第二十四話 レオ・メディチエールの裏の顔 ⑤
ローレザンヌの南東に位置する旧市街は、現在では税金も支払えず選挙にも参加出来ない貧民層の拠り所となっていた。
またローレザンヌの治安を任されているソルボンス修道騎士団の巡回区域外ということもあり、人知れずローレザンヌに流れてきた犯罪者たちの隠れ家と化すことは必然だったのかも知れない。
資金繰りを理由に建設途中で放棄された石造建築の建物が軒を連ね、昼夜問わず暗闇に支配されている路地からは糞尿や埃などの悪臭が漂っていた。
人間の死体が転がっているなど日常茶飯事。
ローレザンヌの市街から盗んできた盗品を扱う闇市が定期的に開かれ、扱う品物は宝石から食物までと幅が広い。中には人間を取り扱う奴隷市場まで開かれる場合があった。
ローレザンヌの貧民街。
誰が最初に名付けたのかは不明である。
おそらく貧民層の人間たちが住んでいるから貧民街という安直な名前が広がったのだろう。
どちらにせよ、常識を持った一般市民ならば貧民街には絶対に近寄らない。
特に金品を携えた貴族や商人などは要注意である。
以前にもローレザンヌに別宅を建てようとした一人の商人が被害を被った。
その商人は土地代が掛からないという理由だけで貧民街に目を付け、建築ギルドから止めておけと忠告されていたにもかかわらず貧民街の土地を物色し始めたのである。
当然、この商人は数日後に身包みを剥がされた状態で発見された。貧民街と市街を挟むテムズ川に溺死体となって浮かんでいたのである。もちろん引き連れていた共の連中も商人と同様の運命を辿った。
そういう経緯が過去に幾度も起こったため、いつしか市街と貧民街は互いに干渉せずという不文律が出来上がっていた。
市街の連中が必要以上に貧民街に干渉しなければ、逆に貧民街の人間も必要以上に市街に干渉しないことが暗黙の了解となったのである。
ただし、これはあくまでも表向きの事柄であったことは言うまでもない。
貧民街の一角に点在する、雑草が荒れ放題だった廃修道院からほど近い場所には周囲を明るく照らす光源が存在していた。
薪木を重ね合わせた篝火の光である。
盛大に焚かれていた篝火からは炎粉が舞い上がり、悪臭と異臭が入り混じる微風に流されて漆黒の虚空に消えていく。
そんな篝火の周辺には粗末な衣服を着用した男たちがいた。
三十代から四十代と思しき浮浪者たちである。
日々の食事にも困っているため、太っている人間は一人もいない。
伸ばし放題の不精髭にげっそりと頬が痩せこけている。
だが全員の双眸には身体とは違って力強い精力的な輝きが宿っていた。
貧民街の住民特有の眼光である。
激しい空腹を満たすためならば、人間の一人や二人ぐらい平気で殺せると豪語するような瞳の輝きだった。
無論、決して比喩的表現ではない。
現に十人の浮浪者たちの手には刀身の身幅が広い短剣を握り締めていた。
先端に向かうほど切っ先が細くなり、傍目からすると三角形の形状に見える短剣だ。
「余所者のくせに俺たちを舐めるんじゃねえ!」
そんな殺傷能力の高い短剣をチラつかせながら、浮浪者たちは篝火の手前に佇んでいた二人の男に怒声を浴びせた。
茶髪と金髪の黒外套を羽織っていた男たちだ。
年齢も二十代半ばから後半ほどと若く、毎日食事を取っているためか血色や肌の照り具合がよい。
髪も定期的に櫛を入れているのだろう。
蚤の巣だった浮浪者の髪と違って清潔感に満ち溢れていた。髭なども綺麗に剃られている。
「今すぐ出て行くなら生命だけは助けてやらぁ!」
「そうだそうだ! てめえら一体何様のつもりだ!」
一人が声高々に恫喝すると、他の浮浪者たちも次々に同意して怒りを露にした。
無理もない。
浮浪者たちの寝床だった廃修道院を乗っ取り、その際に多くの仲間を無残に殺したのだ。
寝食を共にして日々を懸命に生きていた浮浪者たちにしてみれば、突如現れた黒外套たちは卑劣な征服者以外の何者でもなかった。
だからこそ、浮浪者たちは人数と武器を揃えて舞い戻ってきた。
これは圧倒的な武力を備えていた黒外套たちに対抗するために他ならない。
ただ怒気と殺気を迸らせていた浮浪者たちとは違い、二人の黒外套たちは特に動揺することもなく互いに顔を見合わせた。
「なあ、アスラ。こんなときはどうすればいいんだ?」
茶髪の男が首を傾げながら唇を動かす。
「んなもん決まってんだろ、ドナテラ。全員返り討ちにすればいいのさ」
金髪の男が当たり前だと言わんばかりに何度も首を縦に振る。
「そうか、返り討ちにすればいいのか」
ドナテラは殺気立つ浮浪者たちを見渡した。
「そうだ。返り討ちだ」
またアスラも咄嗟に身構えた浮浪者たちを睥睨したときである。
