第28話 それから

「……それで、結局どうなったんですか?」

 音楽会から二日後の、閉店の看板を扉に吊るした正午前。フィオレンツォはそうインノツェンツァに続きを促した。

 少し前、講師の都合により今日は午後から授業だというフィオレンツォが店へやってきた。二日続けてマリアの帰宅が遅く、昨夜も音楽会で何があったか『酒と剣亭』で聞けずにいたからだという。インノツェンツァも話すべきだと思ったので語ることに躊躇いはなかった。

 フィオレンツォに問われ、インノツェンツァはもちろん承諾してくださったよと答えた。

「ジュリオ一世とベルナルド一世の願いを叶えることを何より大事になさってるから。精霊を傷つけることは法に反してるし。ノームの子にも、あの装置の警護をして民を殺めた罪を償ってほしいっておっしゃってたよ」

「そうですか……まあ実際のところ、法は加害者も被害者も人間であることが前提ですからね。裁きようがないというか……装置の守り手は必要でしょうし、妥当な判断だと思います」

 そう頷くと、ところでとフィオレンツォは話題を変えた。

「その共感覚、ですか。そんなものが存在するとは初耳ですよ。色を見れば音が聞こえてくるなんて……想像できませんね」

 フィオレンツォは両腕を組んで言った。

「そんな感覚で、ずっと目を瞑っているわけでもないのによく演奏家をしていられますよ。目を開けているだけで音が聞こえてくるんでしょう?」

「あーうん」

 インノツェンツァは苦笑した。

「でも目を閉じたら色からは何も聞こえなくなるし、小さいときに自分の感覚が皆とは違うんだなーって気づいてからは色から聞こえる音と本物の音を聞き分けるよう意識してきたし……慣れてるといえば慣れてるんだよ。今でもたまに聞き間違えるけどね」

 色から聞こえる音も空気を震わせた音も、インノツェンツァにとっては外部からの音であることには変わりない。だからこれまで周囲を注意して観察することで二種類の音を区別し、一般的な感覚を持つ人々の中に溶けこんでいた。共感覚という感覚の存在そのものが一般常識の範囲外なのだ。特殊な感覚の持ち主であると知られることもなかった。

 他人とは異なるこの感覚を面倒だと思うがもう慣れている。それより今はこの感覚を持っていたからこそジュリオ一世の曲を演奏し、精霊たちを癒すことができたのだという誇らしさがあった。

 だってこれは、私にしかできなかったことだもん。ドヤ顔するくらいいいよね。

 子供っぽい自慢だの安っぽい自己満足だのと言われても構うものか。インノツェンツァは大きな仕事をやり遂げた満足感でいっぱいだった。

 ただ、とフィオレンツォは顎に指を当て憂い顔で言う。

「精霊を癒す装置を起動させたのはいいことなのですが、これからが大変ですよ。他の参加者たちは記憶を魔法で消したり‘楽譜’をひそかに回収したりしてごまかせるかもしれませんが、神官や騎士たちの中には箝口令を布いても漏らす人はいるでしょうし」

「それに、ロッタ神殿から強大な魔力が放出されていたことは隠せないしね。そういう噂はガレルーチェの貴族だけじゃなくて滞在中の各国の大使だのの耳に入るだろうから、探りを入れてくるだろうねえ」

「ですよねえ……まあ、そこは国王陛下たちに外交手腕を発揮していただくということで」

 ほうと息を吐くトビアに続き、インノツェンツァもへらりと笑った。

 参加者の記憶はどうにかできても街中にさらされた事実はどうしようもないのだ。雑だろうと胡散臭かろうと、可能な限りの隠蔽工作をするしかない。トリスターノの部下が押しつけてきた資料にあった神官の手記も、当時の国王がそうした隠蔽工作を免れて今まで残っていたのだろう。

 自分たちが不安がっても仕方ないと理解してなのか、フィオレンツォは息を小さく息を吐いた。ちらりとインノツェンツァを見る。

「‘アマデウス’と‘サラサーテ’に宿っていた精霊たちはどうするんですか? 傷ついてましたし、彼らは装置へ入ったほうがいいと思いますが」

「……ああ、うん」

 先日のことをまた思いだし、インノツェンツァは目が遠くなった。

 インノツェンツァもアルベロとスアーロに傷を癒すために装置へ入るよう勧めたのだ。しかし当のアルベロとスアーロが反対したのである。言葉は通じなくても抱きついてきた表情や仕草を見れば明らかだった。

『そこまで精霊と心を通わせているとは……まさしくそなたは‘精霊の音楽家’であるな』

 笑っているのか感慨深いのかわからない声と表情で国王は言ったものだ。あれほど穴があったら入りたいと思ったのはいつぶりだろうか。神官長と王太子がほのぼのと笑い、レオーネもなんともいえない顔をしていたのが余計にインノツェンツァの羞恥を煽った。

