第三十三話  そして〈黒師子〉が生まれた

 フランベル皇国の最北端にはコンソルティエという海港都市がある。


 小さいながらも交易と漁業で繁栄を築き上げ、埠頭には海を介して近隣諸国からの荷物船が絶えず行き交う。


 また異国から輸入された交易品や新鮮な海産物が軒を連ね、荒っぽい船乗りたちによる喧騒が日常的に垣間見えた。


 だが、そんな喧騒とは無縁な場所もコンソルティエには存在する。


 それが港を見下ろせる丘の上に建てられていた木造建築式の一軒家だ。


 付け火に遭えば瞬く間に灰燼と化すだろう一軒家は二階建てであり、正面出入り口の扉横には薬草が描かれた看板が掛けられていた。


 無免許で医師の真似事をしていた理髪師と同様、医師の免許を持たない個人が開いていた診療所を示す看板である。


 そして一階全体を診察室に改築し、診察台の近くに設けられた棚には外科手術に使用する小刀や剃刀などが綺麗に仕舞われていた。


 肺炎や腸チフスなどで命を落とす人間が多かった中、血生臭い喧嘩沙汰が日常的に起こっていたコンサルティエでは圧倒的に外科手術の需要が高かったためだ。


 しかし、ここ一週間で診療所を訪れた患者は一人もいない。


「いいか? 私が教えた技術は自分ではなく他人のために役立てるのだぞ」


 その理由は明白だった。


 診察室に改築されていた一階とは異なり、家族の部屋が存在している二階の一室には今まさに死神に魅入られた人間がいたからだ。


 コシモ・メディチエール。


 無免許ながらも医術の腕が立つと評判だったコシモは、流行り病に侵されて死の危機に瀕していた。


 呼吸は不規則に行われ、毎夜の如く高い発熱が出る。食欲は衰え、日増しに死相は濃くなるばかり。


「約束しろ、レオ。私が教えた医術と武術は私利私欲のためではなく、か弱き者たちのために使うのだと」


 コシモは寝床に伏せったまま、自分を今まで看病してくれた孫に強く忠告した。


「ああ、誓うよ。お祖父さんから習った技術は他人のために使うよ」


 荒く呼吸を繰り返すコシモの手を握りつつ、今年で十五歳になるレオ・メディチエールは力強く頷いた。


 祖父のコシモが運営していた診療所に一人の患者も来なくなった理由は、コシモが流行り病に侵されたからだ。


 単純な風邪とは違う。


 二、三日で治まる発熱が数週間と延々に続き、薬草を加えた粥を食しても効果がまるでなかった。


 六十の半ばを過ぎたコシモの老体が、免疫力を低下させているということも熱が治まらない原因の一つだっただろう。


 多分、今夜が峠だな。


 痩せ衰えたコシモの手を握り返していたレオは、医者に必要な観察眼を持ってコシモの寿命を明確に悟っていた。


 コシモ自身も自分の命が今夜限りということを痛感しているに違いない。


 そうでなければ普段は寡黙だったコシモが何度も同じ言葉を繰り返すはずがなかった。


 老いと病。人間が神から与えられた制約が剛毅なコシモを一変させたのである。


 次の日、レオの見立て通りにコシモは永眠した。


 二十代にシン国へ渡り、医術と武術を会得したコシモ・メディチエール――六十三歳の秋であった。


 幼い頃に落馬事故で両親を亡くした自分を引き取り、十五歳まで医術と武術を叩き込んだコシモとの生活は決して楽なことではなかった。


 メディチエール家に保管されていた膨大な薬学の知識や異国で培った〈鍼灸〉などの画期的な医術はもちろんのこと、同じくメディチエール家に伝わっていた格闘術と異国で培った拳法を融合させた武術を徹底的に骨の髄まで仕込まれた。


