第25話 音を視る

 端に並んでいた者からということで、トランペット奏者の青年が箱のそばに立った。他の者は壁際へ下がり、演奏を見守る自分の番を待つ。

 何度も閉ざされた箱の蓋を開ける鍵が繰り返し奏でられるが不思議なことに、誰として同じ‘曲’を弾く者はいなかった。旋律そのものは皆同じはずだ。だが音符に当てた音階や強弱、音の出し方や伸ばす長さ、曲の速さといった様々な要素が違えば同じ旋律でも雰囲気が違ってくるし、旋律そのものが違って聞こえることもあるのである。加えて一人一人の楽器が違い、音色が違う。同じ曲を延々と聞いているだけなのにインノツェンツァはまるで飽きなかった。

 しかし国王はそんな音楽会らしい光景をまったく楽しんでいなかった。演奏者の誰もが技量の確かな者ばかりだというのに頬を緩めもせず、ずっと箱を見つめている。

 レオーネの先祖好きって国王陛下譲りだもんなあ……。

 国王が拍手をしないので他の者たちも一々の演奏に称賛を送るわけにはいかず、淡々と演奏が始まっては終わる。これもノームの少年が仲間のシルフィードから聞いたという過去の音楽会の様子そのままだ。

 確かにこれは音楽会というより、品評会か儀式だよね。

 周囲のぶしつけな視線や反応を気にしなくていいのは気が楽だが、演奏者としては喜んでいいのかどうか。素直に場の空気や演奏を楽しめないのがインノツェンツァは複雑だった。

 そんな演奏の合間。レオーネが足音を殺してインノツェンツァに近づいてきた。

「……その格好のお前をまた見られるとはな」

「今日三度目だよ、その言葉を聞いたのは」

 隣に立ったレオーネのささやき声にインノツェンツァは小声で返す。眉をしかめたレオーネはすぐに納得した顔になった。

「……リーヴィア殿とミケランジェリの姉か」

「そ。二人とも、このあいだのことで感謝してたよ。あとでマリアさんに声かけてあげてよ」

 インノツェンツァはマリアのほうへ視線を向けて言った。

 そのマリアは今、演奏者たちの楽器入れが置かれた辺りに陣どっている。誰かが演奏者の楽器入れに細工をしないようにという配慮なのだろう。ありがたいことであるが、インノツェンツァはノームの少年のことが気づかれてしまわないかひやひやしていた。

 二人が話をしているあいだに、次の演奏者が箱の前でヴァイオリンを弾きだした。

 数節もしないうちにインノツェンツァは大きく目を見開いた。

 流れる軽快な、聞く者に色鮮やかな花束を見せるようなその旋律は自分が作曲したものとまったく同一だったのだ。よどみのないヴァイオリンの音色だからはっきりとわかる。

 ほんの数小節だけならまだしも音階や強弱、音の長さまで一つの違いもなく一致するなんてどれほどの低確率か。

 間違いない。彼女、もしくは彼女の周囲の者が人にインノツェンツァの楽譜を盗ませたのだ。

「……彼女か」

「うん、絶対」

 前を向くレオーネの呟きにインノツェンツァは貴族令嬢を睨みつけたまま、低い声で答えた。でも、と補足する。

「言わなくていいよ。どうせ失敗するから」

「……どういうことだ?」

 レオーネの声に疑問が混じった。しかしインノツェンツァは小さく横に首を振り、無言を貫く。

 やがて貴族令嬢の演奏は終わった。ヴァイオリンが最後の一音を鳴らしても箱は何一つ反応を起こさず、数人の拍手だけがむなしく空間に響く。

 インノツェンツァは内心でぐっと拳を握り、すごすごと壁際へ戻る間際に睨んできた彼女に負けじと睨み返してやった。レオーネが呆れているのを横からひしひしと感じたが、結局あの貴族令嬢は栄誉を得ることができなかったのだ。

 人のもの盗んで楽しようとか考えてるからだよ、ざまあ!

