらとてもいい声の子だったから買ったんだ。明日お金を払うから、明日も店番よろしくね」
「……はい」
「あとで君も試しに弾いてみなよ。今のうちに弾いておかないと、きっとすぐいい持ち主に出会えるだろうからね」
満面の笑顔でトビアは言う。心から嬉しそうな表情にインノツェンツァは生温い笑みを浮かべるしかなかった。
毎度のことながら、楽器を人間扱いするひそかなこの変人ぶりにはため息をつきたくなる。インノツェンツァもヴァイオリンと楽弓に名前を付けているが、こうも擬人化はしていない。
それに。
「…………トビアさん、ちなみにお値段は…………」
「値段? ええと確か…………」
インノツェンツァに尋ねられて首を傾けたトビアは、ポケットをあさって伝票を出してきた。伝票を受けとりインノツェンツァは頭の中でざっと計算する。
「……」
帳簿が赤い、赤いですよトビアさん……!
今月末の帳簿が容易に想像でき、インノツェンツァは遠い目になった。何故か帳簿づけを時々任される彼女は、店の経営状態をよく把握しているのだ。
ガレルーチェでも指折りの名工たちの名が出てきた時点で予想はしていたが、やはりとんでもなく高額だ。今店内にある初心者向けの弦楽器をすべて合わせても、このヴァイオリンと楽弓の価格には及ぶまい。
インノツェンツァとてヴァイオリン奏者だから、名器と呼べるヴァイオリンと楽弓が入荷したことはとても嬉しい。楽器店の従業員の特権を行使して是非とも試奏してみたいし、早くいい買い手がついてほしいとも思う。
だが、たまにしか金持ちが訪れない老舗でこんな高額商品を買ってくれる客なんてそう簡単に現れるはずがないのだ。何年も置物になるのはほぼ確定である。
いつか『夕暮れ蔓』が突然閉まるかもしれないという幾度目か知れない不安が、インノツェンツァの胸にこみ上げてきた。トリスターノから迷惑料をしこたまふんだくって母の薬代として貯めるつもりだったが、少しは職場に寄付したほうがいいかもしれない。
インノツェンツァが店の将来について大真面目に心配していると、からんと扉につけられた鈴が鳴った。
「レオーネ?」
インノツェンツァは目を瞬かせた。それからはっとして、慌ててカウンターの上の資料を片付ける。
「なんで来たの? このあいだ来たばっかりなのに暇なんだね」
「誰が暇だ。仕事は山ほどあるのを、どうにか時間を作ったんだ」
レオーネは憤然と言う。しかしこんな短期間で再訪なのだ。どこが忙しいのか。
トビアの好意で事務室へ下がらせてもらったインノツェンツァは、で、とレオーネを振り返った。
「レオーネ、何しに来たの?」
「お前、王家主催の音楽会に参加しているだろう」
「っ」
単刀直入な問いにインノツェンツァは思わず詰まった。
「……やはり、参加させられているんだな」
両腕を組み、レオーネは小さく息をついた。
「あの人がお前を個人的に雇ったことは、すでに王城で噂になっている。もちろん、王家主催の音楽会のためであることは伏せられているがな」
「え、噂になってるの?」
「ああ。大方、あの人自身かその取り巻きが酒に酔いでもして誰かに話したんだろう。貴族のサロンだけでなく、城下のいかがわしい店も好むそうだからな」
と、レオーネは冷ややかに吐き捨てる。上流貴族なのにいまだ婚約どころか浮いた話の一つもないインノツェンツァの年上の幼馴染みは、この手の話を軽蔑しているのだ。
「噂が本当だとしても、あの人を嫌っているお前が進んで雇われるわけがない。だから確かめに来たんだ。イザベラも心配していて、放っておくとこちらへ押しかけかねないからな」
「あー、やりそうだね、イザベラ様なら」
インノツェンツァは納得した。あの少女は非常にお転婆で好奇心旺盛なのだ。兄と同じく庶民の服に着替え、この楽器店の扉を勢いよく開ける一幕がありありと想像できる。
それで、とレオーネは視線を鋭くした。
「誰にこのことを話した」
「トビアさんとフィオレンツォだよ。楽器店で仕事中に赤竜騎士団の人に連行されて、次の日に二人に話したの。トビアさんがフィオレンツォに、私が連行されたことを教えて。あ、もちろん二人には他の人に話さないよう頼んであるから安心して」
「リーヴィア殿には?」
「まだ」
インノツェンツァは緩く首を振った。
「でも、音楽会に行かなきゃいけないからそのうち話すよ。もちろん、あのろくでなし王子に脅されたことは黙っとくけど。知ったら卒倒するか王城へ嘆願しに行きかねないし」
「…………そうか」
インノツェンツァの説明に、レオーネは納得したように小さく息を吐いた。それから突如目つきと雰囲気を不穏なものにして、何事かを口の中で呟く。
あ、これやばい。
インノツェンツァは心の中で声をあげた。今すぐ回れ右をしたくなる。
顔を引きつらせ逃げ腰の幼馴染みを見逃がすはずもなく、レオーネはインノツェンツァにきつい目を向けた。
「何故すぐ私に言わなかった。脅されたのだろう。言ってくれていたなら即刻対処していた」
「そうやってレオーネに話したら、あの馬鹿王子が気づくでしょ。私がレオーネに会いに城へ行ったら、城で噂にならないわけないし。そしたら母さんやトビアさんたちに何してくるか、わかんないじゃん」
「その前に私が何とかするとは思わなかったのか。これまでのおこないのせいで、すでにあの人は地位があやうくなっているんだ。お前の訴えがあればすぐに団長職を解任させられる」
「だーかーらー! それでもあの人、お金と肩書持ってるんだよ。お金につられて、小娘への嫌がらせに加担する人だっているかもしれないじゃない。あの人にはヴァレンティーノ伯爵家だってついてるし。そっちまでレオーネは手回んないでしょ」
「ああ言えばこう言う……!」
インノツェンツァが理由を並べるごとに、レオーネの顔がどんどん怖いものになっていく。幼馴染みが困っているくせに頼ってこなかったこと、それをあれこれ言い訳することが腹立たしかったのだろう。実際、自分にできることは限られていると理解しているからかもしれない。
レオーネの友情はありがたくも頼もしい。しかしインノツェンツァとて色々と考えたうえで彼には話さず、フィオレンツォやトビアを頼っているのだ。こうもがみがみ怒られているとさすがにいらっとしてくる。
「もうっともかく今言ったからいいじゃん! それに、今は前向きに参加するつもりだし。レオーネが止めたって音楽会に参加するからね私」
「……好きにしろ。事情がどうあれお前が参加したいというなら、止めるつもりはない」
インノツェンツァが睨みつけて返すとレオーネは額に手を当て、大きなため息をついてそう言う。諦めたらしい。インノツェンツァは少しむっとした。
しかしそれは自分勝手な苛立ちだ。インノツェンツァもそれ以上何も言わず、長い息に感情を乗せて吐き出した。
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