第13話 明日の予定

 時間になり、インノツェンツァは‘アマデウス’と‘サラサーテ’を手にとって舞台へ上がった。ウーゴとフィオレンツォと目を見交わし準備を整える。

 ウーゴとフィオレンツォの旋律を伴奏に、インノツェンツァの軽快な旋律が今夜も聴衆を陽気な空気で包んでいった。

 インノツェンツァがノームの少年と会ってから、早数日。王都エテルノでは連続通り魔が下町の少女を襲って失敗したことより、第二王子トリスターノが郊外で襲われた噂でもちきりだった。

 とは言っても、悪名高い第二王子に誰も同情するはずがない。ざまあみろという快哉しかない。

 それにトリスターノの切断された杖を王城付き魔法使いが分析したところ、彼が杖のルビーにサラマンダーを閉じこめていたことが明らかになった。音楽と精霊を愛したジュリオ一世の末裔でありながら、だ。

 我が子であろうと精霊保護法に違反した者を見逃す国王ではない。トリスターノは現在王城の自室で謹慎中で、捜査が終わり次第罪を犯した王侯貴族専用の牢獄に入れられることが決定している――――ともっぱらの噂である。

 父王の期待を裏切り続け、権力に溺れた高慢な王子は破滅したのだ。こんな展開、庶民が喜ばないわけがない。たった数日しか経っていないのに悪い王子を懲らしめる義賊になりきった遊びに夢中になる子供の姿がエテルノのあちこちで見られ、芝居小屋でもそれに近い筋書の物語を演じるようになっていた。

 そんな、浮かれた空気に毒された大人たちが集まる夜の酒場で弾いているのだ。元々明るい曲が得意というのもあって、インノツェンツァはどんどん気分が高揚していった。二人にたしなめられながらも振り回すように、生来の性格そのままの音色を響かせる。

 それでも終わりに近づくにつれ、ウーゴとフィオレンツォの旋律に合わせるようになっていく。音を引き延ばし耳を澄ませ、フィオレンツォの音との調和を乱さないよう神経を集中させる。

 そうして一曲を終え、歓声に煽られて三人はもう一曲演奏する。

 うん、やっぱり好きだな……。

 インノツェンツァは心の中で呟いた。

 この空気の中にいることが、三人で奏でることが好きだ。ここに集まる人々の反応はとても正直で、裏を疑う必要がない。

 貴族の音楽会や夜会でインノツェンツァは、演奏の前後に誰かの思惑や打算を肌に感じてばかりだった。それが苦痛で無理やり気にしないようにするのは当たり前になっていて、人々の前で演奏することを楽しめるのは限られた機会しかなかった。

 この大切な場所と人々を盾にインノツェンツァを従わせた卑劣な王子はもういない。偶然とはいえ不安が取り除かれたことに、インノツェンツァは心からほっとしていた。

 続けてもう一曲演奏し、再び起こった拍手喝采に気恥ずかしい気持ちで応えながらインノツェンツァは舞台を降りた。

 でもまだ仕事はある。インノツェンツァは事務室のヴァイオリン入れに‘アマデウス’と‘サラサーテ’をしまうと、賑わう店の給仕に回った。

「……以上でよろしいでしょうか」

「ええ頼むわね。……貴女もよく働くわねえ。最近物騒だっていうのにこんな夜中まで働いて、怖くないかい?」

 注文を復唱して確認をとると、人柄の良さそうな老婆が尋ねてくる。きっと隣にいる男性の母親なのだろう。顔立ちが似ている。

 インノツェンツァはにっこりと笑みを浮かべた。

「平気です。夜道は暗いですけど、明かりがありますし。いざとなれば大声で助けを呼べばいいですから」

「そもそも何の罪もない人を襲わないようにしてくれたらいいんだけどね……そりゃあの馬鹿王子が二度と人に迷惑をかけられないようにしてくれたのはありがたいけどね」

 と、女性客はため息をつく。

 厨房へ注文を伝えてから店内に戻ると、大抵の客が注文を済ませたのか、特に店員を読んでいる様子はなかった。これなら料理ができるまで待機でいいよねと、インノツェンツァは厨房近くの壁際に立つ。

 ほどなくして厨房へ注文を伝えたフィオレンツォが隣に並んだので、インノツェンツァはへらりと笑った。

「皆あの馬鹿王子の話ばっかりで、その前にも通り魔事件があったことはほとんど話題になってないね」

「そのようですね」

 フィオレンツォは頷いた。

「まあ、そのほうがありがたいですけどね。……あの夜のことが表沙汰になったら、王城や他の人たちがどのような反応を示すかわかったものではありませんし」

「……まあね」

 インノツェンツァは渋い表情で同意した。

 世に知られる精霊は大自然の力の生きた欠片であって、人間とは根本から違う存在なのだ。人間に興味を示すことはあっても、親しむことはない。だから人間は彼らを保護するためにも、むやみに近づき友好を築こうとしてはならない。ガレルーチェの精霊保護法にも、そうした考えが息づいている。