 泣き落としに負けそうになったが、彼らの傷を放置するわけにはいかないのである。傷が治ったら迎えに行くからということでどうにか納得してもらい、装置の中へ入ってもらったのだった。

「……それはまあ……すごい懐かれようですね。先日もそうでしたけど」

「うん。あとで祖父から聞いたけど、すごかったみたいだねえ」

 呆れかえるフィオレンツォとは反対にトビアはのんびりと言う。神官長は随分と穏便な表現をしていたらしい。フィオレンツォは夜道やラエティスの森の中でのことを見ているので、どういう反応だったか大体想像がついたようだが。

 ともかく、これで昨日起きたことの一部始終と対応についての話は終わりだ。一仕事を終え、インノツェンツァは肩の荷を下ろしたような気持ちで紅茶を飲んだ。乾いた喉を砂糖の甘みがほどよく混ざった紅茶で潤す。

 なにはともあれ、今日からは普通の毎日になるんだよね。ちゃんとしないと!

 空になったティーカップを置き、インノツェンツァが気持ちを切り替えようとしたときだった。

「インノツェンツァ」

 不意にフィオレンツォが名を呼んだ。先ほどまでとは打って変わった真剣な表情だ。不安そうにも見える。

「参加者たちが記憶を消されているのなら、音楽会について知っている僕とトビアさんの記憶も……」

「それはないよ」

 フィオレンツォの不安を察し、インノツェンツァは首を振って即答した。

「確かに国王陛下はもし私がこのことを話してる人がいるなら口止めするか、できないなら魔法使いに記憶を消去させるようにおっしゃってたよ。知ってる人が少ないほうがいいことだし」

「……」

「けど、フィオレンツォやトビアさんが誰かにこのことを話すようには思えないからお断りしたの。もちろん、忘れたいなら陛下にそうお伝えするけど……」

 最後のほうは小さな声でインノツェンツァは付け足した。

 人の記憶を勝手に消すことに抵抗があったし、助けてくれたフィオレンツォやトビアとこれまでのことや自分の変わった感覚のことを話せなくなるのはさみしい。音楽会や精霊たちのことも気軽に話したい。

 けれど彼らが口をつぐみ続けることに耐えられないというなら、強いるわけにはいかない。忘れたいと望むなら忘れさせて、楽にしてあげるべきだとインノツェンツァは考えていた。

 しかし。

「忘れたいわけがないじゃないですか」

 フィオレンツォは両腕を組んで眉を吊り上げた。

「いいですか。ジュリオ一世の秘曲中の秘曲やベルナルド一世が催していた謎の音楽会に隠された秘密、彼らが込めた想いを知って忘れたいと思うわけがないでしょう。僕は覚えていますし、誰かに話したりもしません。わかりきったことを言わせないでください」

 迷いなく、躊躇いもなく。傲慢なほどまっすぐにフィオレンツォは宣言する。その堂々とした姿は、疑うことを許さない。この目を疑うことこそが罪だった。

「……!」

 晴れやかな気持ちと共に喜びが湧き上がってくる。インノツェンツァは衝動のまま、フィオレンツォの腕に抱きついた。

「なっ……!」

「ありがとうフィオレンツォ! やっぱりフィオレンツォはいい人だよね!」

「なっなにがいい人ですか! 離れてください!」

 フィオレンツォは真っ赤になってインノツェンツァが抱きつく腕を振るおうとする。トビアは二人を止めるどころか、感謝されてよかったねえとにこにこしているばかりだ。フィオレンツォを助けもしない。

 フィオレンツォが本気で離れてほしそうにしていたので、仕方なくインノツェンツァは離れた。嬉しい気持ちをそのまま表現しただけなのに。

 フィオレンツォは耳まで真っ赤になって首をめぐらせ、時計に目をやった。時刻を確かめ、ヴィオラ入れを掴む。

「あれ、もう行くの?」

「当たり前です。僕は学生ですから。午後の授業に遅れるわけにはいきません」

 トビアが首を傾けると、フィオレンツォはきっぱりと言う。

「インノツェンツァ。今夜は『酒と剣亭』に遅刻しないでくださいよ」

「うん、わかってるよ」

「それに合同練習も。一昨日までは貴女の都合を優先して合同練習は控えていましたが、もうその必要はありませんからね。明日はウーゴさんも呼んで、きっちりやりますよ」

「うん、皆でやろう」

 指を突きつけて言うフィオレンツォに、インノツェンツァはにこにこと笑顔で頷いてみせる。その言葉忘れないでくださいね、と念押ししてフィオレンツォは足早に店を出ていく。

 そうだ。今度また、フィオレンツォと一緒にラエトゥスの森へ行こうかな。

 フィオレンツォを見送りながら、ふとインノツェンツァは考えた。

 ノームの少年に棲みかの仲間を連れてきてもらって、彼らの前であの再現したジュリオ一世の曲を演奏して。ジュリオ一世がどんな人物だったのか、彼と交流した精霊の長老自身から聞いてみたい。

 そのためにもまず、今日の本番を完璧に終えてみせる。

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