 心の中でインノツェンツァは貴族令嬢を笑ってやる。自分が必死に考えて音を当てたのに箱を開ける鍵ではなかった悔しさはあるものの、多少は気分がよかった。

 そしてついにインノツェンツァの番になった。

 神官長に名を呼ばれ、インノツェンツァは‘アマデウス’と‘サラサーテ’を手に箱の前へ向かった。歩くほどに集中力が高まっていく。

 だからか、ドライアドとノームが不安がっているのをインノツェンツァはなんとなしに感じとっていた。これほど強大な、大自然とも違う力に満ちた空間の中なのだ。この箱の正体を知っているとしても不安に思うのは当然だろう。

 インノツェンツァは箱の前に立つと‘アマデウス’の弦に‘サラサーテ’を当てた。落ち着いて、と楽器に宿るドライアドとノームに心の中で話しかける。

 大丈夫だよ。ここは貴方たちを傷つける場所じゃない。ここは精霊を大切にした人の想いが詰まった場所だから。怖がらなくていいんだよ――アルベロ、スオーロ。

 それは先日、乞われて精霊につけた名だ。

 ドライアドはアルベロ、ノームはスオーロ――木と土。安直な名前だが、呼んでみるとすぐ受け入れてくれた。

 ‘アマデウス’と‘サラサーテ’から伝わるアルベロとスオーロの不安が少しだけ和らいだ。それにほっとしてインノツェンツァは‘アマデウス’を構える。

「フォルトゥナータ殿、譜面は……?」

「大丈夫です。全部覚えましたから」

 譜面台も‘楽譜’も出さないのを見て怪訝そうに尋ねてきた神官長に、インノツェンツァは大きく頷いてみせた。

 神官長の背後にレオーネの顔が見える。だろうなとかやっぱりな、といったふうの表情だ。いっそつまらなさそうである。

 当然だろう。彼はインノツェンツァの幼馴染みなのだ。インノツェンツァが作曲や編曲を苦手としていることも、音楽についてだけはやたらと記憶力がいいこともよく知っている。

 はいはい、弾きますよ。とびきりすんごいのをね。

 どこか愉快な気持ちになって、インノツェンツァの口元が薄く笑んだ。脳裏に王城での懐かしい思い出がよぎっていく。

 目を閉じて精霊たちに思いを馳せ深呼吸をすると、インノツェンツァは子供が遊ぶように四本の弦を爪ではじいた。一拍置いて‘サラサーテ’を‘アマデウス’の弦の上に滑らせる。

 そうしてインノツェンツァの演奏は始まった。

 力強く、そして優しく。インノツェンツァは演奏しながら望む音色を紡げるようにと、それに連なるものを連想していく。

 思い浮かべるのはあの景色。ラエトゥスの森で見た、インノツェンツァの演奏を喜ぶ精霊たち。フィオレンツォが加われば一層はしゃいで、彼にも飛びついていた。彼も驚いてはいたがまんざらではなさそうだった。

 あれこそがジュリオ一世の音楽だったはずだ。大自然の中で思うままに演奏し精霊たちの喝采を浴び、楽しい気持ちを分かちあう音楽――――世界。精霊たちとの約束の鍵である‘楽譜’に、大自然や精霊への深い想いが注がれていないわけがない。

 だからインノツェンツァは覚えている記憶をかき集めた。太陽の光を浴びる木々、命を潤す川のせせらぎ、雨上がりの泥の重さ、空を渡る風の音、炎の暖かさ。世界中にある、精霊を宿しうるあらゆる事物を心に思い描く。

 すると、不思議なことが起きた。

 どこまでも鬱蒼と木々が生い茂る景色が脳裏をよぎった。洞窟の中できらめく宝石や土の中で草木の音が伸びていく様子、小さな水晶が少しずつ育っていくさまが色鮮やかな情景として見えてくる。

 これ、アルベロとスオーロの記憶……?

 だってどれもインノツェンツァが見たことのないものばかりだ。彼らがインノツェンツァの演奏の意図を理解し、見せてくれるとしか思えない。

 精霊たちの優しさが嬉しくて、インノツェンツァはそれも表現したくなった。だから少しだけ予定を変更して、音の高さはそのままにして旋律をいじる。それもまた楽しい。

 そうしてひたすらに意識を内側へ向けているうち、インノツェンツァの視界には現実ではない世界が広がっていた。

 五線のない譜面から飛び出した色づく音符が眼前に整然と並び、インノツェンツァの眼差しに貫かれるのを待っていた。音符はインノツェンツァが目を向けるだけで音を発し、奏でる音やその律動、曲の速さや音の強弱、音の長さ――――紡ぐべき想い。そうした曲のすべてを教えてくれる。

 五線は必要ないどころか何も告げてくれないから邪魔だった。だからジュリオ一世は五線を外したのだ。インノツェンツァはもうそのことを知っている。

 想像力の極致に見出したジュリオ一世の‘楽譜’の世界の中、音が紡がれるほどにインノツェンツァは旋律に心を奪われていく。その世界に色が満ち力があふれ出してくることに、何の疑問もなかった。

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