第14話 森の音楽会

 そして、翌日。

「まさか、またこの馬車に乗ることになるとは……」

「僕からすれば、どうして気分転換のために貴女と二人でこの馬車へ乗ることになっているのか……ですけどね」

 穏やかな色合いの馬車から窓の外を眺めてインノツェンツァが呟くと、向かいの席に座るフィオレンツォもまたため息交じりに言った。

 今朝。インノツェンツァが仕方なく王城前の広場へ行くと、この馬車とレオーネの側近であるラツィオがすでに噴水のそばに待機していた。

 慣れない編曲作業で悪戦苦闘に違いないから気分転換が必要だろうと、レオーネは了承もなくインノツェンツァの遠出を企画したのだ。フィオレンツォの同行は音楽会のことを知っている友人だから、ということらしい。

 ロッタ神殿へ参拝したがっていたリーヴィアにも、別に馬車を手配してくれるとのこと。感謝していいのか迷う、どこまでも勝手に人の世話を焼く男である。

 遅れてやってきたフィオレンツォを乗せると馬車はリーヴィアをロッタ神殿へ連れていくというラツィオを置いて走りだし、今はもう郊外だ。農民たちが働く、のどかな田園風景が窓の外に広がっている。

「僕たちを迎えてくれた方は、森へ行くと言ってましたが……」

「うん。ラエトゥスの森じゃないかな。こっちの方向だし」

「ラエトゥスの……というと、現国王陛下が王妃に求婚なさったことで有名な」

「そう。王侯貴族が狩りとかの野遊びのときによく行くんだって。何度か連れていってもらったこと、あるんだよね」

「……本当に、レオーネさんは第三王子なんですね」

 未だに信じられないといった様子で、フィオレンツォは長い息を吐いた。

 そう、レオーネは現国王と側妃のあいだに生まれた第三王子なのだ。正妃が母のトリスターノとは腹違いの兄弟にあたる。

 だからインノツェンツァも出会って間もない頃は、一応は身分の差をわきまえた振舞いをしていたのだ。

 だがある日ささいなことがきっかけで敬語を使わずレオーネに怒鳴ってしまうと、彼は怒るどころか素直にインノツェンツァの言葉を受け止めた。そしてもう私的な場では敬語を使わなくていいと言ってきたのだ。そうして二人は身分の差や性別を超えた友人になったのである。

 インノツェンツァは身分を隠してふらりとやってくるレオーネのことを、周囲に対しては王城で出会った幼馴染みと紹介するだけに留めている。行事で庶民の前に姿を見せることがしばしばあるとはいえ、顔を覚えている者はまずいない。せいぜいなんか王子様に似てるなと言われる程度で、気づかれることはなかった。

 だが王家主催の謎めいた音楽会に参加できるかどうか教えにくる――――十代半ばにして国王からそんな伝言を任される青年貴族ということで、今まで気にならなかったことが気になってきたらしい。帰りにフィオレンツォに問い詰められ、インノツェンツァは話すしかなかったのだった。

 昨夜のフィオレンツォの仰天ぶりを思いだし、インノツェンツァは苦笑した。

「まあ、偉そうだけどただの貴族のぼんぼんだと思うよね普通。私もそれ狙ってたし」

「ええ。まさか第三王子が城下へ、しかも貴女と世間話をしにくるなんて思いませんでしたよ。今までの会話の中で、王族であると思わせるようなものはなかったですし」

「そのあたりはまあ、慣れだよ。レオーネは昔から私に案内させて、何度も城下へこそこそ出かけてたし。だからいいとこのぼんぼんの振る舞いはばっちりなんだよね」

 とインノツェンツァは窓に遠い目を向けた。

 一体何度庶民の暮らしを知らない世間知らずな幼馴染みに呆れ、あれこれと教えてやったことだろう。少々はめを外しすぎて騒ぎを起こし、ラツィオやリーディアに小言を言われたこともある。今の‘インノツェンツァの幼馴染みの青年貴族’レオーネは、半分くらいはインノツェンツァの教育の成果と言っていい。

