第二十話   レオ・メディチエールの表の顔 ⑪

「医者だって? 騎士の間違いじゃないのか?」


 レオはケイリンの問いに曖昧な答えると、取り敢えずシェンファの容態を診察した。


 苦痛に喘ぐシェンファの腹部を擦り、骨や内臓器官に異常はないか探っていく。


 医者として診察したレオの見立てでは、シェンファは内臓器官に損傷はないものの中度の打撲傷を患っていると判断した。


 おそらく、呼吸を吸ったときに打撃を食らったことが原因だろう。


 人間は鍛練により肉体を鋼の如く強靭に変化させることが可能だ。


 しかし普通の人間でも呼吸を意図的に止め、肉体を締めることで一時的だが堅牢にすることが出来る。


 それでも人間の肉体ほど不自由な代物はない。


 たとえ尋常ならざる鍛練により肉体を鍛え込んだとしても、息を吸い込むときには必ず人間の肉体は弛緩する。


 つまり、常人だろうと超人だろうと人体に刻まれた防衛本能を付かれた場合には同じ境遇に陥ってしまうということだ。


「なあ、シェンファは大丈夫なのか? まさか死んでしまうなんてことは……」


 最初こそ奇異な視線を向けてきたケイリンだったが、正確丁寧な診察を見ているうちにレオを本物の医者だと確信したのだろう。


 今ではレオの肩を揺さぶってシェンファの容態をしきりに訊いてきた。


「そんなに心配することはありません。手応えからして骨にも内臓にも異常は見られませんでした。ですが彼我との重量差が仇となったのでしょう。筋肉に打撲傷が見られます」


「ということは命に危険はないのですね?」


「ええ、それは保証できます。しかし念のために一刻も早い治療を行った方が――」


 と、レオがケイリンに今後の処置を説明しようとしたときだった。


「先生、危ない!」


 ケイリンは突然立ち上がるなり、レオの身体を両手で押して吹き飛ばした。


 まったく警戒していなかった相手に吹き飛ばされたレオは、受身を取ることも忘れて背中から床に落ちる。


 わけが分からなかった。


 シェンファを診察したことに感謝されこそすれ、身体を押し飛ばされる謂れはないはずだ。


 それでも実際に身体を押し飛ばされたことには違いない。


 レオは瞬時に両足を別々に旋回させて立ち上がった。


 背中を打っても後頭部さえ打っていなかったら人体に目立った支障は出ない。


 医者であるレオはそう判断したからこそ背中に走る痛みを堪えて立ち上がったのだ。


 またレオにはすぐにでも立ち上がらなくてはならない理由があった。


「またしても余計な邪魔が入ったか」


 ランフランコである。


 先ほど戦闘不能にしたと思っていたランフランコだったが、シェンファを診察していた隙に意識を取り戻したのだろう。


 その後、ランフランコは気配を殺してレオの後方に近づいた。


 そして自分の攻撃が届くと確信した刹那、一撃でレオを戦闘不能に陥らせる攻撃を放ってきた。


 全体重を乗せた前蹴りである。


 ランフランコほどの重量を持った巨漢から繰り出される前蹴りの威力など想像したくない。


 まともに食らえば打撲どころか内臓に著しい損傷を受けることは火を見るよりも明らかだったからだ。


 だが、ランフランコの前蹴りをまともに受けてしまった男がいた。


 レオを咄嗟に突き飛ばしたケイリンである。


 ケイリンに身体を突き飛ばされたとき、レオは緩やかに流れる時間の中ではっきりとケイリンがランフランコの前蹴りを腹部に食らう光景を目撃していた。


 当然、緩やかに流れる時間とはレオが錯覚した体感時間の話だ。


 実際には瞬きをするかしないかの僅かな時間で、ランフランコの前蹴りをまともに食らってケイリンは後方に吹き飛ばされた。


 そのままケイリンは蹲っていたシェンファの頭上を通過し、木製の主祭壇の一部に激しく直撃した。


 レオは主祭壇まで吹き飛ばされたケイリンを見た。


 直撃した衝撃で木っ端と化した主祭壇の一部に埋もれていたケイリンは、うつ伏せの状態でぴくりとも動いていない。


「貴様……一般人にまで手を出すとは恥を知れ!」


 身を挺して守ってくれたケイリンから視線を外すなり、レオは手の甲で顔面の血を拭っていたランフランコに向かって高らかに吼える。


「馬鹿が、そもそも俺の邪魔をしたお前らが悪い。それに異国人がどうなろうと知ったことかよ」


 ランフランコは開いた左手の掌に固めた右の拳を強く叩き込んだ。


「ましてや俺には果たさねばならぬ仕事が残っている。いつまでもお前らに構っている暇はない。それ故に邪魔者は誰であろうと容赦はせん」


 レオはランフランコから迸る狂気に中てられ、亜麻色の髪の毛が総毛立つほどの底知れぬ不快感を抱いた。


 ランフランコは単なる暗殺者ではない。


 それは同じ裏家業に身を染めていたレオの率直な意見だった。


 もしもランフランコが金で雇われた暗殺者ならば、肝心のジョルジュを見失ったときに暗殺不可能と判断して自分も逃走しているはずである。