 なのにあの夜現れた精霊たちは、そんな人間が漠然と考える精霊の在り方からかけ離れていた。人間としか思えない外見、人間じみた豊かな感情表現。それどころか連続通り魔と連続窃盗事件の犯人ときている。

 どう考えても、王城付き魔法使いたちが目の色を変えてあの精霊たちに接触しようする様子しか想像できない。精霊に懐かれたインノツェンツァにも関心を向ける可能性はある。

 だからインノツェンツァとフィオレンツォは、マリアやトビアにもこのことを話していない。信用していないわけではないが、常識外れにもほどがある精霊の振る舞いを誰かに話す勇気は二人ともなかったのだ。

 特にマリアは神殿騎士なのだ。知ればロッタ神殿に報告する義務がある。悩ませる必要はないだろう。

 もちろん、あのノームの少年が凶行を繰り返すならレオーネに打ち明ける覚悟はしている。そうならないよう、思いつめないでほしいとインノツェンツァは日々祈るしかなかった。

「でもあの子、仲間を助けたいからなんだよねえ……」

「仲間を救うためだとしても、人間を何人も殺したのは事実です。その点で同情の余地はありません」

「まあ、そうなんだけどさ……」

 フィオレンツォの突き放す物言いに、インノツェンツァは眉を下げた。

 ノームの少年が人殺しであることはわかっている。けれど、彼が見せた豊かな感情表現がインノツェンツァが忘れられないのだ。彼は同胞が受ける仕打ちに怒り、その同胞がインノツェンツァを受け入れることに戸惑いながらも最後は仕方ないと承諾した。仲間を思う気持ちにあふれる姿は同情せずにいられない。

 複雑そうなインノツェンツァの表情を見てか、フィオレンツォは小さく息を吐いた。

「精霊たちに心を傾けるのはいいことですが、例の仕事のほうはどうなんですか? 雇い主のトリスターノ王子が投獄前提の謹慎中となれば、貴女は例の音楽会へ参加する資格がなくなるのでは?」

「そうなんだよねえ……」

 問われ、インノツェンツァは苦い顔で首を振った。

「でも音楽会について全然連絡がないの。このあいだはどうやってか私の居場所を見つけて資料を押しつけにきたのにさ」

「では編曲作業も今は中断ですか」

「ううん、そっちはやってるよ。ジュリオ一世の曲なのに途中でやめるのはなんか嫌だし。国王陛下のことだから、参加してもいいとおっしゃるかもしれないし。そこらへんは伝手でなんとかお聞きするつもり」