「……本当に仲がいいんですね、貴女たちは」

「? まあね。レオーネが余計な一言言わなきゃって条件付きだけど」

 何故か少しだけ低い声音に目を瞬かせ、インノツェンツァは答えた。

 そうこうしているうちにラエトゥスの森がいよいよ近づいてきた。ほどなくして、馬車は大きく揺れて停止する。

 御者の助けを借りて馬車から下りたインノツェンツァは大きく伸びをした。

「夕方までにまたここへ戻ってきてください。日が沈むまでにご自宅へ到着できるよう、レオーネ殿下から言いつかっておりますので。こちらはお二人の昼食です」

「はい。ありがとうございます」

 顔馴染みの馭者に編み籠を渡され、インノツェンツァはにっこりと笑って礼を言う。王城の料理人がどれほど美味しい料理を作るのかはよく知っている。

 母さんが参拝できるようにしてくれたのとこれについては、レオーネに感謝だよ。

 昼食の美味を想像して浮かれながら、インノツェンツァは編み籠とヴァイオリン入れを両手に持って森へと入っていった。

 二人が馬車から見えなくなるところまで歩くと、ヴァイオリン入れがぼんやりと光りだした。驚いて足を止めているうちにドライアドとノームが姿を現す。

「あ、出てきたんだ!」

 数日ぶりに精霊たちの姿を見て、インノツェンツァはぱっと顔を輝かせた。精霊たちもインノツェンツァに抱きついてくる。

 フィオレンツォは、なんとも言えない表情をした。

「……あの夜も思いましたが、貴女は不思議なほど精霊に懐かれてますね。僕が小さい頃ランプに棲んでいたサラマンダーは、僕たち家族とは常に距離をとっていたものですが……」

「いやほんと、私も不思議なんだけど……」

 眉を下げてインノツェンツァは精霊たちを見る。わからないのだから本人たちに聞くしかない。

 するとドライアドとノームはぱちぱちと目を瞬かせ、ヴァイオリン入れに近づいた。

「ヴァイオリン……ですか?」

 こくこく。

「もしかして、インノツェンツァが弾く‘アマデウス’の音を気に入った……とか」

 こくこく。

 フィオレンツォの推測に、そうよそうと言わんばかりに精霊たちは何度も頷いた。

 そっか……私の音、気に入ってくれたんだ。

 インノツェンツァの胸にじわりと喜びがこみ上げてきた。自然と頬が緩む。

 インノツェンツァは迷わずその場にしゃがみこんだ。編み籠とヴァイオリン入れを地面に置き、‘アマデウス’と‘サラサーテ’を取りだす。

「ここで演奏するんですか?」

「うん!」

 驚くフィオレンツォに頷いてみせ、インノツェンツァは‘アマデウス’を軽く音合わせした。すぐ終わらせてぴたりと構える。

 一呼吸おいて、奏でた。

 職場や王城の劇場と違って壁に返されることなく、ヴァイオリンの音が木々と空に吸われながらどこまでも広がっていった。

 奏でる旋律は思いつくままだ。見える景色、聞こえる音、心に浮かぶ感情をそのまま音に変え旋律に仕立てていく。

 風が緩く吹き木々の枝葉を揺らす音は歓声のよう。『酒と剣亭』で弾くときのような。

 そんな連想が一層インノツェンツァを愉快な気持ちにして、新しい旋律を紡ぐ原動力になる。

 ここ、たくさんの人が聞いてるみたい。色んな気配がする……。

 そう思うだけでインノツェンツァは嬉しくなった。ますます気分が高揚していく。

 色と旋律がいっぱいある――――不思議――――楽しい――――!

 思いつくままに‘アマデウス’で旋律を歌い、インノツェンツァはこの場限りのヴァイオリン独奏会を終えた。

 久しぶりの屋外での演奏を終え、インノツェンツァは心地よい疲れから長い息を吐いた。ぼんやりと森の中を見る。

 とても優しい景色だ。‘アマデウス’と‘サラサーテ’に宿るドライアドとノームがいて、フィオレンツォがいて、たくさんの色と旋律があって――――――――。

 そこでインノツェンツァはふと気づいた。

 ……なんで赤や橙や黄緑が浮いてるの? 花びらにしては大きいような……。

 疑問によって、演奏後の余韻に浸っていたインノツェンツァの視界の焦点は一気に明瞭になった。

 そしてインノツェンツァは絶句した。

 視界のそこかしこに、演奏するまではいなかったはずのたくさんの精霊が現れていたのだ。大体がドライアドやノーム、そしてシルフィード――風の精霊のようだが、一体として同じ姿をしたものはいない。

