第三章 隠されていたもの

第17話 彼女の答え・1

 意識がぼんやりと浮上してきたのを自覚したインノツェンツァは、けれどまだ目を開けられなかった。

 瞼が重いしだるい。そもそも寝ている体勢とは思えない。全然暖かくもないし。

 そういや……編曲してたんだっけ……?

 そう。確か自分は例の‘楽譜’の編曲をしていたのだ。

 森の中で演奏したあと、頭の中にあふれてきた構想を持ってきた帳面に書き留めずにいられずにいられなかった。森から帰ってきたあとも母が作ってくれた夕食も手早く済ませ、作業に没頭していたのだ。

 そうしてやがて、眠気が差してきて。いつのまか眠ってしまっていたようだ。

 インノツェンツァは無理やり瞬きを繰り返すと頭を上げた。大きなあくびをして伸びをする。

 さらに深呼吸も一つすると、ずいと視界の端から顔を覗きこんでくる顔があった。ノームだ。ドライアドも宙からインノツェンツァを少し心配そうな顔で見ている。

「あはは、疲れて寝ちゃってたみたい……」

 インノツェンツァは照れた顔で笑った。もうこの子は、というふうにドライアドが頬に触れてくると、ほのかに力の気配とぬくもりが感じられる。腕をよじ登ってきたノームからもだ。

 優しいなあと頬を緩ませ窓の外に目を向けたインノツェンツァは、月光に照らされる教会の尖塔の時計を見て思わずうわあと小さく声をあげた。

 日付、変わってるし……! どんなけ寝てるのよ私!

 さすがにもう終わりにしないとまずい。今日は『酒と剣亭』の仕事がないものの、朝から『夕暮れ蔓』の仕事はあるのだ。

 だからインノツェンツァは音楽の専門書やあの‘楽譜’、筆記用具で散らかった机の上を片づけだした。何度も推敲した跡のある帳面が自然とインノツェンツァの視界に入ってくる。

 開いた当初は五線が引かれているだけだった帳面には、今は音符と記号が整然と並んでいる。慣れない編曲作業に苛々としていたのだが、森で演奏したあとから一気に進んだのだ。

 全体の構成はこれでいいよね。あとは細かな部分を詰めていけば完成……のはず。

 もう音楽会当日まで日がないからほとんど練習できないかもしれないが、仕方ない。なんとかするしかないだろう。

「……レオーネには感謝だよね。あの森で演奏できたから、構想が湧いてきたんだし」

 本人は絶対に言ってやらないけど!

 苦虫を噛み潰した表情でインノツェンツァは呟いた。

 フィオレンツォが連れていってくれたならともかく、あの幼馴染みではあまり感謝する気になれないのだ。感謝した端から余計な一言で後悔することになるのを、であった頃から何度も経験したからに違いない。

 あの性格はほんとにどうにかなんないのかなと心の中で文句を言いながら、片づけを終えたインノツェンツァは椅子から立ち上がった。もう寝間着に着替えているからあとは寝るだけだ。

 ――――しかし。

「……」

 インノツェンツァは寝台へ向かわず、月明かりが差しこむ窓辺へ近づいた。ドライアドとノームの不思議そうな表情が窓に映る。

「……今日、というか昨日。あのノームの子はいなかったね」

 呟き、インノツェンツァは精霊たちのほうを見た。

「ねえ……あの子にどうやったら会えるか、わかる? 私、あの子にもう一度会いたいの。あの子は人間に対してとても怒ってるから」

 トリスターノが襲われた夜以来連続通り魔は起きておらず、エテルノは一見すると平穏そのものだ。精霊が宿ったままの‘精霊の仮宿’を持っていると狙われるのだと知られるようになり、人々が競うように精霊協会などへ人知れず寄付したり捨てていくようになったのも一因だろう。

