第十九話   レオ・メディチエールの表の顔 ⑩

 レオは目の前に広がっていた光景に唖然となった。


 大海原を想起させる幻想的な色彩が広がっていた大聖堂内に、本物の海を隔てた先に存在する異国の格好に身を包んだ女性がいた。


 見知った顔である。


 艶やかな黒色の長髪をうなじの辺りで一房に束ね、アオ・ザイと呼ばれるシン国の女性用衣服を着用していた武術の達人。


 以前、ロレンツォの屋敷で相対したリ・シェンファに間違いなかった。


 修道士の格好でジョルジュの後方に控えていたレオは、黒い外套を羽織った三人の人間を瞬く間に倒したシェンファの力量に改めて驚嘆した。


 まさに動敵必殺。


 やはりロレンツォの屋敷で垣間見た実力は本物だったらしい。


 だが、ジョルジュの護衛を務めていたレオは心中で首を傾げた。


 黒外套たちがジョルジュの生命を狙った暗殺者だったことは間違いない。


 説法を聞きにきた訪問者たちの中で、黒外套たちだけが異様な殺気を迸らせていたからだ。


 ただ、レオはシェンファの行動を不可解に感じた。


 なぜ、異国の人間であるシェンファが暗殺者たちを倒して退けたのか。


 異国の神を信じるシェンファにしてみれば、ジョルジュを助ける道理など微塵もないはずだ。


 そもそも今日は夏市最初日である。


 観光のためにローレザンヌに訪れた異国の人間たちは、大聖堂ではなく露店を見て回るはずだ。


 普通の観光客ならば絶対にそうする。


 間違っても三人の暗殺者たちを瞬く間に倒すような真似はしないはずだ。


 しかし、と冷静を取り戻したレオは思った。


(まさかこんな不測な事態が起こるとはな)


 レオは混乱の坩堝と化した大聖堂内の様子を主祭壇の上から眺めた。


 事の発端は一週間前のことである。


 司教兼サン・ソルボンス修道院長だったジョルジュは、日曜日の説法会ではなく夏市の最初日に大司教へと出世した旨を発表するとした。


 ローレザンヌを牛耳っていると言っても過言ではないジョルジュである。


 司教から大司教へと出世したことを世間が知れば、確実にジョルジュの名声は確固たるものとなる。


 それこそジョルジュの一声で富豪たちは、修道院の保全費や大聖堂の改装費を惜しげもなく資産から捻出することだろう。


 無論、何の障害もなくジョルジュが大司教に出世したことを知ら示ればの話だ。


 異国の人間も多数ローレザンヌに訪れる夏市には危険が満ち溢れている。


 只でさえクレスト教には敵が多い。


 近年でも教皇庁に務める司教の一人が、ミサの最中に邪教徒に生命を狙われるという事件が起こっていた。


 ならばジョルジュに邪教徒の被害が及ぶ可能性は零ではないだろう。


 たとえ修道騎士団が厳重な警戒態勢を敷いたとしても、武器を持たず一般人の格好で都市を訪れる暗殺者を食い止めることは容易なことではない。


 だからこそ、ジョルジュは〈黒獅子〉であるレオに指示を与えていた。


 大司教に出世すると報告する当日の護衛をである。


 そしてジョルジュが報告する場所は、サン・ソルボンス修道院内に設けられたソルボンス大聖堂――そう、ここであった。


「レオ、レオ・メディチエール!」


 シェンファと巨漢の動向を見つめていたレオに、一世一代の大舞台を台無しにされたジョルジュが怒鳴った。


 レオはこめかみに青筋を浮かべていたジョルジュに向き直る。


「レオ・メディチエール。大司教ジョルジュ・ロゼが命じる。私の生命を狙った暗殺者たちを一人残らず拿捕せよ。激しく抵抗するのならば殺しても構わん」


「ですがジョルジュ様。神聖な大聖堂内で殺人を犯すのは……」


「黙れ。主の御子である私の晴れ舞台を邪魔されたのだぞ。たとえ大聖堂内で邪教徒を縊り殺したところで主は寛大な御心で赦してくださる。それともお前は私の命令が聞けぬと言うのか? 恩人であるこのジョルジュ・ロゼの命令を」


