第十六話   異国の拳法少女・シェンファ ④

 この日ほどシェンファは、ケイリンの護衛役としてローレザンヌを訪れたことに幸せを感じたことはなかった。


 フランベル皇国内でも有名だったローレザンヌで開かれる名物行事に、叔父とともに参加することが出来たからだ。


 富裕層や市民層の人間など関係なく、周囲を見渡せば麦藁帽子を被った旅人や商品を詰め込んだ荷物を背負っている行商人などが大通りを忙しく行き交っている。


 天気は快晴。


 髪を撫でていく柔らかな微風が、ローレザンヌ全体から迸る熱気を都市の外へと緩やかに運んでいく。


 ローレザンヌで開かれた夏市最初日である。


 主要道路である大通りの両端には頑丈な木々で造られた露店が軒を並べ、チーズや卵、塩などの食料品から鍋や壺、修理された靴や革の水筒が売られていた。


 ロレンツォの話しではローレザンヌの夏市は有名で、行商人はもちろんのこと普段は野良仕事に精を出す農民も一時の快楽を求めて足を運んでくるという。


 ケイリンとともに大通りを歩いていたシェンファは、ロレンツォから聞かされた夏市の話を思い出しながら一人納得した。


 確かに夏市が開催されたローレザンヌには普段とは違う活気と熱気に溢れている。


 滞在してまだ二週間も経っていないシェンファにもそれが十二分に分かった。


 一番違うのは他人の視線だろうか。


 誰しもシェンファが着用していたシン国の衣服が珍しかったらしく、買い物や散歩の度にシェンファは常に奇異な視線に晒されていた。


 しかし、夏市が開催されたと同時にシェンファは奇異な視線を向けられなくなった。


 理由は簡単。


 シェンファよりも奇抜な衣服に身を包んだ異国人や大道芸人たちがローレザンヌに現れたからだ。


 特にシェンファの目を引いたのは、シン国では絶対に見られない駱駝という動物に跨っていたサラディン人の行商隊だった。


 黒髪の上から何枚も巻いた細長い布を被り、褐色の肌と綺麗に剃り整えられた口髭。


 着用していた衣服も袖が切られた外套に、奇妙な紋様が編み込まれた脚衣を穿いていた。


 ケイリンに彼らのことを尋ねると、サラディン人は昔から砂漠や険しい山脈を越えてフランベル皇国に足を踏み入れ、四季折々に皇国内で開かれる市に参加するらしい。


 そしてサラディン人が持ち込む商品は富裕層に人気があり、絨毯、香辛料、宝石、毛皮などが高額な値段で取引されている。


 ロレンツォの屋敷内に敷かれていた絨毯もサラディン人の行商人と取引して購入した代物だという。


 そのとき、シェンファはふと一週間以上前の出来事を思い出した。


 一週間ほど前、ロレンツォの屋敷に宿を借りた当日にその出来事は起こった。


 ローレザンヌでは有名な一匹狼の暗殺者――〈黒獅子〉がロレンツォの資産を狙って屋敷に内に侵入してきたのだ。


 あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。


 終課(午後九時)の鐘が鳴り終わってから一刻(約二時間)ほどが経過したとき、豪勢な食事が並べられた三階の大広間に女性の悲鳴が届いた。


 酒を嗜んでいたロレンツォとケイリンは悲鳴がどこから聞こえてきたのか分からなかったものの、套路を終えたばかりで神経が研ぎ澄まされていたシェンファには、悲鳴の発生源が同じ建物の一階だとすぐに看破できた。