 そうして集められ、精霊教会の施錠された尖塔に置かれていた‘精霊の仮宿’がいつのまにかなくなっていた――――という話もある。きっとあのノームの少年の仕業だ。

 しかし精霊が人間に傷つけられなくなったわけではない。仲間を保護するためなら手段を選ばないノームの少年が、いつまで人間を傷つけずに‘精霊の仮宿’を奪おうとするのか。インノツェンツァと同じように、あまり気が長くなさそうなあのノームが。

 それに。

『そんな奴らのところに仲間をいさせたくない、仲間のところへ連れて帰ろうって思うのがなんで悪いことなんだよ』

 インノツェンツァはあの夜、理不尽への怒りで瞳を燃やしたノームの少年に答えることができなかった。

 何故、精霊は人間を殺してはならないのか。

 何故、精霊は仲間を保護しようとするのを悪と断じられなければならないのか。

 何故――――――――。

 インノツェンツァは、あの問いに答えなければならない。いや、答えたい。

 今なら答えられるような気がするから。

「だからもしできるなら、彼に私が会いたがってるって伝えてくれないかな……?」

 小さな声でそっとささやき、インノツェンツァはドライアドとノームに触れた。

 ドライアドとノームは戸惑った様子で顔を見合わせた。特にドライアドは賛成とは言い難い表情だ。

 仕方ない。ノームの少年はこのドライアドとノームを連れていくため、インノツェンツァを殺そうとしたのである。それを庇ってドライアドは傷つきもした。彼をインノツェンツァと会わせたくはないのは当然の感情だろう。

 インノツェンツァの頼みだからと思ったのか、なんなのか。ドライアドとノームは窓辺へ移動すると大きく息を吸った。

 その途端。ドライアドの周囲には濃緑、ノームの周囲には焦げ茶の光がいくつも淡く灯った。

 精霊たち――大自然の力の欠片だ。インノツェンツァは直感した。

 精霊たちの身体から生まれた光は窓を通り抜けて四散した。星が瞬く夜空に精霊の力の欠片がたちまち溶けていく。

 空へ力を放つことであのノームの少年を呼んでいるのだろう。そう理解しインノツェンツァは窓の鍵を開けた。また椅子に腰を下ろし、窓の向こうを見つめる。

 しかしノームの少年は一向に現れない。時計塔の時計の針は六つも数字を移動している。

 うたたねから目覚めたばかりで少々ぼんやりしていたインノツェンツぁの意識ははっきりしてきて、夜の静けさの中で待つ緊張もすっかり解けた。暇だからと手をつけた例の‘楽譜’も、つい先ほど完成したところだ。

 つまりインノツェンツァは退屈になった。こんな真夜中に‘アマデウス’を弾くわけにもいかない。そもそも今日は仕事があるのだ。

 ということで、インノツェンツァはノームの少年を待つのを諦めることにした。文房具などをまた片づける。

「ごめん。私そろそろ寝るよ。今夜は来そうにないし。明日の夜、もう一回試してくれないかな?」

 インノツェンツァは申し訳なさそうに眉を下げ、ドライアドとノームに頼んだ。

 ――――そのとき。

 インノツェンツァのほうを見ていたドライアドとノームが、唐突に窓の外を向いた。インノツェンツァが驚いているあいだに、月明かりが差しこむ床に影が落ちる。

 人間――子供の形をした影。

 はっとインノツェンツァが窓を見ると、夜空を飾る光を背にした子供が窓を覗きこんでいた。きらめく金髪の――――ノームの少年は露骨に嫌そうな顔をしながら、窓を押し開けて入ってくる。

「一体何なの? そっちの二体が呼ぶから来たけど」

 音もなく床へ下り、両腕を組んでノームの少年は言う。仕方なく来たんだけど、という感情を声色どころか全身で表現している。ドライアドとノームが抗議の様子を見せても知らん顔だ。

 ノームの少年との距離が少し縮まったからなのか、物言いに苛ついたからなのか。インノツェンツァは彼の様子が以前とすこしだけ違っているのに気づいてぎょっとした。

 彼の頬に鋭い爪で切り裂かれたとしか思えない痕があったのだ。

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