第二十六話  拘束されたクラウディア・ロゼ

 最初に意識を取り戻したとき、まず感じたのは左頬が異常に冷たいことだった。


(ここは……どこ?)


 やがて目蓋をゆっくりと開けたクラウディアは、しばらくして自分が石製の床に寝ている事実を認識した。


 冷やりとした床から少し顔を上げると、視界には蝋燭の炎に彩られた部屋の様子が飛び込んできた。


「ようやく目が覚めましたか」


 蝋燭から漂ってくる光と匂いに顔をしかめたとき、不意にクラウディアの耳朶を叩く凛然とした声色が響いた。


 直後、クラウディアは初めて自分が拘束されていることに気がついた。


 両手と両足を丈夫な縄で縛られている。


 それでもクラウディアは必死に体勢を変え、声が聞こえてきた方に顔と意識を向けた。


 見惚れるほどの美丈夫がそこにいた。


 二十代後半と思しき端正な相貌をした男だ。


 近くにあった蝋燭の炎に彩られて緋色に輝いていたものの、本来はフランベル人に最も多いといわれる焦茶色をしている。


 また眠っているわけでもないのに男は両目を閉じていた。


 もしかすると盲目なのだろうか。


 椅子に座っていた男の右手には、歩行に必要と思われる金属製の杖が携えられている。


「あ、貴方は誰? そこにここは一体どこなの?」


 クラウディアは金属製の杖を後生大事に携えている男に口を震わせながら尋ねた。


「私の名前はストラニアス。〈戦乱の薔薇団〉の首領を務めています」


「〈戦乱の薔薇団〉?」


 一度も聞いたことのない名前である。


 団というからには十人以上の人間を抱える組織だとは分かったが、ローレザンヌに存在する職業ギルドには〈戦乱の薔薇団〉などという名前の組織はなかったはずだ。


 そのとき、クラウディアはようやく現状を理解した。


 なぜ、自分が両手と両足を拘束されているのか。


 それは盲目と思しき男が着用していた衣服が起因だった。


 厚手の生地で作られた焦茶色の上着と脚衣。腰には本革製のベルトが巻かれており、丈夫そうなバックル付きの革靴を履いている。


 また薔薇の花を模した銀細工が革ベルトに取り付けられ、男が座っていた椅子の背もたれには黒地の外套が掛けられていた。


 それだけで記憶を蘇られるのは十分だった。


(この男の仲間に私は攫われたのだろうか)


