第十五話   レオ・メディチエールの表の顔 ⑨

「ねえ、レオ。時間があるのなら少し買い物に付き合ってくれない?」


 修道騎士団の宿舎を出るなり、レオは入り口付近に設けられている噴水の前でクラウディアに声をかけられた。


「どうしたの? 妙に疲れた顔をしてるけど」


「別に何でもないよ。ただ性質たちの悪い訓練に付き合っていただけさ」


「性質の悪い訓練?」


 小首を傾げたクラウディアにレオは「だから何でもないよ」と微笑を向けた。


「ところで何を買うんだい? 予備の包帯はまだ十分にあっただろう?」


「ううん、違うわよ。個人的な買い物に付き合って欲しいってこと」


 などと言うやり取りのあと、特に断る理由がなかったレオはクラウディアと一緒に市場へと足を運んだ。


 夏市の準備に追われている市場は、昼夜を問わず賑わいが収まることはない。


 一足早く出店している露店の棚には夕食の材料は無論のこと、木製の食器や旅行の必需品である革の水筒や革靴が並べられている。


 他にも籠に入れられた鶏や兎などの家畜や、パンの原材料になる小麦なども大量に売られていた。


 このように物資が市場に溢れているのも危険をともなう陸上運搬ではなく、安全な河川運搬に流通経路を切り替えたローレザンヌならではの特色だろう。


 中でもローレザンヌの市場には食料品や生活必需品とは別に、人々の心を癒す香料の原材料に使用される花なども多く揃っていた。


「わあ、本当に綺麗ね」


 大小無数の入道雲が浮かぶ青空の下、子供のように気分を高揚させていたクラウディアは一軒の店の棚に並べられた花に目を奪われた。


「薔薇の花か。最近は隣国からも様々に品種改良された良質な薔薇が、フランベル皇国に輸入されるようになったんだそうだ」


 朱色の薔薇を嬉しそうに手に取ったクラウディアにレオは微笑を浮かべる。


「一般的にはやはり朱色の薔薇が市民には人気かな。でも野生種の薔薇を入手するには些か骨が折れる。そこで近年では温室栽培を行う園芸家が多くなった。こうした露店で薔薇の花が買えるのも薔薇に魅了された園芸家のお陰だな……どうした?」


 レオは饒舌な喋りを止めると、呆然とするクラウディアに尋ねた。


「ご、ごめんなさい。貴方があまりにも薔薇に詳しいから驚いてしまって」


「単なる祖父からの受け売りさ。薔薇の花のみならず植物には医療効果が多いものがたくさんある。そして薔薇の花などは怪我や病気に効くというよりも香りが重要なんだ。古来より薔薇の花が多くの人間たちに親しまれたのも、見た目の美しさ以上に熟成されたワインのような芳香に魅了されたからだろうな」


「凄くよく分かるわ。私も色々な花の中でも薔薇の花が一番好き。だって薔薇の花って昔から高貴の象徴とされた花なんでしょう? 確か何百年も前に書かれた有名な詩人の詩に書いてあったもの。親しい人や目上の人の祝い事の際には、自分と相手を模した二輪の薔薇の花を贈る風習があったって」


「サジア・クレオノールだったか。薔薇の花を題材に多くの詩を作ったことで薔薇の女王とも呼ばれた女流詩人」


「そう、その人の本よ!」


 クラウディアは売り物の薔薇を手にしたまま破顔した。


「私ね、その作者の本を読んだときから決めていたの。いつか大切な人の祝い事の際には綺麗な薔薇の花を贈ろうって」


「それはジョルジュ司教のことか?」


「ええ、そうよ。今度、お父様は大司教に成られるのでしょう? その際、どんな代物を贈ろうかずっと悩んでた。最初は衣服とか装飾品とかを考えたのよ。でも、高価な贈り物よりも心に訴えかけるような代物を贈ろうって思い立ったの」


「だから薔薇の花を?」


 こくりとクラウディアは首肯した。


 いかにも心優しいクラウディアの考えそうなことだった。


 高価で派手な代物よりも限られた生命の尊さが感じられる花を贈る。


 俗人とは一線を画すジョルジュ・ロゼならば、愛娘の贈り物の意味をよく理解してくれるだろう。


(俺とは正反対な人間たちだな)


