第二十八話  レオ・メディチエールの裏の顔 ⑧

 食堂の中は蝋燭の炎にも負けないほどの明かりで満ち溢れていた。


 満月の燐光である。


 天井から規則的に積み上げられている煉瓦式の屋根を通して大きく穴が空き、その穴を通して満月の燐光が床の隅々にまで放射されているのだ。


 レオは外壁の穴から食堂の内部に足を踏み入れるなり、組み立て式の長卓が何台も放置されていた食堂内を見渡す。


 廃修道院の食堂は結構な広さを有していた場所だった。


 目立った装飾品などない。


 変色化が進むタイル張りの床や、何も仕舞われていない食器棚には吸っただけで肺を悪くする埃が溜まっているのみ。


 またヒビが目立つ石壁には過去に絵でも飾られていたのだろう、周囲の色とは違う四角形の痕が残されていた。


「とにかくストラニアスとやらを探すか」


 木っ端と化した堅木の長椅子を避け、レオは通路へと続く扉へと歩を進める。


 やはり〈戦乱の薔薇団〉の主な構成員は正門へと向かったらしい。


 こうして廃修道院内部に入っても人間の気配を感じない。


 無論、広大な敷地面積を誇る廃修道院の中にいる人間全員の気配を察知することなど不可能である。


 それでも常人よりも感覚器官が鍛えられているレオには、ある程度離れた場所にいる人間の気配を察知することができた。


 気配を察知すると言っても神話に登場する魔法のような特殊な能力ではない。


 レオにとって気配を察知するということは、静かな足音や微量の臭気などを常人よりも早く察知することに長けた能力に他ならない。


 周囲で起こった僅かな異変を見逃すことなく捉える。


 それは一瞬の判断や油断が命取りとなる武術家が、鍛錬と実戦を重ねる末に自然に身に付く特殊技能であった。


 やがてレオは頭上から降り注ぐ月光を全身に浴びつつ、奇跡的に破損が見られない木製の扉前へと辿り着いた。錆びた部分が多い鉄製のドアノブに手をかける。


 そのときであった。


 レオは頭から氷水を浴びせられたように硬直した。


 殺気である。ノアノブに手をかけた瞬間、扉越しに強烈な殺気を感じたのだ。


 誰かが通路で殺気を放った。


 ドアノブを捻る寸前だったものの、レオの身体は意識よりも早くドアノブから手を離して真横に大きく跳躍していた。


 そしてレオがタイル張りの床に肩から落ちたのと、高速で放たれた何かが扉の一部分を容赦なく貫いたのは同時だった。


「ちっ、手応えがねえ……ってことは避けられたってことか」


 床に片膝を立てて態勢を整えた直後、勢いよく蹴破られた扉の奥から食堂に足を踏み入れてきた人間がいた。


 レオよりも背丈が低く、しゃくれた顎と二本だけ突き出た前歯が印象的な猿顔の持ち主であった。


 年齢は猿顔の方が何歳か上だろう。


 また顔の作りが普通の人間よりも異なっていたためか、口の隙間からは「キシシシシ」という変な笑い声が聞こえてくる。


「よくここまで侵入できたな。さすがは名の知れた〈黒獅子〉だけのことはあるぜ」


「私のことを知っているのか?」


「ああ、よく知ってるさ。〈黒獅子〉のことなら何でもな」


 キシシシ、と再び奇妙な笑い声を猿顔男は発した。


「俺の名前はリドル・リーンフォルス。お前を地獄に送る相手だ」


