第二十七話 レオ・メディチエールの裏の顔 ⑦
「始まったか」
「そうね。ここまで聞こえるほどだもの。始まったに違いないわ」
過去に薔薇の修道院と謳われていた廃修道院の庭園には、鬱蒼と生い茂る雑草に混じって何本もの樹木が植えられていた。
そのため廃修道院の周囲を覆っていた外壁と同じぐらいの高さに成長している樹木に登ると、廃修道院の正門部分から風に乗って流れてくる鬨の声がよく聞こえる。
現在、レオとシェンファは樹木の中に身を潜めていた。
何本もの樹木の中でも取り分けて枝葉の数が多い樹木だ。
たとえ根元に第三者が通り過ぎたとしても、枝葉の中に隠れている人間の存在など発見できないだろう。
それほどレオとシェンファの気配の消し方は見事の一語に尽きる。
一定の領域にまで達した武術家は自分の身体から溢れる気を手足のように操作できるというが、レオとシェンファはまさに一定の領域にまで足を踏み込めた武術家であった。
それだけではない。
気の操作に長けた武術家には、拳法のけの字も知らない素人には考えも及ばない様々な術を行使できた。
「そろそろ行くか。これだけ時間が経てば修道院内を警備していた人間たちも正門へと向かっただろうからな」
頭巾の奥で呟いたのはレオである。
「まったく、高徳な職業である医者が聞いて呆れるわよ。まさか、金で雇った浮浪者たちを囮に使うなんて普通の人間が考えることじゃない」
などと悪態を吐いたのはシェンファだ。
レオが身体を預けている枝とは反対側の枝に平衡を崩さず佇んでいる。
「そうさ。私は普通の人間じゃない。特に〈黒獅子〉に扮している今はな」
苦笑交じりにレオが返答した直後である。
レオは廃修道院の二階に相当する高さの枝から飛び降りた。
建物の二階に相当する高さから飛び降りる。
常人ならば捻挫か悪ければ骨折を伴う危険な行為以外の何物でもなかった。
それでもレオに負傷は見られない。
地面に着地する寸前に両足の底に意識を集中し、地面を何度か転がって衝撃を分散させたのだ。
レオは優雅に立ち上がると、背中や尻などに付着した土を払い落とす。
そして目立った汚れを一通り払い落としたときだ。
先ほどまで自分が身を隠していた樹木の中から勢いよくシェンファが飛び出した。
しかも地面に着地してからではなく、空中で身体を回転させて地面に着地するという離れ技を見せてである。
(やはり、この娘の功夫は凄まじいな。十六歳という若さで軽功まで修得しているとは将来が恐ろしい)
自分と違ってふわりと地面に着地したシェンファに対し、レオは戦慄にも似た肌の粟立ちを全身で感じた。
軽功とはシン国武術に伝わる跳躍術の一種だ。
レオも幼少期に祖父のコシモから軽功の基礎だけは鍛練させられたが、本場のシン国で培ったシェンファの軽功とは雲泥の開きがあった。
当然と言えば当然である。
レオが徹底して習わされたのは医術と武術であり、軽功などの跳躍術や硬功夫などの剛体術の修得は二の次だった。
また異国で医術と武術を会得したコシモもすべての技を習ったわけではない。
生前、レオはコシモからシン国の武術家たちの逸話を幾つか聞かせられていた。
家屋の屋根から屋根へ颯爽と飛び移り、空を仰ぐほどの高さを誇るという宮殿の壁でさえ平原のように走ったと言われる武術家たちの逸話をである。
とある軽功が得意だった武術家などは、あまりにも有名になった軽功のために師匠から「軽功を悪用したら私が自らお前を殺しに行くぞ」と戒められ、その武術家は師匠に殺されないため一生足に怪我を負った芝居をして余生を送ったという。
氷山の一角に過ぎないシン国武術の一つ――軽功でさえシン国にはかような逸話が多く残っているのだ。
ならばレオがシェンファに油断しないのは道理と言えた。
今は同じ目的のために共同戦線を敷いているものの、所詮はシェンファも異国からの余所者である。
一歩間違えれば自分に鋭い牙と爪を剥く女虎になることだろう。
しかし、とレオは思う。
「巨漢に受けた怪我はまだ痛むだろう? あまり無茶をするな」
「う、うるさいわね。自分の身体のことは自分が一番よく知って……痛たたたた」
技量はあるとはいえシェンファはまだまだ子供だった。あまり派手な動きをすれば昼間に巨漢から受けた怪我が痛み出すなど分かるだろうに。
それでも普段からシェンファは内功の鍛練を怠っていないのだろう。
腹部に感じる痛みを体外に吐き出すように深く長く息を吐く。
痛みを抑えたシェンファは「よし、もう大丈夫」と腹部を弄った。
「ねえ、ところで意気揚々と敵陣に乗り込んできたからには何か策があるんでしょう?」
シェンファは腹部を弄りつつ訊いてきた。
「策か……ふむ、これといって特にない。だが、強いて挙げるのなら見敵必倒だな」
「つまり、片っ端から見つけた敵を倒し捲くるのが策ってことね」
「さすがはシン国の武術家だな。飲み込みが早くて助かる」
口元を押さえて低く笑った後、レオは敵の本陣である廃修道院に視線を移した。
廃修道院の敷地面積はサン・ソルボンス修道院よりも一回りは小さい。
長年、激しい風雨に晒されていた外観は黒ずんでいた。
また修道院自体は中庭を挟んでロの字型になっており、北側の主回廊を通じて大聖堂へと移動できる仕組みになっている。
ちなみに南側の正門では小規模な戦の真っ最中だ。
今から四半刻(約三十分)前に雇った浮浪者たちが各々武器を持って正門に襲撃を掻けたのである。
正門前に篝火を焚いて陣を張っていた〈戦乱の薔薇団〉は泡を食っただろう。
無理もない。
何の前触れもなしに浮浪者たちが大挙して襲ってきたのだ。
たとえ素手の格闘術に長けた暗殺者たちだろうとも混乱は必死。
もちろん、そうなるようにレオは浮浪者たちを懐柔したのだが。
「ふ~ん、じゃあ別に同行する必要はないわけね。だってそうでしょう? 要は首領のストラニアスという奴をとっ捕まえればいいんだから」
廃修道院の東側――食堂の壁が目の前に広がる庭園の中、両手を腰に添えて仁王立ちしていたシェンファが語気を強めていった。
「確かに別行動する必要はない。だが一人だけ大丈夫か? おそらく院内には首領のストラニアスの他にも腕利きが何人か残っているはずだ」
「だったら尚のこと一緒には行動できないわね。正門に陣を張っていた人間は浮浪者たちに任せるとして、首領ぐらいは私一人の手で捕まえたいわ」
そう言うとシェンファは食堂の石壁に向かって疾駆。
十分に助走をつけて壁伝いに二階のテラスへと飛び移った。
軽功を修得した人間だからこそ可能な動きである。
「じゃあね、レオ・メディチエール先生。いや、今は〈黒獅子〉だったわね。私はこのまま屋根伝いに移動して適当な場所から潜入するわ」
テラスからレオを見下ろしながら、シェンファは「何だったら私一人に任せてくれていいわよ」と挑発するような捨て台詞を残して去っていく。
やがて、ぽつねんと一人残されたレオは深々と溜息を漏らす。
「さすがに全部は思い通りにいかないか……」
正門から聞こえてくる
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