 薔薇を売っている露店の店主と語り合い始めたクラウディアを横目に、レオはふと自分自身が酷く不気味で卑しい人間だと悲しくなった。


 朱色以外の薔薇を選別しているクラウディアは夢にも思っていないだろう。


 こうして買い物に付き合っている人間が、十を超える異端者や悪党どもを暗殺してきた人殺しだと。


 そのとき、レオは初めてジョルジュと出会ったときのことを鮮明に思い出した。


 いや、厳密には最初に与えられた選択肢の内容をだ。


 ――私にとって……いや、クレスト教にとっての薔薇にならないか?


 十四、五歳だった当時はまったく意味不明な言葉だったものの、こうして医者と騎士を兼任している他に〈黒獅子〉という暗殺者として生きている今ならば分かる。


 人々を魅了する高貴な薔薇の〝花〟になれということではなく、外見の美しさだけに惑わされた愚か者に鋭い痛みを与える〝棘〟になれということだったことを。


「レオ、どうしたの? さっきから上の空のようだけど」


 凛としたクラウディアの声を聞いた途端、過去の記憶を蘇らせていたレオの意識は正常さを取り戻した。


「いや、少し夏市の警備のことを考えていただけだ」


 軽く笑いながら話を誤魔化したレオは、首を傾げるクラウディアの手に薔薇の切り花が握られていることに気がついた。


「どうやら色が決まったようだな……ああ、まさに紅玉石のように綺麗な朱色だ」


 クラウディアの購入した薔薇の色は一般的な朱色だった。


 だが、赤の他人にではない肉親に薔薇の花を贈るのならば、奇を狙った色の薔薇を贈るよりも一般的に人気な朱色を贈った方が贈られる人間も喜ぶに違いない。


「きっとジョルジュ司教も喜ばれる」


 そう嘘偽りのない本音を口に出したときだった。


「はい、レオ。一本は貴方にあげるわね」


「え?」


 これにはレオも面食らったが、よく見るとクラウディアが購入した薔薇の切り花は二本だった。


 ジョルジュ一人に贈るのならば二本もいらない。


 レオは困惑しながらも薔薇の切り花を受け取った。


 とげに刺さらないよう茎の部分には厚紙が巻かれている。


「今日の買い物に付き合ってくれたお礼よ」


 一拍の間を置いた後、レオは要領を得ないという顔で言った。


「付き合ったといっても特別に何かをしたわけではないが」


「いいのよ。これは贈る側の気持ちなんだから素直に受け取ってちょうだい」


 頬を赤らめながら言ったクラウディアは、「さあ、他にも色々と見たい物があるから行きましょう」と薔薇の花を売っていた露店から離れていく。


(棘が隠された薔薇の切り花……か。こうなっては〈黒獅子〉もお終いだな)


 ふっとレオは苦笑した。


 自分はクレスト教という花を守るために存在する棘。


 ならば棘である自分が封じられた薔薇の花はどうなってしまうのだろう。


 決まっている。


 棘がない薔薇などは他の花たちと同様に簡単に手折られてしまう。


 クレスト教に当てはめれば、異教徒や異端者などの悪党どもに侵略されるということだ。


 それだけは何としでも阻止しなくてはならない。


 直後、レオは茎に巻かれていた厚紙を反対の手で破り捨てた。


 それだけではない。


 レオはわざわざ棘を避けずに茎の部分を鷲摑みにしたのだ。


 掌に何箇所もの鋭い痛みが走る。


 その痛みに平行して棘が刺さった部分から糸のような血が滴り流れていく。


 これだ。


 この痛みこそ〝棘〟の役目を与えられた自分の存在価値なんだ。


「兄ちゃん……一体、何をしているんだ?」


「別に何でもありませんよ。では」


 奇妙な行動に声をかけてきた露店の店主に首を振ると、レオは先に行ったクラウディアに追いつこうと足早に歩き始める。


 大勢の観光客を迎え入れる、夏市を三日後に控えた午後の出来事であった。

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