 相手が答えたことでレオは確信を得た。片膝立ちから平行立ちへと移行する。


「どうして私がここにいることが分かった? まさか偶然ではないだろう?」


 立ち上がった途端、レオは胸中に込み上げてきた疑問を口にした。


 リドルは完全に自分を待ち受けていた。そうでなければ扉越しに攻撃を放ってくるなど不可能である。


「なぜ、俺がお前を待ち構えていることが可能だったか……それはな」


 リドルは瞬時に身体を左半身に移行させた。


「俺を倒せたら教えてやるよ!」


 次の瞬間、リドルは一歩も動かずに右腕を真一文字に薙ぎ払った。


 レオとリドルとの距離は何十歩離れているか分からない。


 それほどの距離が離れていたにもかかわらず、リドルはその場で右腕だけを横一直線に振るったのだ。


 不可解な行動である。


 どう考えても攻撃など到達するはずはない。


 しかし、鋭敏に感覚器官を研ぎ澄ませていたレオは察知した。


 空気を切り裂きながら自分の側頭部に迫ってくる〝何か〟の正体に。


 だからこそ、レオは〝何か〟を完璧に避けるために上体を屈めた。


 一刹那後、リドルの右手から放たれた〝何か〟が石壁に衝突した。


 元々脆くなっていた石壁の一部が破壊され、床の上に幾つもの瓦礫が散らばる。


「恐ろしいほどの縄術の腕前だな。並の人間ならば頭部を砕かれるだろう。だが、残念ながら私には通用しない」


 レオは今しがた石壁の一部を破壊した〝何か〟を睨めつけた。


 先端に分銅が括りつけられた細縄である。


 シン国では流星錘や縄鏢などと呼ばれている可動性に優れた特殊武器の一種だ。


 そして遠心力により速度と破壊力が増加されたこの武器を食らえば無事では済まない。


「ほう、噂に違わぬ身体能力だな。虚をついたはずの縄鏢をかわしたか」


 意味深な言葉をリドルが吐いた直後である。


「だが二本同時ならばどうだ!」


 石壁の一部を破壊した細縄を引き戻すなり、リドルは逆の左手の裾からもう一本の細縄を垂れ出した。


 するとリドルは右手と左手に握った細縄を旋回させる。


 これにはレオも目眉を細めた。


 特異な武器である縄術には高度な操作技術がいる。


 それは手元から離れるほどに尋常ではない集中力が必要になり、技量不足の人間が生半可な気持ちで使用すれば誤って自分を傷つけてしまう可能性があるからだ。


 それでも一本だけならば武に心得がある人間ならば何とか扱えることだろう。


 遠心力を利用して相手の肉体を負傷させることもできる。


 ただ今のリドルは二本の細縄を手元で旋回させて遠心力を溜めていた。


 食堂の中に不可解な旋回音が響き渡る。


 レオは床に散らばった石壁の一部を見、続いて緩慢な所作でリドルへと視線を移す。


 これがリドルの奥の手なのだろうか。


 二本の細縄を旋回させているのに一つの旋回音しか聞こえないのは驚愕に値する。


 もしもリドルが二本の細縄を自分の意志で使いこなせるのならば相当に危険度が増す。


 もちろんリドルが正確無比に使いこなせればの話だった。


 一本でさえ高度な操作技術を用いる縄術である。


 たとえ縄術の使い手であろうとも二本同時に使いこなせるとは甚だ疑問だった。


(ならばこちらから仕掛けるまで!)