 怒りのあまりジョルジュの呼吸は荒く吐かれ、左手に握っていた権力の象徴とも呼べる司教杖を今にも握り潰す勢いが感じられた。


 無理もない。


 出世した旨を口上で述べるのと街中の立て札に書くのでは、市民の関心がまるで違ってくる。


 そもそも立て札に書く内容は犯罪を起こした人間の詳細と決まっていた。


 逆に大勢の人間の前で威風堂々と出世の口上を述べた場合、やはりこの人物は何も隠し事をしていない高徳な人間だと感心するのがフランベル皇国に住まう人間の特徴である。


 ならばジョルジュが心底憤慨するのは当然だ。


 さすがに殺せとは聖職者にあるまじき暴言だったものの、暗殺者を拿捕しろという部分だけは大いに共感できた。


「承知しました。暗殺者は一人残らず拿捕致しますので、ジョルジュ様は早く大聖堂からお逃げください」


「うむ、頼んだぞ……だが、くれぐれも絶対に逃がしてはならん。ただの一人もだ」


 殺しを渋るレオに釘を刺したジョルジュは、他の修道騎士団員に身を守られながら主祭壇を降りていく。


 レオは主祭壇の近くに設けられた出入り口に消えていくジョルジュを見送ると、一撃で戦闘不能に陥ったシェンファに注目した。


 よほど強烈な打撃だったのだろう。


 シェンファは腹部を両手で押さえて小刻みに身体を震わせている。


 遠目からでも口内から大量の唾液を垂れ流している姿が見えた。


 一方、シェンファに痛手を与えた修道士は外套を脱いで素顔を晒していた。


 短く刈り込んだ茶色の短髪。


 一部の贅肉もない引き締まった巨躯。


 角張った相貌には普通の生活を営む人間には無縁な裂傷が刻まれていた。


 刀傷である。


 山間部に生息する巨熊を彷彿させる、三十代半ばと思しき年齢の大男は隻眼だった。


 過去に傭兵だった経緯でもあるのだろうか。


 厚手の生地で作られた焦茶色の上着と脚衣を着用しており、本革製のベルトを巻いている姿は如何にも動き易そうな出で立ちだ。


 重い甲冑を着込んで必要以上に自分の存在を誇示する素人傭兵とは雰囲気がまるで違う。


 また背丈の高さや身体の大きさも常人の域を遥かに逸脱している。


 衣服の上からでも逞しい胸板が盛り上がり、太股の厚さなどは一般女性の胴体ほどもあった。


 ランフランコである。


「何だ貴様は?」


 シェンファに不意の一撃を浴びせたランフランコは、颯爽と自分の前に現れたレオを睨み付けた。


「異国の小娘の次は修道騎士か」


 ランフランコは小さく舌打ちすると、ずいっと一歩前に踏み出した。


 頭一つ分は高いランフランコに見下ろされると言い知れぬ迫力を感じる。


「小僧、一度しか忠告しないからよく聞け。大人しく退くなら生命だけは保障してやる。俺たちの目的はあくまでもジョルジュ・ロゼだからな」


 やはり、この者たちの目的はジョルジュの暗殺だった。


 滅多なことでは姿を見せない司教を暗殺するため、わざわざ説法会の日を選んで実行に移したのだろう。


 しかも恒例である日曜日の説法会ではなく、異国の人間も参加する夏市の説法会を選んだのである。


 これはランフランコたちに暗殺を依頼した人間が、相当にジョルジュに恨みを抱いていることが窺い知れた。


 そして、暗殺者が赤の他人に自分の目的を話すということは……。


「あんたの言い分はよく理解した。ジョルジュ・ロゼの命が狙いと言うのならば」 


 レオは一度だけ頷くなり、羽織っていた修道服の一部をつかんだ。


「私は貴様に敵対する!」


 次の瞬間、レオは羽織っていた外套を瞬時に脱ぎ捨てた。


 それだけではない。


 外套を脱ぎ捨てたレオは、腰に吊るしていた鞘に納まったままの長剣をランフランコ目掛けて投げ放ったのだ。


 目晦めくらましであった。


 ランフランコとは背丈も体格も違うレオにしてみれば、敵対すると覚悟したからには何をしても先手を取りたい。


