第19話 怒鳴らずにいられない・1

 瞼が重い。体がだるい。頭がぼーっとする。それらの症状を抱えて、インノツェンツァは『夕暮れ蔓』のカウンターに座っていた。

 昨夜、ドライアドとノームにいい名前をと頭をひねったあと。ジュリオ一世やベルナルド一世について、ノームの少年が長老から聞いた話を教えてもらった。さらには編曲作業も少しやったのだ。思いついたばかりの旋律を書き留めておきたかった。

 そんなものだから結果として睡眠時間を大幅に削ることになり、インノツェンツァは寝不足になったのだった。

 午前中に客の応対をしているうちはまだ、インノツェンツァも若さと気合いで眠気をこらえていられたのだ。しかしいつもより量を減らした昼食を終えてしばらくすると、眠気が一気にやってきた。意識が飛びそうになるのをあらゆる手で阻止し、どうにか数組の客の帰りを見守るのがやっとだ。

 眠いですと書いてあるような顔でカウンターに横向きに突っ伏す従業員を見下ろし、トビアは苦笑した。

「……眠いなら、奥で寝たほうがいいんじゃないかな」

「いやでも、仕事中ですし……」

 体を起こし、眠い目をこすってインノツェンツァは言う。少しだけでも目を閉じていたからか眠気や目の疲れは多少ましになっていたが、それでも眠かった。

「その状態じゃ仕事にならないだろう? 『酒と剣亭』で演奏しなきゃいけないんだし……今のところお客さんは少ないし、僕一人でも大丈夫だよ。だから仮眠をとっておいで」

「あ、今夜は休みなんです。だから大丈夫……」

 そう言ってるうちからインノツェンツァの瞼は閉じては開けるのを繰り返す。目を閉じたら最後、意識がどこかへ吸われてしまいそうなのだ。なんとしても耐えなければならない。

 傍から見ればまったく説得力のない、間抜けで面白い光景だったのだろう。見ていたトビアはこらえきれずといった顔で吹き出した。

「……トビアさん」

「ごめんごめん、可愛いものだからつい」

「ものすごく間抜けだったからと正直に言ってください……」

 店主を力なくねめつけたインノツェンツァは、眠さと恥ずかしさでまたカウンターに沈んだ。

 でも、思いついたらすぐ書いとかないとって思ったんだもん……! あのときは頭すっきりしてたし!

 今夜は即刻寝る。絶対今日は編曲作業を休む。インノツェンツァは改めて決意した。そうでなければ身体がもたない。

 しかし、あとほんの一時間半とインノツェンツァが気合いを入れ直した直後。

「その間抜けな顔で接客することが、すでに従業員として失格だと気づくべきだと思いますけどね」

 そんな情け容赦ない科白がインノツェンツァの気合いを一刀両断して沈没させた。

 見上げると備品を手にしたフィオレンツォが、白い目でインノツェンツァを見下ろしている。

「まったく……そんな間の抜けた顔で接客なんて、従業員として失格なんじゃないですか。どうせ昨夜、例の‘楽譜’の編曲作業をしていたからでしょうけど」

 そこで一度言葉を切り、フィオレンツォはわざとらしく音をたてて備品をカウンターに置いた。

「本来の仕事に支障を出してどうするんですか。これで『酒と剣亭』の仕事があったなら、店長に店から叩き出されていますよ」

「うわ、ありえそー」

 働いているうちは大らかで優しいが怠けた途端形相が変わる店長の強面を思い浮かべ、インノツェンツァは乾いた笑みを浮かべる。確かに、ただでさえ遅刻をしているのにこの寝る気満々の状態では酒場に入れてもらえもすまい。休みでよかった。

「早く僕の清算を終えて、早く家へ帰って眠ればいいじゃないですか。ほら、清算を済ませてください」

「フィオレンツォ、今日はいつもより容赦ない……」

 インノツェンツァは泣き言を言いながらのそのそと立ち上がった。のんびりした動作で清算をしていく。

 そんなインノツェンツァをしょうがないなあといった顔で見守りながら、そういえばとトビアは口を開いた。

「音楽会へ着ていく服はどうするんだい? 音楽会はもうすぐだし、そろそろ用意しないといけないだろう」

「ああ……それはまあなんとか」

 清算を終えて商品をフィオレンツォに渡しながらインノツェンツァは言った。

「前に着てた服とか、宮廷音楽家を辞めたときに売ってなかったんですよ。また演奏するときに必要になるかもしれないって、母が言うものですから」

「なるほど。演奏用なら流行は特に関係ないしねえ」

「そうなんですよね。母もなんか張りきって手入れしたりしてますから、そっちの用意は大丈夫です」

「……レオーネさんに頼んだりしないんですか? あの人なら、エテルノ一の衣装店に依頼してどうとでもできそうですが」

 唐突に横から問いが挟まれた。フィオレンツォからだ。

 ? なんでレオーネ?

 インノツェンツァは目を瞬かせ、こてんと首を傾けた。

「頼まないよ。レオーネにはお医者様を派遣してもらったり、母さんの薬代でもお世話になってるし。これ以上はさすがにね」

 そもそもあの一言多い幼馴染みに服の新調を頼むなんて、絶対に御免だ。偉そうな態度でからかわれるに決まっている。宮廷音楽家になって初めて着たときも、馬子にも衣裳だのと言われて彼を殴ろうと思ったのだ。そのときはイザベラとラツィオと王太子が代わりに物申してくれたので、心底感謝したのだが。

 トビアははあと残念そうに短く息を吐いた。

「でも僕たちは音楽会へ参加できないんだよね。君はお祭りのときもあんまり着飾ったりしないから、やっと晴れ姿を見られる機会なのに」

「普段と大して変わんないですよ。流行のドレスみたいなひらひらふわふわじゃないですから」

 へにゃりと笑って、インノツェンツァは手をひらつかせる。こうでもしないと眠気を追い払えない。

「でもそうですねえ。フィオレンツォも参加してたら、あいつに服を貸してもらったりする手はあったかも。フィオレンツォはいつもお洒落な服着てますけど、腕利きの針子さんにいい服仕立ててもらったりしたらもっと綺麗になるでしょうし」

 それは残念だねよねえとのんびりした声で言い、インノツェンツァはカウンターから身を乗り出した。衝動のままフィオレンツォの頭を撫でる。

 いつものことながらさらさらした髪の感触が心地いい。肌だって近づいてよく観察してみれば、きめ細かくてすべすべしてそうだ。しみも見当たらない。ここまで完璧な容姿の要素だともう羨む気も起きない。

 しかし年頃の少年がそれを甘受するわけがないのである。フィオレンツォは真っ赤な顔で頭に乗った手を払い落とした。

「っだから、人の頭を撫でないでください! 僕は貴女と同い歳なんですっ」

「いーじゃん別にー。減るもんじゃなしー」

「そういう問題じゃないでしょう!」

 フィオレンツォは全力で拒否する。インノツェンツァは口をとがらせた。

 トビアは微笑ましいと言わんばかりにやりとりを見ているだけで、止めるつもりはまったくない様子である。まったく和やかな、のんびりとしたやりとりだ。

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