第27話 真実と願い・2

「色?」

「そう」

 目を瞬かせるレオーネにインノツェンツァは頷いてみせた。

「私がもらった楽譜は全部黒インクで書いてたんだよ。あれをあの人の侍従か誰かが写すときに、音符の色を気にしないで写したんだと思う。だから私は最初、見当違いな編曲をしちゃってたんだよ」

「? 色がついてるかどうかで何が違う? 音符が何色だろうと音程や音の長さを正しく表記していれば問題ないだろう」

「普通ならね。でもジュリオ一世は音を見ることができる人だったから、色こそが重要だったんだよ」

 インノツェンツァはそんな答えを返す。自分でも奇妙だとわかっていたがそう表現するしかなかったのだ。

 インノツェンツァが言いたいことなど理解できるはずもなく、レオーネたちは意味不明と言った表情になった。神官長だけは顎に手を当て考えこんでいる。

 レオーネは指でこめかみをとんとんと叩いた。

「……普通、音は聞くものだろう」

「ジュリオ一世はそれだけじゃなかったんだよ。五線で黒インクを使った直筆の楽譜もあるから、普通の記譜法で楽譜を読んだり書いたりもできたんだと思うけど。色から音が聞こえる人だから音符に色をつけていれば音符を見るだけでよかったの。だからあんな五線のない譜面だったんだよ」

「その、色から音が聞こえるというのが理解できない。色を見ただけで音が聞こえてくるわけがないだろう。聞こえてきたとしたら幻聴だ」

「いや、幻聴というか……」

 ああもう、どう言ったらいいのかな……。

 インノツェンツァは眉根を寄せて苛々と考えた。余人には聞こえない音を聞くという点では確かに幻聴と似ているが、インノツェンツァが推測するジュリオ一世の感覚は心身の疲労や頭部の損傷、薬物の投与からくるものとは違う。ちゃんと耳で聞いているのだ。

 これをどう説明すれば――――――――。

「……国王陛下。それに王太子殿下と第二王子殿下は、生き物にはいくつの感覚があるかご存じですかな?」

 唐突に神官長が口を開いた。

「? 痛覚、味覚、触覚、聴覚、視覚だな」

「さらに視覚の場合、見るものによってそれを判別する部位が違うらしいね。数字と色はそれぞれ脳の異なる部位で判別されている可能性が高く、別々の感覚として捉えるべきだという考えもあると、学院の学者に聞いたことがあるよ」

 向けられた問いにレオーネが即答し、王太子が補足する。王子たちは音楽に造詣が深いのだが、好奇心とそれによる知識は多分野に及ぶのだ。

「左様でございます。では、それらを同時に感じる感覚を持つ者がいることはご存じですかな?」

 神官長は微笑み、さらに国王たちに問いかけた。

 人間は五つの感覚を持って生まれる。中には何らかの理由で感覚を失う者もいるが、種族としては五つの感覚を持つと考えていい。それら五つの感覚を通して、人間は世界を認識している。

 だが世の中には、本来独立しているはずの感覚が連動している者がまれに存在するのだ。学術的には共感覚と呼ばれている感覚の持ち主である。

 彼らはたとえば何かに触れるとそれに味を覚えたり、数字を見ると色が見えるといったふうに物事を感じている。それこそ声を黄色い、赤を見て辛いと感じることも。

 連動する感覚の組み合わせは様々で、どのように感じるかも人それぞれ。同じ感覚の連動でも人によっては感じ方に違いがあることが、近年他国の学者の研究で明らかになっている。

 知識豊かな神官長がインノツェンツァに代わって丁寧に説明すると、レオーネたちはそれぞれ感心した表情やら仕草やらをした。どうやらインノツェンツァの言いたいことがうっすらわかったらしい。

 ジュリオ一世は共感覚の一つ、色を見て音を感じる‘音視’の持ち主だったのだと。

 さすが神官長様、博識だよね。もふもふ髭が近所のわんこみたいっていつも思っててごめんなさい。

 助け舟を出してくれた神官長にインノツェンツァは心から感謝した。少々失礼だったが。

 王太子はインノツェンツァに顔を向けた。

「ジュリオ一世が共感覚の持ち主であったというのはどんな文献にも記されていないし、学説もない。だから今まで、誰もジュリオ一世が稀有な感覚の持ち主であるとは考えてこなかった」

「……」

「なのにそれを提唱できるうえ、その推理を前提に曲を編み正しく演奏することができたということは……君も共感覚の持ち主なのだね?」

「……はい。ジュリオ一世と同じ、‘音視’の共感覚なんです」

 問いかけるようでいてその実確信した顔の王太子に、インノツェンツァは淡く笑みを浮かべて答えた。視界の端で国王とレオーネの顔が驚きに染まる。

 当たり前だ。インノツェンツァは今まで幼馴染みのレオーネにも、自分が他者とは異なる感覚の持ち主であることを明かしたことはなかった。おそらく母も娘が特異な感覚の持ち主であると気づいていないだろう。

 宮廷にいた頃から疑ってはいたのだ。王城を初めとする国の主要建築物の配色にこだわっていた逸話は、自分にもあてはまることだったから。他の逸話にも自分と重なるものがあった。感じかたが違うだけでもしかしてジュリオ一世も、と思っていた。

 だからトリスターノに渡されたジュリオ一世作曲だろう‘楽譜’を見たとき、こういうときにこそ色インクで書いていてもおかしくないのにと確信が揺らぎはした。トリスターノの部下が手抜きをしたのではないかと疑いながら編曲作業に手をつけ――――レオーネを訪れたあの日にやっと、自分の考えが正しかったことをインノツェンツァは確信したのだ。