 暗殺者は形式を重んじる戦士とは根本的に思考が異なる生物だ。


 仕事を完遂するためには恥を忍んで逃走し、より計画と時間を掛けて次の機会を待つと聞く。


 レオ自身も〈黒獅子〉と名乗って暗殺に身を染めている一人である。


 だからこそ、ランフランコの心情は全部とはいかないが分かっているつもりだった。


 にもかかわらず、ランフランコは逃走するなど微塵も考えていない。


 このまま無駄に時間が経過すれば、修道騎士団によって大聖堂を包囲される危険性も孕んでいるのにだ。


「邪魔者がたとえ女子供だろうとな!」


 ランフランコは右手の拳を手刀の形に変化させていく。


 親指以外を重ねるように突き立てた手刀の拳形は、鋭利な長剣というよりも大地を開拓する鉞か斧を彷彿させた。


 まさか、とレオは思った。


 ケイリンを排除した今、ランフランコは次に排除する人間をすでに決定していた。


 シェンファである。


 ランフランコはすぐ傍で蹲っていたシェンファに〝とどめ〟を刺すつもりだった。


 おそらく、狙いは剥き出しだった延髄だろう。


 この場所に強い衝撃を受ければ脊髄のみならず、脳に損傷を受ける可能性が高い最も危険な部位の一つだ。


「亜麻色髪の小僧! お前を屠るのはまず異国の小娘を屠った後だ!」


 そう巨声を上げたランフランコは、シェンファの剥き出しだった延髄部分目掛けて手刀に変化させた右手を振り下ろした。


(まともに食らえば死ぬ!)


 延髄部分に手刀を振り下ろされ、頚椎を折られたシェンファの惨たらしい姿がレオの脳裏を過ぎった。


 だが、ランフランコの手刀は虚しく空を切った。


 手刀が延髄に叩き込まれる寸前、蹲っていたシェンファの姿が掻き消えたのだ。


 必殺の一撃が空を切った瞬間、ランフランコは自分の両目を疑ったことだろう。


 それこそシェンファの身体が霧散したような錯覚を覚えたに違いない。


 ただ傍目からランフランコとシェンファの姿を見ていたレオには分かっていた。


 シェンファはその場から掻き消えたのではなく、人間の反射神経を凌駕するほどの速度で別の場所に移動したことにである。


「どこを見ているの? 私はここよ」


 ランフランコの背後を取ったシェンファは低い声で言った。


 憤慨、憤怒、赫怒、などの様々な怒りの感情を言葉に込めて。


「う、後ろか!」


 背後にシェンファがいると気がついたランフランコは、身体ごと振り返ると同時に裏拳を繰り出した。


 ただ振り返るのではなく、一緒に攻撃を放つところはやはり常人とは根本的に思考が違っている。


 それでもシェンファにしてみれば、裏拳など取るに足りない不意打ちだった。


「よくも叔父さんを酷い目に遭わせてくれたわね!」


 真横から暴風を伴って放たれた裏拳をシェンファは上体を屈めることで避けると、シェンファは間髪を入れずに鞭のようにしならせた左手の甲でランフランコの顔面を叩いた。


 拍手を打ったような甲高い音が響き、粉砕された鼻骨を再び強打されたことでランフランコは顔面を歪めて苦悶の表情を浮かべた。


 しかし、左手の攻撃は次の攻撃に繋げるための軽撃に過ぎなかった。


 裂帛の気合からシェンファはランフランコに向かって本撃を繰り出した。


 鋭い踏み込みから腰を一気に捻転させ、緩く固めた右拳をランフランコの心臓目掛けて突き放ったのである。

 レオは余すことなくシェンファの攻撃を垣間見ていた。


 右拳がランフランコの心臓部位に直撃した瞬間、シェンファの両足から発生した気が右拳に螺旋を描いて収束していく姿を。


「がはッ!」


 心臓に右拳を打ち込まれたランフランコは口内から大量の鮮血を噴出させた。


 中には鼻血も混じっていただろうが、それでも吐き出されたどす黒い血は間違いなく体内からこみ上げてきた血だったに違いない。


 やがてランフランコは前のめりに激しく倒れ込んだ。


 そのため床に溜まっていた埃が大量に空中に舞い上がる。


「大丈夫か?」


 緩慢とした足取りでシェンファに近寄ったレオは、荒く呼吸をしているシェンファに心配そうに尋ねた。


 シェンファはゆっくりと顔をレオに向けた。


 互いの視線が交錯したとき、レオはシェンファの両目が微妙に虚ろだったことに気がつく。


「大丈夫……伊達に日頃から鍛えて……ない」


 そう言った直後、シェンファは精も根も尽き果てたのか膝から崩れ落ちた。


 レオは慌ててシェンファの身体を受け止める。


 こうして大聖堂内で起こったジョルジュの暗殺事件は未然に防がれたものの、シェンファの安否を気遣っていたレオは夢にも思わなかった。


 同時刻、市場に設けられた大舞台の近辺で黒地の外套を羽織った男たちにクラウディアが連れ攫われたという事実を。

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