 血反吐が出るほど苦しかったのは言うまでもない。


 同年代の子供が無邪気に外で遊んでいる最中、レオは鬼の形相を浮かべていたコシモに医術と武術の英才教育を施されていたのである。


 並みの子供ならば自暴自棄に陥って祖父を烈火の如く怨んだことだろう。


 しかし、レオはコシモを一片たりとも怨まなかった。


 確かに医術と武術の鍛練は生半可な厳しさではなかったものの、その厳しさの中には孫を早く一人前にしたいというコシモの深い愛情と願いが込められていたからだ。


 だからこそ、レオは同年代の子供たちとは違う少年時代を送る覚悟を決めた。


 早朝から夕方までは個室に篭って医術の勉強、そして日が落ちてから深夜に掛けては星空を明かりに中庭で武術の修練を行い続けた。


 やがてコシモから医術と武術の皆伝という称号を与えられた翌年の頃である。


 ついには唯一の肉親であったコシモも老衰のために亡くなり、レオは十五歳の若さで天涯孤独の身になってしまった。


 ただ当時のコンソルティエには異国から流れてきた難民たちが港の一部を占領しており、両親がいない子供など珍しくもなかった。


 中には十歳にも満たない年齢で日銭を稼ぐ少女娼婦もいたほどである。


 そんな彼らに比べたらレオの生活など天国に等しいものだった。


 心身ともに極限まで追い込まれる鍛練を課せられていたものの、衣・食・住には一切不自由しなかったからだ。


 そして千金に値する優れた技術を教えてくれたコシモを埋葬すると、次にレオが考えたことは身につけた技術をどう生かして生活するかだった。


 医術と武術は自分ではなく他人のために使え。


 コシモの言葉は心中深くに刻まれている。


 だが、天涯孤独となったレオにとって医術と武術は今まさに自分のために使わなければならないと悟った。


 十五歳だった当時では医者の真似事などでは金を稼げず、かといって仕立屋、帽子屋、靴屋、鍛冶屋、武具屋などでは雇って貰えなかった。


 店で働いていた徒弟と呼ばれる少年少女たちはいつか店の親方になるか自分で店を出すために技量を磨いており、五歳前後から親方と契約を交わして働いていたからだ。


 ならば店を継ぐ気もない少年を途中雇用する店が一つもなかったことは頷ける。


 また祖父のコシモが近所で評判の偏屈屋で取っていたことが拍車を掛けていたのだろう。


 そうなると取るべき行動は限られてくる。


 そうして働き場所に困ったレオは、医術と同時に叩き込まれた武術の技で食い繋ごうとある場所へと向かった。


 団体曲芸の興行場ではない。大金を賭けて白熱する格闘試合の興行場であった。


 一時は医者として看板を上げようとも考えたが、何の後ろ盾もない少年の医療行為に大金を支払おうなどという奇特な人間などまずいない。


 ならば医術の他に培った武術の腕前を駆使して金を稼ぐしか方法が思い浮かばなかった。


 だからこそ、レオは賭け試合で戦う闘士になることを決めた。


 フランベル皇国から五百年以上前に栄えた古代ローデリア帝国では、円形闘技場の中で二人の格闘士が雌雄を決するという見世物が大変好評だったという。


 また当時のコンソルティエにも円形闘技場が設けられており、格闘試合のみならず出し物を使った演劇も行われて大衆娯楽に華を咲かせていた。


 そこで格闘試合の興行主と契約を交わし、レオは正式な闘士となった。


 観客と対戦相手に馬鹿にされながらもレオは命を賭して闘った。


 骨の髄まで叩き込まれたシン国の武術を使用し、体格差に苦戦しつつも着実に勝ち星を挙げていった。


 そして勝利の数が十を超えた辺りだろうか。


 古狸のように肥太った興行主がレオに取引を持ち掛けてきた。


「次の試合は適当なところで負けてくれ」


 詳しく話を聞くと次の対戦相手は負けが込んでいる中年の拳闘士だという。


 つまり連勝街道驀進中のレオと中年の拳闘士の対戦が組まれると、ほとんどの観客は若くて実力がついてきたレオに大金を賭ける。


 そうして観客の予想通りにレオが勝つと胴元である興行主が多大な損を被るというのだ。


「それで自分にわざと負けろと?」


「そうだ。そうすれば取り分の三分の一を分けてやる。どうだ? 悪くない話だろ」


 このとき、世渡りが上手い人間ならば興行主の取引に応じただろう。


 それに闘士として日銭を稼ぐ以上、興行主に睨まれては出場停止処分を言い渡される恐れもあった。


 何よりも格闘試合の興行を務めている人間は裏の人間と通じていることが多く、大富豪の貴族や政治家などから暴力を生業にしている悪漢たちたちから命を狙われる恐れも無きにしろ有らずであった。