 それからインノツェンツァはあらゆる資料や記憶を駆使して推測しては演奏してみることを繰り返し、ジュリオ一世にとってどの音と色が対応しているのかを突き止めた。あとは‘楽譜’に記された旋律を自分が読みやすいよう書き起こし、標語や記号を書き加えて曲に深みを加えるだけだ。トビアには仕事を休ませてもらい、ひたすら作業に明け暮れた。

 もちろん、ジュリオ一世の構想をそっくりそのまま再現できるわけがない。けれどジュリオ一世が精霊たちを癒すためにこの曲を作ったことは確かだから、インノツェンツァは自分なりに精霊たちの故郷である大自然を表現しようと試みた。

 そして完成したのが先ほど演奏した曲だったのだ。

 正確な‘楽譜’を渡された他の参加者たちの中には、音符に付された色に着目しジュリオ一世の言葉や設計に関与した建築物の配色を調べた者もいただろう。先ほどの演奏を聞いていても、正解にかなり近い編曲をした者はいた。

 だが色と音階の組み合わせは膨大で、一般公開されている建築物の配色やジュリオ一世に関する資料だけではジュリオ一世にとっての音と色の関係を推理しきることはできない。王城を去るまでは王族が親しい者しか入れないような部屋への出入りが許されていて、さらにはジュリオ一世と言葉を交わしたノームの言葉を知ることができたインノツェンツァは有利だった。

 そしておそらくはアルベロとスアーロ――精霊が身近にいたことも、装置の起動に寄与している。

 ‘音視’の共感覚と精霊の存在。ジュリオ一世が有していたそれらが、インノツェンツァの成功の要因だったのだ。

「そうか……音と色が融合し、人間と精霊が共存した世界か…………なるほど、それでは誰も解けぬ。何よりも強固な暗号だな」

 インノツェンツァが説明を終えたあと。虚空を見上げ、国王は呟くように言った。

「当然と言えば当然ではあるな。ジュリオ一世は精霊と戯れることを好まれる方だったという。存在は確かでもどこにいるかわからぬ神より、目の前に確かに存在している精霊のほうが身近に感じられると。だから精霊の保護に努め、あの装置を造りだした…………今のガレルーチェを見れば、精霊たちが変わらず傷つけられていることを嘆かれるやもしれぬな」

 と国王は目線を装置から下ろし、苦く笑った。日に焼け浅くしわが刻まれた顔に、諦めや無念、寂寥、やるせなさ、羨みといった感情がにじむ。

 見つめられ、インノツェンツァはいたたまれない気持ちになった。

 国王もまたベルナルド一世のように、自分の手でこの箱を開けようとしたことがあるのかもしれない。王家の音楽会にかける情熱やこの広間に来たことがある様子は、もしかしたらここでヴァイオリンを肩に乗せたことがあるからではないだろうか。

 熱意は叶わず、時間だけが過ぎて、それを自分に代わって別の誰かが叶える瞬間を目の当たりにして国王は何を思ったのか。たまたま持ち得た能力とひらめきで‘曲’を再現できたにすぎないインノツェンツァには、到底わからない。

 わかるのは、ジュリオ一世やノームの少年が望んでいたことだけだ。

 インノツェンツァは国王陛下、と改めて国主に語りかけた。インノツェンツァの真摯な表情と声音を聞いた国王の顔から複雑な感情がすっと消え、国主の威容が表れる。

 インノツェンツァは緊張から乾く喉をこくりと鳴らした。レオーネが怪訝な顔をしているのが視界の端に映る。

「精霊たちとの約束を果たしましょう」

 国王にインノツェンツァは願った。

「この神殿に精霊がたくさん集うようになれば色んな人たちが不思議に思うだろうとは、承知しています。少なくても神官の人たちには、この神殿で何かが起きただろうともう気づかれているでしょうし……この装置にとてつもない価値があるということくらいは、政治について何も知らない私でもわかります」

 精霊たちが造った器に人智を越えた神の力が注ぎこむよう、希代の魔法使いが魔法を編みこんであるのだ。存在を知れば興味を示し、手に入れるための策を練る者や国は数多だろう。ガレルーチェに戦乱をもたらす要因になりかねない。

 精霊の憩いの場、それも自ら禁足地としたロッタ神殿という安全な場所に装置を設置しておきながらジュリオ一世が装置の起動を簡単なものにしなかったのも、それを理解していたからだろう。装置を狙う者たちにとって禁止令は無意味なのだから。ベルナルド一世や神殿が音楽会と‘楽譜’を徹底的に秘匿したのも、父王の遺志を守るために違いない。

 でも、とインノツェンツァは国王をまっすぐ見つめた。

「あのノームは誓約が果たされないことを憤って、エテルノで人間を傷つけました。あの装置を人間が独占しようとしたり争いを避けるために封印しようとすれば、また彼は怒って人々を傷つけるでしょう。……彼は仲間思いですから」

「……」

「人間のせいで傷ついた精霊たちを癒すことはジュリオ一世の願いであり、ベルナルド一世と精霊の長老との誓約なのでしょう? ならば困難があっても果たされるべきです」

 インノツェンツァは言葉を強め、拳を握った。

「だからどうか国王陛下。傷ついた精霊たちの器をあの装置で癒させてください」

 そして、インノツェンツァは深々と頭を下げた。

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