 その後、シェンファはすぐに大広間を飛び出して一階へと向かった。


 ロレンツォから〈黒獅子〉の話を聞いたばかりで気が立っていたからかもしれない。


 すると、シェンファの予感はすぐに現実へと変わった。


 階段を駆け足で下りて一階の通路に辿り着くと、そこには召使いの女性を羽交い絞めにしていた黒装束の賊がいたのだ。


 シェンファはすぐに分かった。


 この男こそ〈黒獅子〉なる暗殺者に違いないと。


 だからこそシェンファは〈黒獅子〉を前にしても威風堂々な態度を崩さなかった。


 異国の暗殺者如き恐るるに足りない。


 シェンファは自分が血反吐を吐いて体得した〈煌虎拳〉に絶対的な自負を持っていた。


 本国でも数人の盗賊団相手に猛勇を奮ったシェンファである。


 高度な身体操作法を用いる武術を知らない異国の暗殺者など簡単に捕らえられる、と内心自惚れていた。


 それほどシェンファは自分の技に自信を持っていたのだ。


 ましてや相手は一人。


 三、四分の力でも十分に捕まえられると思っていた。


 だが実際に〈煌虎拳〉の技を持ってしても〈黒獅子〉を捕まえることは叶わなかった。


 そればかりか〈黒獅子〉は、シェンファの技を完全に見切って致命傷を避けたのだ。


 それだけではない。


 召使いの女性が呼んできた護衛たちを軽くあしらい、〈黒獅子〉は結果的に無傷のままロレンツォの屋敷から逃走したのである。


「ああ~もう、思い出せば思い出すほど腹が立つ! 一体全体何なのよ、あいつは!」


 突如、感極まったシェンファは震脚を用いての地団駄を踏んで叫んだ。


 シェンファの周囲にいた人々は一様に立ち止まり、異様な行動を取ったシェンファを食い入るように見つめた。


「おい、シェンファ! こんな通りの真ん中で馬鹿高い声を出すんじゃない!」


 一緒に夏市を見回っていたケイリンがシェンファを叱ると、何事かと視線を向けてきた人々に深々と頭を下げた。


 立ち止まった人々はシェンファが夏市特有の熱気に中てられたと思ったのだろう。


 すぐに足を動かして再び大通りの中に人の流れを作っていく。


「まったく、いきなり奇声を発してどうしたんだ?」


 そう尋ねてきたのはシェンファの腕を引っ張り、人の流れに左右されない路地に連れて行ったケイリンである。


「別に大したことじゃない。ただ、嫌なことを少しだけ思い出しただけです」


「だからってな……」


 ケイリンは呆れ果てるような表情を浮かべ、玉のような汗が浮かんでいた額をハンカチで拭う。


 小太りな体型をしていたケイリンにしてみれば、人混みに埋め尽くされている大通りを歩くだけで体力を著しく消耗するのだろう。


 先ほどから「ふう、ふう」という荒い呼吸音がシェンファの鼓膜に届いていた。


「もう、いいでしょう。こんな祭りの日にまで叔父さんの説教なんて聞きたくないわよ。これからは変な行動も取らないから安心して。ね?」


「本当だな? 自分の発言には責任を持てよ。男に二言はないぞ」


「ええ、もちろん……私は女だけどね」


 不毛な問答を何度か繰り返した後、シェンファは大通りを行き交う人々を見ながらケイリンに訊いた。


「それで、叔父さんが私を連れて行きたい場所ってどこなの?」


 そうである。


 夏市が開催された今日の早朝、シェンファはケイリンにローレザンヌのある場所に一緒に行こうと誘われた。


 何でも夏市など大きな行事の際にしか拝見することが出来ない珍しい代物を拝むことが出来るからだそうだ。


 絶えることない人混みを見つめつつ、シェンファはどこであろうとも珍しい代物が拝見できるではないかと思った。


 今日から開催されたローレザンヌ中を活気に包む夏市には、それこそ地元の人間でも楽しめる娯楽があちこちに点在していた。


 大勢の大道芸人たちが巨大な掘っ立て小屋の中で日頃から鍛えた芸を競う曲芸大会。


 教会や大聖堂で披露される、単調な詠唱によって聖歌を唱える単旋律聖歌隊の歌声。


 また芝居の存在も忘れてはならない。


 フランベル皇国にはクレスト教の聖史を芝居で表現する演劇が盛んであり、太鼓や笛の音に従って様々な仮面を被った道化師たちは舞台である教会などで自分の技芸を存分に揮った。


 だが夏市など異国の人間が多く訪れる行事の際には教会ではなく市場の大舞台などで演劇が行われ、大勢の人間たちが見物できるような配慮が成されていた。


 ただケイリンの話では市場の舞台を使用する演劇には、異教徒の人間に対してクレスト教の素晴らしさを余すことなく知って欲しいという教会側の意向も含まれているのだという。


 現に大通りを抜けた先には数百人が収容可能な広場があり、夏市二日目からはクレストの全生涯を演じるという一大聖史劇が開催されるという話だった。


 ともあれ、異国の祭りに初めて参加したシェンファは終始浮き足立っていた。


 どこで何を見物するにも珍しいこと請け合いだったからだ。


 しかも飲食店と宿屋を兼ねていた酒場では安いビールやワインが大量に振舞われ、夏市の見物に疲れた人々の腹と喉を余すことなく潤していると聞く。


 そのとき、シェンファははたと気づいた。


「まさか、真っ昼間から酒家で酒を飲むつもりじゃないでしょうね?」とシェンファが目眉を吊り上げて問うと、ケイリンは顎の肉を揺らして否定した。


「違う違う。幾ら何でも初日の昼間からは酒など飲まんよ。お前を連れて行きたい場所は別のところさ」


「ふ~ん、それで一体どこへ行く気?」


 建物の間に設けられた路地は日陰だったため、話し込んでいる最中にケイリンの汗も徐々に引いてきたようだ。


 額と顎の汗をすべて拭ったケイリンは、大量の汗で湿ったハンカチを仕舞いつつシェンファに言った。


「サン・ソルボンス大聖堂というところだ」

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