 だが只でさえコシモの言いつけに背いて自分のために武術を使用していたレオは、この興行主から持ち掛けられた取引をあっさりと断った。


 人付き合いが苦手だったコシモに似たのだろう。


 あまり仲のよい友人や知人を作らなかったレオには都市の裏事情を知る機会が乏しく、また勝利する度に技量が磨かれていく恍惚感に浸っていたのかもしれない。


「俺の命令に背くとどうなるか分かっているのか?」


 などと脅しとも取れる発言をした興行主を無視し、レオは二日後に開かれた中年の拳闘士との試合に応じた。


 結果は当然の如くレオの勝利。しかも一発も拳を貰わない完全試合だった。


 レオに金を賭けていた大多数の観客から拍手喝采の嵐が沸き起こった中、大損した興行主は自分との取引に応じなかったレオに制裁を加えることに決めた。


 そして制裁はその日のうちに決行された。


 完全試合を終えて自宅に向かう途中、興行主が差し向けた暴力の熟達者たちがレオを闇討ちしたのだ。


 総勢六名に闇討ちされたレオは、成す術もなく袋叩きにあった後に興行主の元へ連れて行かれた。


 街角に設けられていた安宿の一室である。


 そこには二人の人物が親しそうに葡萄酒を酌み交わしていた。


 一人は自分に闇討ちをするよう六人の男たちに命令した興行主なのは分かった。


「この子供が格闘試合で前人未到の十連勝を上げたレオ・メディチエールか?」


 興行主の対面に座っていた男は顔面を腫らしているレオを食い入るように見つめた。


 三十代と思しき灰色の髪の男である。


 醜く太った興行主とは違って異質な気配を漂わせていた不思議な男であった。


「名前通り〝獅子〟のようなよい面構えをしている。本当に手放してもよいのか?」


「ええ、一向に構いませんよ。私の命令に背く闘士など要りません。この餓鬼のせいで今日の興行は散々だったのですから」


 興行主は怒りを込めて鼻を鳴らした。


「でも、こんな餓鬼を欲しいとは計りかねますよ。聞くところによるとローレザンヌで司教を務めることになったのでしょう? ジョルジュ・ロゼ司教」


 ジョルジュ・ロゼ。


 修行に没頭していたせいで世俗に疎いレオだったが、ジョルジュ・ロゼという名前は何度も耳にしていた。


 曰く、清廉潔白で質実剛健。


 高貴な出自でクレスト教の布教に余念のない男だと。


 自分とは身分が違いすぎるジョルジュを前に呆然としていると、粗末な椅子に座っていたジョルジュは緩慢な動きで立ち上がった。


 二人の男に身体を拘束されているレオに床を噛み締めるように近づいてくる。


 やがてジョルジュは呆然とするレオの眼前で止まった。両膝を折ってレオと目線の高さを同じくする。


「その顔は自分に何が起こっているのか把握していないな。まあ、無理もない。子供には大人の事情など関係ないだろう。しかし、これだけは知っておきたまえ。このままでは君の命は今日限りだ」


 言葉を発せないレオにジョルジュは真剣な表情で言葉を紡いでいく。


「だが君のような若くて腕の立つ逸材を失うのは非常に惜しい。だからこそ、君のこれからの人生は君自身で決めたまえ」


 数拍後、ジョルジュの口から思いも寄らぬ言葉が発せられた。


「私にとって……いや、クレスト教にとっての薔薇にならないか?」

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