 窓が取り付けられていない部屋なので正確な時間は不明だった。


 しかし、少なくとも自分が黒地の外套を羽織った集団の一人に殴られたことは鮮明に覚えている。


 場所は市場の大舞台。


 大勢の観客に呑まれまいと呼吸を整えていたときだ。


 いきなり大舞台の周辺に悲鳴と怒声が沸き起こり、続いて自分の出番を待っていた特設テントの中に黒地の外套を羽織った数人の男たちが流れ込んできた。


 もちろん咄嗟に悲鳴を上げた。


 だが男たちはまったく意に介することなく、疾風のように近づいてきて腹部に拳を叩きつけてきたのだ。


 そこで意識はぷっつりと途絶えた。


 そして再び意識を取り戻すと、どこかも分からぬ部屋の一角に両手と両足を拘束されている自分がいた。


 ならば答えは一つである。


 十中八九、自分はこのストラニアスが団長を務めているという〈戦乱の薔薇団〉に拉致されたのだろう。


「貴方が知らないのも無理はありません。私たちはアッセラス地方で主に暗躍していた盗賊団ですからね。グニュール地方に存在するローレザンヌの民が知らないのも当然です」


「盗賊団? 貴方は盗賊団の首領なの?」


 ストラニアスが小さく顎を引いた動作を見て、クラウディアは自分が想像していた盗賊団のイメージとかなり掛け離れていたことに軽く困惑した。


 一見すると学校の教師にも見えなくもない目の前の優男が、悪逆非道な盗賊団を束ねる首領とはどうしても想像できなかったからだ。


 それだけではない。


 仮にストラニアスを盗賊団の首領と認めたとしても、なぜ自分が攫われる羽目になったのかが分からない。


 それこそローレザンヌには盗賊団が狙うような貴族や豪商たちが犇いている。


 単なる修道女の自分を拉致しても彼らに有益なことなど皆無なはずなのに。


「盲目の私が盗賊団の首領を務めているなど信じられませんか?」


 などと思考したとき、ストラニアスは唇を小さく歪めて苦笑した。


「ですが紛れもない事実。私は盗賊団の首領で部下に貴方を拉致するように命じました。それもすべては貴方の父親のせいなのですよ」


「お父様の……」


 ストラニアスは小さく顎を引いた。


「貴方の本名はクラウディア・ロゼ。ローレザンヌで最大の人員を誇るサン・ソルボンス修道院の院長であり、クレスト教の司教でもあるジョルジュ・ロゼの一人娘でしょう?」


 饒舌に捲くし立てたストラニアスの言葉にクラウディアは絶句した。


 ストラニアスは修道女の自分ではなく、クレスト教の司教という父親のジョルジュに用があったのだ。


 それはクラウディアにも手に取るように理解できた。


 ジョルジュの名前を口にした途端、ストラニアスの全身から身を切るような冷気が放出されたからだ。


 その冷気は物理的な攻撃力に変化し、空の本棚に埋め尽くされた部屋の明暗を司っていた蝋燭の炎を激しく揺らす。


「まったく最初こそ簡単な仕事だと高を括った自分に腹が立つ。まさか〈黒獅子〉がランフランコたちを倒すほどの猛者だったとは予想外でしたよ」


 次の瞬間、ストラニアスは盲目とは思えない機敏な動きで立ち上がった。


 そのまま金属製の杖で床を叩きつつクラウディアに近づく。


 クラウディアの手前で立ち止まったストラニアスは、片膝をついて床に寝かされていたクラウディアの顔を覗き込んだ。


「だからこそ、前もって聞かされた情報を信じることにしました。万が一、〈黒獅子〉の暗殺に失敗したときはクラウディア・ロゼを人質に取れとね」


 そう言うと、ストラニアスはクラウディアの延髄に手刀を打ち込んだ。


 そして、再びクラウディアの意識は深い闇の淵へ落下していった。


「相変わらず優しいことだな」


 クラウディアを眠らせた直後、部屋の片隅から抑揚を掻いた声が響いてきた。


「盗み聞きとは性質が悪いですよ、リドル」


「キシシシ、別にいいじゃねか。減るもんでもないしよ」


 独特な笑い声を発すると、リドルは床に寝ているクラウディアの全身を舐めるように視線を這わせた。


 その態度だけでリドルの考えていることが分かる。


 ただし、それは正常な視覚を持つ健常者に限ったことだったが。


「貴方の考えていることなどお見通しです。駄目ですよ、この娘は大事な人質なのですから摘み食いなど許しません」


「固いこと言うなよ。人質なんざ命さえあれば十分だろう。それにこんな埃臭え修道院に立て篭もっていると暇なんだ。女の一人や二人ぐらい抱きたくなる」


 ストラニアスは音もなく立ち上がり、携えていた黒塗りの杖の尻頭を床に突きつけた。


「リドル、私の言葉が理解できなかったのですか?」


 一段と低く発せられたストラニアスの声にリドルは硬直した。


 今ほどまで顔に貼り付けていた下卑た笑みが一瞬で崩れ落ちる。


「冗談さ。分かったよ、その娘には手を出さない。それでいいだろう?」


「分かればいいのですよ」


 不意にストラニアスの声色が元に戻った。


 それと比例してストラニアスの全身から迸った冷気が徐々に収まっていく。


「だが、貴方の言い分は少なからず理解できます。このような場所でくすぶっていれば身体が訛って仕方がないでしょう」


 ならば、とストラニアスは緩やかに言葉を続けた。


「貴方に格好な任務を与えます」


「任務?」


 こくりとストラニアスアは首肯した。


「この廃修道院に近づく不審者を捕らえるという任務をね」

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