 突如、上体を屈めた姿勢からレオは床を蹴って疾駆した。


 全身から怒気と殺気が入り混じった殺気を迸らせているリドルに間合いを詰めていく。


 どのみちリドル程度の人間に時間を取られている暇はない。


 レオはジョルジュの生命を狙った暗殺集団の壊滅という仕事を任されているのだ。


 混乱に乗じて姿を消す可能性もある首領のストラニアスという男を一刻も早く捕まえなくてはならない。


 などという考えが脳裏を過ぎったためか、早々に決着を付けたかったレオにはリドルの狙いなど異国の天気に過ぎなかった。


 即ち、自分には関係ないと油断したのだ。


 距離を縮めてくるレオに対してリドルは先手を打った。


 左手に旋回させていた細縄を真っ直ぐレオに目掛けて放ったのだ。


 鉄製の分銅がレオの頭部を粉砕しようと飛来してくる。


「馬鹿の一つ覚えか」


 どんな強力な武器であろうとも狙われている箇所が分かっていれば回避することなど赤子の手を捻ることよりも簡単だ。


 現にレオは颯爽と身体を逸らすことで分銅の魔の手から難なく避けることができた。


 しかし――。


「馬鹿の一つ覚えはお前だ!」


 間髪を入れずにリドルは追撃を放ってきた。


 右手で旋回させていた二本目の細縄を解き放ち、回避行動を取ったレオの胴体に合わせて投げ放ったのである。


 このとき、リドルは自分の勝利を確信したことだろう。


 回避行動に合わせて避け難い胴体を狙った縄術の時間差攻撃である。


 たとえ優れた体術の持ち主であろうとも加速が乗った分銅を身体に受ければ瀕死は確実だったからだ。


 ただし、このときのリドルは決定的な思い違いをしていた。


 〈黒獅子〉と呼ばれていた狩人は並大抵な体術の持ち主ではなく、また本当に馬鹿の一つ覚えだった人間がリドル本人だったことに。


 それはすぐに証明された。


 常人には視認すら不可能であっただろう、胴体目掛けて飛来してきた細縄の先端に括りつけられていた分銅をレオは両手で挟み止めたのだ。


 石壁の一部を破壊するほどの分銅をである。


「う、嘘だろ……最大限に加速が乗った分銅を素手で受け止めるなんて」


 普通の人間じゃない、とリドルは言葉を続けるつもりだった。


 だがそんなリドルに構わず、レオは挟み止めた分銅をしっかりと握った。


 次に分銅が括りつけられていた細縄を渾身の力で持って後方に引く。


 するとどうだろう。


 手首に細縄を巻きつかせていたせいでリドルの身体は前のめりに大きく倒れ込んだ。


 両手を床につけて四つん這いの状態となる。


 それだけでリドルの運命は完全に決してしまった。


 平衡を崩して無防備な状態を晒したリドルを見逃さず、レオは瞬時に細縄から両手を離して床を蹴った。


 床を滑るような特殊な歩法を駆使してリドルの眼前へと肉薄する。


「誰がてめえみたいな人形野郎に負けるかよ!」


 リドルは瞬時に後ろ腰に手を回し、ベルトに差し込まれていた短剣を引き抜いた。


 逆手のままレオの顔面を斜めに切りつける。


「――遅い!」


 生半可な攻撃を仕掛けてきたリドルとは対照的に、レオは呼吸と動きを合致させた中段突きをリドルの腹部に突き込んだ。


 三体式と呼ばれる前足に三分、後ろ足に七分の力を入れる姿勢から繰り出された中段突きである。


 螺旋の軌道を描いて右拳に収斂された気はリドルの腹部内で一気に弾け、その衝撃波はリドルの背中の衣服を軽く浮かせるほどの威力が込められていた。


 当然、そんな打撃を食らったリドルは平常を保てるはずがなかった。


 口内から大量の唾液を噴出させ、埃が絨毯じゅうたんのように溜まっていた床に顔面から倒れ込んだ。


「だから言っただろう? 馬鹿の一つ覚えだとな」


 小刻みに痙攣しているリドルを見下ろし、それでもレオは警戒を解かずに言う。


「この……化け物が……て、てめえは……人間じゃねえ」


「お褒めに預かり光栄だな。まあ、貴様に褒められても嬉しくはないがな」


 レオは皮肉の言葉を口にした後、再び言葉を紡いでいく。


「では約束を果たして貰おう。なぜ、お前は俺を待ち伏せることができた?」


 背筋が凍えるほどの威圧感を込められたレオの質問に対して、リドルは腹部を両手で押さえながら「キシシシ……」と咳き込みながら笑った。


「決まってるだろ……団長から指示されたのさ。二手に分かれた内の一人……〈黒獅子〉は食堂から修道院の中に入ってくるとな」


 訥々とリドルはレオの質問に答え始めた。 


「結局、ここに来た時点でてめえは仕舞いなのさ……俺たち〈戦乱の薔薇団〉の団長であるストラニアスにぶっ殺されちまえ!」


 それがリドルの持つ情報のすべてだったのだろう。


 やがてリドルは顔だけを上げて炯炯とした眼差しを向けていたレオを見つめた。


 その直後である。


「残念だが仕舞いなのは私じゃない」


 レオは声音を乱さずにリドルの顔面を踏みつけた。


 ただし足裏で踏みつけたのではない。


 人体の中でも強力な部位として知られている踵を容赦なく顔面の中心に落としたのだ。


 当然、無防備だった顔面を踵で踏みつけられたリドルは昏倒した。


 鼻骨が粉砕した両鼻からはどす黒い血液が噴出され、猿顔の大半を赤色に染め上げていく。


「そのストラニアスという男を含む貴様たち全員だ」


 レオは激しい痙攣を繰り返しているリドルの横を通り過ぎ、全壊した扉を抜けて結構な広さがあった通路へと躍り出る。


 やがてレオの姿は闇に満たされていた通路の奥へと静かに消えていった。

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