第三十話   異国の拳法少女・シェンファ ⑧

 アルゴリーの右拳は、シェンファの頭部を通過した。


 弓矢を身体に受けたように拳が身体を突き抜けたのではない。


 完璧に攻撃を見切ったシェンファが顔面を逸らしてアルゴリーの右拳を避けたのだ。


 それだけではない。


 右拳を避けたと同時にシェンファはアルゴリーの喉元に容赦なく攻撃を繰り出した。


 月牙叉手げつがさいしゅ


 人差し指と親指で相手の首を瞬時に摑み、その際に中指の第二関節の部位で喉仏を突くという非常に恐ろしい急所攻撃の一つである。


 しかし、最も恐ろしい攻撃は決して月牙叉手ではなかった。


「ぐっ……」


 鍛えたくとも鍛えられない喉に攻撃を受けたアルゴリーは、呼吸に支障が生じたために身体が彫像のように硬直した。


(ここが好機!)


 その瞬間、シェンファの眼光が鋭さを増した。


 シェンファは前に出ていたアルゴリーの右足に自分の右足を引っ掛けると、苦悶に顔を歪めていたアルゴリーの顔面を摑んで前方に打ち倒す。


 すると右足を引っ掛けられていた状態で後方に崩されたアルゴリーは、後頭部から硬い石製の地面に思いっきり打ちつけられた。


 このとき、シェンファはアルゴリーの意識が途切れたことを肌で感じた。


 それでもシェンファは微塵も油断と緊張を解かなかった。


 なぜなら、息を殺しながら自分の後方に回り込んでくる不穏な気配を鋭敏に察したからだ。


「バレバレなのよ!」


 不意にシェンファは後方に向けて後ろ蹴りを放つ。上半身を倒しながら放たれた後ろ蹴りは、後頭部に飛んできた突きを回避したと同時に相手の胴体に深々とめり込んだ。


 足裏から伝わってくる確かな手応えは、致命傷とはいかなくとも相手の行動を抑制させることには成功しただろう。


 だからこそシェンファは後ろ蹴りに使用した右足を素早く引き戻し、そのまま身体の捻りと踵を回して軸足をさらに外側へと開いた。


 そして軸足を開いたときに生じた身体の捻転を利用すると、相手の足頭部目掛けて弧の軌道を描く蹴りを放った。


 掃踢と呼ばれる虚空に半円の軌道を描く蹴り技である。


 ただし同じ虚空に半円を描く蹴り技――半月脚と異なって外側から内側に向かって蹴るのが特徴だった。


 無論、まともに命中すれば只では済まない。


 そう、まともに命中すればの話である。


「さすがの俺も度肝を抜かれたぜ。まさか、年下の女に不覚を取るとはな」


 数瞬後、シェンファは自分の足首が捕獲されたことを悟った。


 片足立ちという不安定な態勢にもかかわらずシェンファは後方を見やる。


 フォレストであった。


「き、汚い手で私の足に触れないでよ!」


 体格が勝る男に片足を摑まれる。それは小柄なシェンファには絶望的なこと以外の何物でもなかった。


 いくら拳法の技量が秀でていようが単純な腕力で男には勝てない。


 なればこそ、シェンファはフォレストから逃れようと苦肉の策を講じた。


 三分の二以上の体重を支えていた左足一本で跳躍。


 そのままフォレストの顔面に向かって後ろ蹴りを繰り出したのだ。


「おっと、そんな蹴りを食らうかよ」


 だがフォレストはシェンファの後ろ蹴りを楽々と回避した。


 しかもフォレストは回避した右足を素早く掴み取り、ついにはシェンファの両足を捕獲してしまった。


 この体勢はマズい! 


 地面に両手をつけて顔面を強打する愚行こそ起こさなかったシェンファだったが、力で勝っている敵に両足を摑まれたという現実に肌が粟立った。


「さて、今度はこっちの番だぜ」


 そんな最悪の現実をさらに悪化させようとしたのだろう。


 小さく口笛を吹いたフォレストはシェンファの身体に最大の損傷を与えるために行動を起こした。


 腕力任せにシェンファを壁に叩きつけたのだ。


 一度だけではない。


 両足を摑んでいる利を最大限に利用しようとフォレストは、何度も何度もシェンファの身体を壁に叩きつけた。


 もちろんシェンファは壁に激突する瞬間に両腕を上げ、最悪の展開である頭部を損傷するということだけは何とか回避した。


 それでも壁に叩きつけられる度にシェンファの小柄な体躯は損傷を蓄積していった。


 やがて壁に叩きつけられた回数が十を超えた頃、さすがのシェンファも抵抗する気概をなくしてしまった。


 無理もない。


 抵抗しようにも両足を摑まれた状態では何も出来ず、何度も身体を振り回された挙句に石壁に叩きつけられれば誰でも参ってしまう。


 現にシェンファがそうであった。


(くそ……こんな奴に私が不覚を取るなんて)


 シェンファの意識は意外とはっきりしていたものの、何度も壁に叩きつけられた肉体は安らかな休息を激しく渇望していた。


 少しでも気を抜けば簡単に意識を喪失するほどに。


「やっと大人しくなったか」


 一方で抵抗する素振りも見せなくなったシェンファの両足をフォレストは離した。


 そして地面にうつ伏せに倒れ込んだシェンファを見下ろしてほくそ笑む。


「まったく手間を掛けさせやがって」


 ぐったりとしているシェンファに唾を吐き捨てるなり、フォレストは固く握り込んだ右拳を脇の位置に引いて構えた。


 とどめを刺そうと剥き出しだった延髄部分に右拳を叩き込もうとしたのだ。


「死ねやぁ!」


 気合一閃。


 フォレストはシェンファの延髄を見据えたまま右拳を振り下ろす。


 加速と体重が乗った右拳がシェンファの延髄に突き刺さる……はずであった。


(何……何が起こったの?)


 冷やりとした床の温度を頬に感じていたシェンファは、フォレストから放出されていた殺意が自分の延髄に向けられていたことを明確に悟っていた。


 まともに食らえば死ぬ。


 そう思わせるほどの凄まじい殺意であった。


 しかし、いくら待てどもフォレストの拳が最後まで振り下ろされる気配がない。


 それどころかフォレストはなぜか案山子のように佇んでいる。


 どのぐらいの時間が経過しただろう。


 疑問符を浮かばせていたシェンファの前にフォレストが倒れ込んだ。


 同時にシェンファの耳には聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。


「格下の相手だからと油断しているからこうなるんだ」


 その声を聞いた途端、辛うじて保たれていたシェンファの意識が静かに途切れた。

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