「そうですか……でも第二王子が脅迫してきたなら、さすがに国王陛下か姉に報告してくださいよ。危険ですから」

「もちろんそうするよ」

 にかりとインノツェンツァは笑う。

 そんなふうに話しているうちに料理ができあがり、インノツェンツァは客のもとへ運んでいく。

 テーブルでも軽く客と言葉を交わし、さて戻ろうとしたところで、インノツェンツァはレオーネがちょうど店内へ入ってきたのを見つけた。

 辺りを見回していたレオーネはインノツェンツァを見つけると、早足で近づいてきた。

「レオーネ、やっぱり暇なんじゃない」

「暇じゃないと言っただろう」

 手を腰に当ててインノツェンツァが呆れると、嫌そうにレオーネは言った。

「明日仕事を抜けられないから、仕方なく来たんだ。急いでお前に教えないといけないからな」

「私に?」

「ああ。……父の許可も得ている」

 頷き、レオーネは最後だけ声を低めて言う。彼の表情は真剣だ。

 その一言でインノツェンツァは内容をおおよそ察した。これは、今すぐ聞かないといけない話だ。

 レオーネに一言断りを入れてからその場を離れたインノツェンツァは、壁側へ急いで戻った。

「フィオレンツォ。悪いけど、私ちょっと抜けるからあとお願い」

「構いませんが……彼は何をしに?」

「音楽会のこと、どうなるのか教えてくれるって」

 レオーネの父が許可を出したというのは、つまりそういうことだ。でなければ、レオーネがわざわざ父親の存在を出してくるわけがない。

 眉をしかめていたフィオレンツォは、一層不可解そうな表情をした。しかし、すぐ仕方なさそうに自分の前髪に触れ、息を吐く。

「……わかりました。ですが、早く戻ってきてくださいよ」

「わかってる。ありがとフィオレンツォ」

 にっこりと笑顔で礼を言い、インノツェンツァはすぐ踵を返した。レオーネを連れて外へ出ると、店のすぐ横の小路へ入る。

「それでレオーネ。私は音楽会に出られるの?」

 大通りから街灯の明かりが届くぎりぎりのところで振り返り、インノツェンツァは単刀直入に問いかけた。

 まずはそれか、と呆れた顔をしながら、レオーネは両腕を組んで壁に背もたれた。

「お前の参加は継続だ。お前のことだからまだやる気に満ちあふれているに違いないし、演奏者が必要なのであって必ずしも王侯貴族が雇う必要はない――――という判断でな」

「ってことは、やっぱり馬鹿王子は音楽会に出ないんだ。もう檻の中行きが決まったの?」

「いや、まだだ。……一応私は、いくらあのファウストの娘とはいえお前に作曲や編曲の才能は大してないようだと父上に進言はしたんだがな」

「相変わらず腹の立つ言い方するよね、レオーネは」

 作曲や編曲の才能がないなんて、そんなのは誰よりも自分自身がわかっているというのに。インノツェンツァは口元をひくつかせた。

 ともかく、謎の音楽会に参加できるのだ。インノツェンツァはほっとした。

 そんなインノツェンツァを見たレオーネは頬を少し緩めた。

「……連続通り魔に襲われたと聞いたが、元気そうだな」

「ん? ああ、平気。かすり傷一つないし」

 ぎくりとしながら、インノツェンツァは笑ってみせた。まさかその連続通り魔と精霊の保護についてお話ししてましたなんて、言えやしない。

 しかしこのやたらと観察力に優れた幼馴染みは、インノツェンツァのごまかしを見逃してくれなかった。

「……お前、何を隠している?」

 インノツェンツァの真意を見抜こうとするかのように、レオーネは背を壁から離して目を細めた。辺りに張りつめた空気が漂いだす。

 ああまずい、これ本気で疑っている目だよ……。

 インノツェンツァは内心でうめいた。

「何も隠してないよ?」

「嘘をつくな。その挙動不審で怪しまずにいられるか」

「っ」

「言っただろう、何かあったら私に話せと。忘れたのか」

 さっさと話せと圧力をにじませ、レオーネはインノツェンツァに迫ってくる。その表情は真剣で、到底引き下がりそうにない。

 インノツェンツァは舌打ちした。これだからレオーネは嫌なのだ。無駄に勘が鋭くて面倒見がいい。

 だが今度ばかりは話せない。自らを民を守る側だと強く意識しているレオーネが、仲間を助けるためだと人々を殺していたノームを放置しておくわけがない。

 精霊たちを守るために、ぎりぎりまで話さないと決めたのだ。ここで口を割ることはできない。

「……話せない」

「おい」

「ごめん。無理なの」

 まっすぐレオーネを見返して、インノツェンツァはきっぱりと言った。

「…‥」

 言葉の代わりに互いの視線をぶつけて、数拍。レオーネはやがて長い息を吐き出した。

「…‥わかった、もう聞かない」

 絶対話すものかというインノツェンツァの意思を感じとったのか、レオーネは降参を宣言した。まったくお前は、とまた両腕を組む。

「念のために聞くが……お前やリーヴィア殿が危険になるようなことではないんだな?」

「うん。というか、母さんが危険になるならさすがに言ってるよ。あの馬鹿王子がまた脅迫してきたら言うつもりだし」

「……それもそうだな」

 苦笑を浮かべ、レオーネは納得した。

 ――――と。

「インノツェンツァ、そろそろ時間ですよ。いい加減仕事に戻ってください」

「っ」

 突然聞き慣れた声がかかり、インノツェンツァは慌てて大通りのほうを向いた。小路の入り口に、フィオレンツォが不機嫌な顔をして立っている。

「すまない、ミケランジェリ。話しこんでしまった」

 レオーネはフィオレンツォのほうを向くと、素直に謝った。これで話は終わりのようだ。大通りへ向かっていく。

 しかしレオーネは何故かそのまま帰ろうとはせず、インノツェンツァとフィオレンツォを振り返った。

「インノツェンツァ、それにミケランジェリ。明日の日中は暇か?」

「暇なわけないでしょ。そりゃトビアさんが一日休みをくれたけど、編曲しなきゃいけないし」

「僕はまあ、時間を空けようと思えば空けられますが……」

 何言ってるのといったふうのインノツェンツァとは対照的に、いぶかしそうに眉をしかめながらもフィオレンツォは答える。

 よし、とレオーネは小さく頷いた。

「なら二人とも。日が昇ってから、王城前の広場へ来てくれ。馬車をよこす。リーヴィア殿にも、日が昇ってから出かける準備をしておくよう伝えてくれ」

「はあ?」

「そうだな……昼食は用意しなくていいが、できれば楽器は持ってきたほうが気分転換になるだろう」

「ちょっと待って意味わかんないんだけど」

 これがレオーネの一番悪いとこだよね。

 勝手に話を進めていく幼馴染みに、インノツェンツァは人生で何度目か知れない呆れ声を心の中で呟いた。

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