第20話 怒鳴らずにいられない・2

 だからインノツェンツァがその音に気づけたのは、本当に偶然だった。

「……? トビアさん、奥で何か音がしませんでしたか?」

「? 音がしましたか?」

「僕は聞こえなかったけど……」

 フィオレンツォとトビアは目を丸くして互いに顔を見合わせる。まったく聞こえなかったらしい。

 んー? おかしいな、音がしたはずなんだけど……。

 インノツェンツァは眉をひそめた。この感覚は店の奥から音がしたと告げているのに。

「……ちょっと奥見てきます」

 どうしても気になって、インノツェンツァは立ち上がった。直接確かめに行くほうがよほど正確だし、いい眠気覚ましになる。

「そうだ、ついでにトビアさんも何か飲みます? フィオレンツォも……っ!」

 ドアノブに手をかけたまま、インノツェンツァが二人に尋ねた刹那。

 扉の向こうから確かに物音がした。

 扉をそっと開く音だ。

 そう認識するやインノツェンツァの眠気はどこかへ吹き飛んだ。俊敏な動作で扉を開ける。

 インノツェンツァが扉を開けると目の前の廊下に、見たことのない若い男が立っていた。男はインノツェンツァに気づき、ぎょっと目を開ける。

「! だ」

 誰何しようとした瞬間に男が腕を一閃したので、何も考えずインノツェンツァは扉を閉めた。間をおかずどす、と何かが刺さる音がする。

 ぎょっとして次に扉を開ければ、男の背中はもう勝手口だ。

「ちょっ、待ちなさいよこの泥棒!」

 インノツェンツァはフィオレンツォとトビアの制止も聞かず、後を追いかけた。

 勝手口を出て辺りを見回すと、通りを目指して薄暗く人がいない路地を走る人影がインノツェンツァの視界に映った。それを目指し、インノツェンツァは全速力で走る。

 だが所詮は音楽家の少女の足である。追いつけずむしろ距離は広がるだけだ。ついに男は光の中、通りを行き交う人の流れに紛れてしまう。

 路地を出る手前で足を止めたインノツェンツァは肩で息をいくらかしたあと、昂る感情のあまりにだんと思いきり足を地面に踏みつけた。

「インノツェンツァ! 怪我は」

「ないよ。あーもう悔しいっ! 逃げられたー!」

 駆けつけてきたフィオレンツォの心配をよそに、インノツェンツァは地団太をしてわめいた。

 こんなに走ったのに逃げられるなんて! そもそも店に入られたこともだけど!

 悔しい以外の何物でもない。自分にも男にも腹が立って仕方がなかった。

 しかし、それがいけなかった。

「インノツェンツァ! 貴女は何をやっているんですか! ナイフを投げてくるような人間を丸腰で追いかけて……馬鹿ですか!」

「あ、いや、気づいたら追いかけていたというか」

「怪我でもしたらどうするんですか! 貴女は音楽会を控えたヴァイオリン奏者でしょう!」

「いやまあそうなんだけど…………ごめん」

 後先考えない無謀な行動を咎められ、インノツェンツァはたじたじになる。先ほどまでとは一転して平謝りだ。

 怒り心頭といった様子のフィオレンツォにびくびくしながらインノツェンツァが店内に戻ると、いつかの日のようにトビアが安堵の表情で彼女を出迎えた。

「インノツェンツァ! 大丈夫かい? まったく、急に走りだしたからびっくりしたよ」

「すみません。不審者を追いかけなきゃってそればっかりで……」

「駄目だよそんなこと。身の安全のほうが大事だよ」

 トビアも優しく、けれどフィオレンツォと同じことを言う。今日はやたらと怒られる日だと思いながら、インノツェンツァは大人しくそれを聞いていた。

 店を早めに閉めることにして、今夜は『酒と剣亭』で仕事があるフィオレンツォを帰したあと。トビアが戸締りの準備をしているあいだ、インノツェンツァは男があさっていた荷物置き場に置かれた棚の引き出しなどを確認した。

 ここは唯一の従業員であるインノツェンツァの倉庫のようなもので、自宅の棚には収まりきれない楽譜や書籍を置かせてもらっているのだ。‘アマデウス’と‘サラサーテ’は店へ容器ごと持ちこんでいたから無事であるものの、他の物がどうなっていることか。

 箱に入れて棚へしまっていた楽譜などの無事を確認したインノツェンツァは、最後に鞄の中身を確認しようと鞄の口を開けた。財布に入れてあったささやかな所持金も盗まれていない。安堵の息をつく。

 しかしそこでインノツェンツァは、ふと気づいた。

 ちょ、ちょっと帳面がない……っ!

 慌てて鞄の中をひっくり返してみるが、今朝自宅で鞄に入れたはずの帳面が見当たらない。さらに書類入れを開いてみると例の‘楽譜’もなかった。

 いやいや私持ってきたよ? 今日も持ってきたけど眠かったから結局鞄の中に入れたままだったはず……!

 あの不法侵入者に盗まれたとしか考えられない。金目の物には目もくれず、こんな一見すると価値のないものをわざわざ選んだのだ。音楽会での成功に執着する王族か擁立された演奏者の誰かが、インノツェンツァの成功を妨害しようと犯行に及んだのは間違いない。

 私の努力の結晶を……っ!