 皆一様にインノツェンツァを見ている。期待で目が輝いているように感じるのは、気のせいだろうか。

「え……精霊……?」

「今気づいたんですか」

 挙動不審になるインノツェンツァに、フィオレンツォは呆れた。

「貴女が演奏を始めてしばらくしてから来たんですよ。人間がヴァイオリンをここで弾いているのが珍しかったからだと思いますが……気づいたらこの数です」

 いやそんな私は別に、精霊たちを集めるために弾いたわけじゃないんだけど。

 意味がわかりませんよもうと言わんばかりのフィオレンツォに、インノツェンツァは心の中で文句を言った。

 だって自分はただ、‘アマデウス’と‘サラサーテ’に宿るドライアドとノームが喜ぶならと思って演奏しただけだ。途中からはそんな気持ちも忘れて演奏に夢中になっていたけれど。

 しかし人間の戸惑いを理解してくれるはずもなく、精霊たちはインノツェンツァを取り囲むのだ。ドライアドとノームも楽しそうな空気を漂わせている。

 懐かれるインノツェンツァを見ていたフィオレンツォは、両腕を組んで息を吐いた。

「レオーネさんがこれを知ったら、ジュリオ一世の再来と言いだしそうですね」

「あー、言いそう……」

 ご先祖様大好きだもんねえ……。

 レオーネどころか国王まで言いそうだ。感激しきった国王や興奮するレオーネがありありと想像でき、インノツェンツァは遠い目をした。

 しかし感動されてもインノツェンツァは困るのだ。自分は特別なことをしたわけではないのだから。

 ジュリオ一世もきっとそうだったのではないだろうか。暇潰しにヴァイオリンを弾いてみたら精霊たちがやってきたから、音楽で楽しませた。彼らが喜んでくれるのが嬉しいから、丘に通った。それだけだったのではないだろうか。

 彼は音楽家だったのから。

「……ねえ、フィオレンツォも一緒に演奏しない?」

「は?」

「フィオレンツォも持ってきてるでしょ? ヴィオラ」

 とインノツェンツァは悪戯っぽい表情で、虚を突かれた顔のフィオレンツォが肩から提げるヴィオラ入れを指差した。

「ね? 皆もいいでしょ? フィオレンツォはとても上手なヴィオラ弾きなんだよ」

 そうインノツェンツァが精霊たちを見回すと、精霊たちは一斉に頷いたり跳び上がったりといった動きをした。いいよ、の意思表示だ。

「……仕方ありませんね」

 そうは言うもののまんざらでもなさそうな様子だ。フィオレンツォはヴィオラを取りだし、軽く音出しをする。

「それで、何をやるんですか?」

「これ!」

 言うや、インノツェンツァは‘アマデウス’を奏でだした。

 ‘酒と剣亭’で弾き慣れた陽気な旋律の曲だ。誰が作ったのかわからない、庶民のあいだに伝わる踊りの曲。

 だからインノツェンツァは音を跳ねさせた。旋律を回した。笑いさざめく中で踊る人たちを思い浮かべる。

 そこにヴィオラの旋律が混じってきた。小鳥のさえずりに似た軽やかな音はインノツェンツァの旋律を飾り、引き立てる。非日常に驚いてばかりだったフィオレンツォだが、音色はもういつもと同じだ。

 でも、それだけではもったいない。せっかく精霊たちが聴衆という世にも珍しい音楽会なのに普段と同じなんて。

 だからインノツェンツァは何の合図もなく、副旋律を弾きだした。

 即座に察し、フィオレンツォは慌てて主旋律を吹き始めた。何をしてるんですかと視線で怒りを向けるのだが、当のインノツェンツァは悪戯が成功したのが面白くて笑うだけだ。

 ほんと、すっごく楽しい――――――――。

 腕を動かすごとにインノツェンツァの気持ちは弾んだ。精霊が旋律につられて飛び跳ね、とうとう踊りだす。

 こんなにも素直に演奏の感想を表現してくれるのが嬉しい。インノツェンツァは曲を終わらせるのが惜しくてならなかった。

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