「上等だッ! てめえら二人とも簀巻きにしてテムズ川に放り込んでやらぁ!」
十人の浮浪者たちは一斉にアスラとドナテラに襲い掛かった。
小規模ではあったが戦場の効果音とも言うべき鬨の声が轟く。
十対二。
しかも十人の方は武器を持ち、二人の方は徒手空拳である。
普通に考えれば素手である二人――アスラとドナテラに勝ち目など微塵もない。
しかし、アスラとドナテラの力量は遥かに常人を逸脱していた。
「左手側の五人は俺に任せろ。その代わり右手側の五人は頼むぞ、ドナテラ」
金髪のアスラはそうドナテラに告げると、嬉々とした表情を浮かべて疾駆した。
アスラは両拳のみで闘う闘技――拳闘術の使い手である。
華麗な運足を駆使して標的の懐に瞬時に潜り込み、極限まで鍛えた拳骨で標的の急所に拳を打ち込んでいく殺戮者だ。
街中の喧嘩で身に付けた素人臭い技術ではなく、本職の拳闘士に師事したのだろう。
技術が伴わない浮浪者の短剣など掠りもせず、あっという間に自分の担当分であった五人の浮浪者を倒してしまった。
「楽勝楽勝」
最後に倒した浮浪者の腹に蹴りを入れてとどめを刺したアスラは、陽気に鼻歌を歌いつつ相方の方へと顔を向けた。
「いぎゃあああああ――ッ!」
顔を向けた瞬間、アスラの視界にはドナテラの技を受けて悲鳴を上げる痛ましい浮浪者の姿が映った。
ドナテラは手技のみではなく、足技や関節技までも網羅する格闘士である。
中でもドナテラは関節技を主体にしており、一対一となった場合には高確率で標的を関節技で壊す。
今もそうである。
ドナテラは禿頭の浮浪者の腕を捻り上げるなり、屠殺場の家畜に向けられるような無表情で容赦なく肩を外したのだ。
「ぎゃあぎゃあわめくな」
肩を外された激痛に悲鳴を上げた禿頭の浮浪者に対して、ドナテラは「うるさい」という理由だけで顔面に膝蹴りを見舞った。
絶妙な角度で膝頭が顔面に突き刺さり、禿頭の浮浪者は両鼻から鮮血を噴出させて地面に崩れ落ちる。
禿頭の浮浪者は五人目の被害者だった。
ドナテラもアスラ同様に四人目までは手技や足技を駆使して瞬殺したのだろう。
金的や顔面を押さえて苦悶の声を上げている浮浪者たちが地面に横たわっていた。
「思ったほど呆気なかったな。まあ、浮浪者相手ならこんなもんだろう」
快活に笑ったアスラにドナテラは吐息混じりに言う。
「だが油断は禁物だ。素人でも武器を持てば一人前の兵士となり得る」
アスラはふん、と鼻で笑った。
「一度も戦場に立ったことがない野郎が口にしても説得力はねえな」
「それはお前も一緒だろう、アスラ」
「まあな。だが〈戦乱の薔薇団〉で戦場に立ったことがある人間なんて、首領補佐だったランフランコさんぐらいのものだろう。他の団員は奴隷市場か賭け闘技でストラニアスさんに引き抜かれた連中ばかりだしな」
「それもそうだな」
アスラの言葉にドナテラは初めて感慨深い渋面を作った。
最強と恐れられた戦闘集団の噂は、十七歳まで公式の拳闘試合で日銭を稼いでいたアスラもよく聞き及んでいた。
〈戦乱の薔薇団〉。
同業者たちの間では半ば伝説と化していた戦闘集団の通称である。
もちろん、この名前が正式名称かどうかはアスラには分からない。
しかし一切の武器を否定して素手で伝説を築き上げた、〈戦乱の薔薇団〉という組織には拳闘士として大いに羨望する要素があった。
それこそ、自分が〈戦乱の薔薇団〉に入団する夢は幾度となく見た。
もしも〈戦乱の薔薇団〉が壊滅したという噂を聞かなければ、同じ素手で日々を生きていたアスラは荷物を纏めて即入団を申し込んだに違いない。
そう、風の噂で〈戦乱の薔薇団〉が壊滅したという噂を聞かなければであった。
「アスラ……おい、アスラ!」
不意に耳元で自分の名前を叫ばれ、アスラははっと我に返った。
慌てて声が聞こえた方向に顔を向けると、数十歩先に佇んでいたドナテラと視線が交錯する。
「お前が上の空になるとは珍しいな。何か悩みでもあるのか?」
「いや、別に何でもない……ただ、少々昔のことを思い出していただけだ」
数年前に〈戦乱の薔薇団〉に入団したアスラとは違い、同年代のドナテラはアスラよりも二年は先に入団していた。
〈戦乱の薔薇団〉には団員同士の詳細な身元を問うことは違反とされているものの、それは表向きのことであって互いの身元を知っている団員は無数に存在する。
アスラとドナテラもそんな互いの身元を知っている団員同士だ。
放浪拳闘団に所属していた拳闘士のアスラとは対照的に、総合格闘技を修得しているドナテラはとある国の戦闘部隊に所属していた。
何でも不義理な上官に反抗して除隊した折、同じく総合格闘技者であるランフランコに勧誘されたという。