 そう判断したからこそ、レオは相手の視界を封じるために腰から鞘ごと抜いた長剣をランフランコに向かって投げたのである。


 絶大な効果は望めない。


 時間を稼げとしても数回の瞬きをする程度だったことだろう。


 だが、その程度の時間でもランフランコの意識を妨げられるならば御の字だった。


「小癪な真似を!」


 ランフランコは眼前に投げられた長剣を右腕で薙ぎ払った。


 巨木の如き腕で薙ぎ払われた長剣は、何の抵抗も見せずに地面に叩き落される。


 数回の瞬きをする程度の僅かな時間を見事に稼げたレオは、すかさず全精力を振り絞って先手を取った。


 前蹴りのような直線的な蹴りではない。


 二つの睾丸を一気に叩き潰せるような真下から跳ね上げる蹴りを放ったのだ。


 速度、角度、間合い、ともに申し分なかった。


 格闘技術に疎い常人ならば確実に睾丸を蹴り潰せたはずだ。


 しかし――。


「ぬうッ!」


 ランフランコは真下から跳ね上がってきた金的蹴りを回避した。


 左膝を内側に畳むことで脛の部位で蹴りを受け止めたのだ。


 さすがは暗殺者である。


 ローレザンヌは基本的に外部から武器を持ち込めないため、依頼人は体術に優れた暗殺者たちを厳選して送り込んだに違いない。


 それは不意の金的蹴りを咄嗟に防御したことが何よりの証だった。


 眼前のランフランコは力押しが得意そうな体格と違って、繊細で高度な格闘技術を修得しているとレオは読んだ。


(初手は完璧に防がれたか……ならば)


 金的蹴りを防がれたレオは瞬時に意識を切り替えた。


 今度は相手の視界となっていた左側面に回りこみ、相手の膝裏目掛けて下段蹴りを放つ。


 体重が乗せられた左の下段蹴りが決まった瞬間、ランフランコは苦痛に顔を歪めて大きく平衡を崩した。


 また咄嗟に平衡を保とうとして片腕を床に付ける。


 このとき、レオの双眸に闘志の炎が揺らめいた。


 今こそ相手を倒せる絶好の好機と察したのである。


 間髪を入れずレオは蹴り足を引いたと同時に今度は右足を跳ね上げた。


 虚空に半円の軌道を描いて放たれた蹴りは、無防備だったランフランコの顔面に直撃。


 鼻骨を粉砕する鈍い音が響き、ランフランコの両鼻からは鮮血が噴出する。


 固唾を飲むほど華麗に決まった上段廻し蹴り。


 体格差など関係なかった。


 どんな屈強な肉体の持ち主であろうとも、鍛えようのない顔面に熟練者の蹴りを食らえば無事では済まない。


 現にレオの上段廻し蹴りをまともに食らったランフランコは、片膝を付いた状態から後方にどうと倒れた。


 まるで急所である眉間に弩の矢を受けた巨熊のように。


「言動や体格とは裏腹に意外と呆気なかったな」


 顔面に赤い花を咲かせているランフランコを一瞥すると、レオは視線を外して周囲を見渡した。


 大聖堂の中には疎らだが人が残っていた。


 それでも粗方の人間はランフランコの言葉で一目散に避難したのだろう。


 数百人の人間でごった返していた大聖堂だったが、今では足の遅い子供を抱えた母親や老人しかいなかった。


「いや、肝心な人間を忘れていたな」


 ざっと大聖堂内を見渡した後、レオは腹部を押さえて蹲っていた少女の元へ向かった。


 言わずもがな、三人の暗殺者を倒してくれたシェンファである。


「大丈夫か? どこが痛む?」


 レオは脂汗を滲ませていたシェンファに優しく声をかけた。


「あ、貴方は一体?」


 シェンファの傍には安否を気遣っていたケイリンがおり、声をかけてきたレオに不審と恐怖を含んだ眼差しを向ける。


「必要以上に恐れなくてもいい。私は歴とした医者だ。安心して診させてくれ」

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