「ふっざけんなー!」

 沸点を瞬時に越えたインノツェンツァの怒りの絶叫が、室内どころか店中に響きわたった。

「私がどんだけ苦労して編曲してきたと思ってんの! 脅されて仕方なく、楽譜と読む気になんない音楽理論の本に目を通して眠い目こすってやってきたっていうのに……それを横取り? 何その泥棒精神!」

 一度怒鳴りだすとインノツェンツァはもう止められなかった。

「宮廷音楽家辞めた小娘なら何も背負ってないから何してもいいとか思ってんの? 優越感丸出し? ふざけんな!」

 インノツェンツァは性別すらわからない黒幕を罵った。

「私だって色々背負ってんのよ。人のを盗むなんてそんなせこいことするなら、音楽家辞めてよ。人の苦労の結晶盗む汚い根性で、音楽家を名乗るなー!」

 一際きつい罵倒がインノツェンツァの唇からほとばしった。

 当たり前である。叫んでいだように、あの‘曲’にはインノツェンツァの苦労が詰まっているのだ。始まりは仕方なくであっても愛着がないわけがない。ロッタ神殿の奥で演奏するのを楽しみにしていた。

 それを妨害工作だか編曲作業が難航しているだかで盗まれたのだから、ふざけるなとしか思えない。

 吠えるだけ吠えて、インノツェンツァはぜいぜいと肩で息をする。それでもまだ腹立ちは消えなかったが、叫んで地団太を踏みもすれば体力も気力も削がれるものだ。思いきり叫んだだけに気力が失われて喉が痛く、これ以上怒鳴ることもできそうになかった。

 ちょうどそのとき、きしりと音がした。インノツェンツァが振り返ると苦笑したトビアが立っている。

「……インノツェンツァ。とりあえずそのくらいにしとこうよ、ね? ご近所さんに聞こえるとまずいし」

「…………はい」

 躊躇いがちに声をかけられ、我に返ったインノツェンツァは顔を赤らめた。トビアに勧められコップを受けとる。

 インノツェンツァが水を飲んで心を落ち着かせていると、店のほうからドライアドとノームが部屋に跳びこんできた。先ほどの怒鳴り声を聞いて心配になったのだろう。不安そうな顔でインノツェンツァに抱きつき、顔を覗きこんでくる。

 先日の一件を知らないトビアは目を丸くした。

「ドライアドとノーム……? なんか、すごく君に懐いてるみたいだけど」

「はい。‘アマデウス’と‘サラサーテ’が、彼らの‘精霊の仮宿’だったみたいでして」

 苦笑してトビアに答え、インノツェンツァはドライアドとノームに微笑みかけた。

「ごめんね驚かせて。もう私は落ち着いたから大丈夫だよ」

 言って、インノツェンツァはドライアドとノームの頭を撫でる。それで安心したのか精霊たちは表情を緩めた。

 インノツェンツァと精霊たちのやりとりが一区切りついたところで、トビアは口を開いた。

「何があったかはさっきので大体わかったけど……帳面を盗まれたのかい?」

「はい。それとあの‘楽譜’も。誰がやったのか知らないですけど、私が曲を完成させないよう徹底的に妨害する気みたいですね」

 毎日目を皿のようにして見つめていたのである程度は‘楽譜’を暗記しているが、それでも‘楽譜’は必要だ。間違った旋律を記憶していないとは言いきれない。

 トビアは腕を組み、短く息を吐いた。

「そんなに大事なのかな、例の音楽会。いくら褒美が出るからって、ここまでする必要はないだろうに」

「自分はこんなにいい演奏をするんだぞ、こんな素晴らしい音楽家を囲ってるんだぞって自慢したい貴族だの豪商だののお披露目会だって勘違いしてるんじゃないですか? いつもそうですから」

 インノツェンツァは珍しく、軽蔑の声音で吐き捨てた。

「国王陛下はいい演奏をする人や擁立した人への援助を惜しまない方ですし、音楽で国王陛下の目に留まろうと考える貴族や豪商、音楽家は多いんです。……そのために手段を選ばないろくでなしも、ですけど」

「しかしインノツェンツァ、こうなると編曲はどうするんだい? ‘楽譜’もないとなると、もう一度最初から全部譜面にするのは難しいだろう? 時間もないし」

「それは、まあどうにかします。‘楽譜’は……持ってる人に写させてもらえばいいですし」

 事情を話したら怒りそうだから、やなんだけどね。

 こうなったらレオーネに‘楽譜’を写させてもらうしかない。ここで黙っているほうがむしろあとが厄介だ。

 だが曲がったことが大嫌いな幼馴染みのことである。インノツェンツァがあの‘楽譜’と編曲した楽譜を盗まれてしまったと知ったら、青筋を立てるに決まっている。

「……黒幕見つけたら殴ろう。二発くらい」

「やめなさい。女の子なんだから」

 据わった目で物騒なことを呟くインノツェンツァをトビアはたしなめる。だってトビアさんとインノツェンツァが口を尖らせぶつぶつ言っているうちに、結局彼女の帰りはいつもと同じ時刻になったのだった。

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