勧誘という点においてはアスラも同様である。
興行としてアスリスタという都市を訪れた際、拳闘試合を観戦していたランフランコに入団を誘われたのだ。
そのときの驚きは今でも鮮明に覚えている。
十年以上も前に壊滅した戦闘集団に勧誘されたのだ。半ば〈戦乱の薔薇団〉の名前と武勇を知っていたのでアスラの驚愕と不審は一入だった。
それでもアスラは結果として放浪拳闘団を抜け、ランフランコの勧誘を受けて〈戦乱の薔薇団〉に入団した。
無論、自分が入団した組織が噂の〈戦乱の薔薇団〉とは思っていない。
大方、首領のストラニアスが勝手に〈戦乱の薔薇団〉と名乗っているのだろう。
伝説の戦闘集団の看板を堂々と挙げるアスラの胆力には心底恐れ入るが、よくよく考えればフランベル皇国には壊滅した組織の名前を語るのは罪という法律は存在しない。
さすが一団の首領となる人物は物の考え方が違うな、とアスラはストラニアスの行動力と決断力に何度も感服したものだ。
実際、ストラニアスを首領と仰ぐ〈戦乱の薔薇団〉は壊滅したという〈戦乱の薔薇団〉に勝るとも劣らない実績を着々と築きつつある。
「おい、アスラ。いつまでも呆けてないで手伝ってくれ。この浮浪者たちを一箇所に集めて縛り上げるぞ」
「了解了解。そんなに怒鳴るなよ、ドナテラ。ちゃんと手伝うから心配するな」
襲撃者である浮浪者たちを徹底的に無力化するためには、全員を一箇所に集めて身動きを取れないように縛り上げるしかない。
本当ならば殺した方が手っ取り早いのだが、こんな身代金も期待出来ない浮浪者を皆殺しにしても一文にもならなかった。
ならば全員を一箇所に集めて縛り上げた方が最終的には効率がいい。
そう思ったのはドナテラやアスラだけではないだろう。
また〈戦乱の薔薇団〉は今回の仕事が完了次第ローレザンヌを離れる身だ。
無用な殺生を避けることも組織を長く存続させる処世術と団員の一人一人は心得ていた。
「じゃあ、さっさと終らせるか」
首を左右に動かして骨を鳴らしたアスラは、黙々と作業を始めたドナテラに習って浮浪者の一人に近づいた。
そして仰向けに倒れていた浮浪者の腕を摑んだときである。
「随分と警戒が甘い連中だな。こんなに近づいていても暢気に会話を続けるとは」
アスラは浮浪者の腕を摑んだまま瞠目した。
当然である。
突如として風に乗って流れてきた低い声は、篝火が焚かれていた真後ろから聞こえからだ。
額に薄っすらと冷や汗を浮かばせたアスラ。
だがアスラは声が聞こえた一拍後には身体ごと振り返っていた。
渾身の力を込めた裏拳を特典に付けてである。
(なっ、俺の不意打ちを避けた!)
次の瞬間、アスラは自分が放った裏拳が虚しく空を切った感触を味わった。
それだけではない。
アスラの眼前には上体を屈めて裏拳を回避した人間がおり、その人間は漆黒の闇と同化するような黒装束を着用していたのだ。
直後、黒装束の人間から繰り出された右拳がアスラの下腹部に突き刺さった。
アスラは身体内で火薬が爆発したような錯覚を覚えた。
下腹部を拳で打たれたにもかかわらず、頭部の先端から両足の爪先にまで痺れるような痛みが走る。
やがてアスラは込み上げてくる不快感に耐え切れなくなり、口内から大量の吐瀉物を地面にぶち撒けた。
「お、お前は……一体何者」
だ? と言葉を続けることはアスラには不可能だった。
なぜなら大量の吐寫物を吐き出した後、アスラは両膝から地面に崩れ落ちたからだ。
自分が吐き出した吐寫物の刺激臭が腹部の辺りから漂ってくる。
その刺激臭のせいで意識が残ったのだろうか。
どちらにせよ、かろうじて意識が残ったことは不幸中の幸いだった。
全身に走る不可解な痛みを意志の力で抑えつつ、アスラは仲間であるドナテラに助けを請おうとした。
ドナテラならば何としかしてくれる。
アスラはそんな期待を込めて数十歩離れた場所にいたドナテラの姿を探した。
しかし、すぐにアスラは自分の行動が無意味だったと知る。
ドナテラも自分と同じく仰向けな状態で地面に倒れていたのだ。
しかもドナテラの隣には二人目の黒装束の人間が佇んでいたのである。
現状がまったく理解出来なかったアスラは心中で首を捻った。
この黒装束の人間たちは何者だろう?
一体、いつの間に近づいてきたのだろう?
なぜ、至近距離から放たれた腹打ちがこんなにも身体の自由を奪っているのだろう?
知りたいことは山ほどあった。
だがアスラは何一つ答えを導き出すことが出来ず、いつしか深い闇の中へと意識を落としていく。
とても暗くて深い常しえの闇の中へと――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます