第二十二話  レオ・メディチエールの裏の顔 ③

 数十年振りに夏市の最初日は一騒動で始まった。


 それでも今のレオの気分は一向に晴れない。


 ソルボンス大聖堂内で起こったジョルジュ・ロゼ暗殺未遂事件は半刻(約一時間)も経たずにローレザンヌ中に広まり、この街の最有力者が五体満足という朗報を聞いて多くの市民たちは安堵の息を漏らした。


 だが、ローレザンヌに起こった騒動はこれだけではなかった。


 市場の中心に設けられていた大舞台の周辺で、黒地の外套を羽織った数十人の人間たちと修道騎士団が一戦交えたという事実である。


 発端は大舞台の近辺を巡回していた一人の修道騎士の職務質問から勃発したという。


 期せずして大舞台ではサン・ソルボンス修道院から派遣された修道士たちによる賛美歌が披露される予定であり、そのためソルボンス修道騎士団たちは大舞台の近辺を厳重に警戒していた最中だった。


 そこに頭巾付きの黒地の外套を羽織った怪しい人間たちの姿が見えたのならば、警護役を任されていた修道騎士団としては一声かけるのは当然の行為だったことだろう。


 しかし、その職務質問により死闘の幕は上げられてしまった。


 確固たる原因は不明である。


 職務質問をした修道騎士団の態度が高圧的だったから、職務質問を受けた人間が修道騎士を殴りつけて逃亡を図った、などの様々な憶測が飛び交っており、騒動が収まった現在では事の原因を追究することは大海原に浮かぶ木片を探すほど困難になっていた。


 どちらにせよ、死闘を演じた修道騎士団に多くの負傷者が出たことは事実である。


 幸いにも死傷者こそ出なかったが、打撲や骨折などの怪我を負った騎士団員たちが最寄りの施療院に運ばれた。


 ただし、黒地の外套を羽織った連中が犯した罪はそれだけではなかった。


 市場の大舞台で修道騎士団と死闘を演じた黒地の外套たちは、一般市民を巻き込んだ騒動に乗じて賛美歌に参加するはずだったクラウディアを誘拐したのだ。


 本来ならばすぐにでも黒地の外套たちの動向を調べたかった。


 連中の潜伏場所にも見当がついており、悪戯に時間が過ぎれば過ぎるほどクラウディアの身体が綺麗でなくなる。


 それでもジョルジュの許可は下りなかった。


 少なくとも昼間から夜にかけては施療院に運ばれた患者の治療に専念しろと命じられた。


 だが、もう我慢する必要はない。先ほどジョルジュの許可が下りたからだ。


 だからこそ、レオはこうして施療院の裏庭で身体を温めていた。


 上半身には何も衣服を纏っておらず、下半身に足首の裾を紐って縛った漆黒の脚衣を穿いている。


 レオの肉体は見事に筋肉が引き締まった、柔軟かつ堅牢な機能美を有していた。


 日々の食べ物にも困窮する貧民層よりも痩せておらず、ワインや肉料理などの豪華な食事を堪能している富裕層よりも太っていない。


 逞しい胸板や六つに割れた腹筋。肩や二の腕の筋肉も衣服の上からでは分からない程度に盛り上がり、打撃力の要と言われる背面の筋肉などは初心な女性ならば悲鳴を上げるほど徹底的に鍛えられていた。傍から見れば厳つい形相をした人面に見えなくもない。


 そしてレオは四半刻(約三十分)以上も黙々と身体を動かしていた。


 もちろん、ただ適当に身体を動かしていたのではない。


 目の前に脳内で描いた仮想敵手を作り出し、その仮想敵手に向かって激しい突きや流麗な蹴りを繰り出していたのだ。


 その姿はとても普通の人間の動きではなかった。


 綺麗に刈り整えられている地面の上を滑るように移動し、相手の顔面に向かって紫電の如き突きを放つ。


 続いて三才歩という身体を左右に揺さ振る歩法を駆使し、仮想敵手の背後へと回った。


 次の瞬間、仮想敵手の膝裏目掛けて体重を乗せた底足蹴りを繰り出す。


 すると仮想敵手は大きく平衡を崩して片膝を付く。


 無論、その隙をレオは一分たりとも見逃さなかった。


 レオは柔軟な身体を旋回させつつ上方に飛び上がると、仮想敵手の剥き出しだった延髄部分に向かって容赦なく足刀蹴りを叩き込んだ。


 延髄部分に足刀蹴りを食らった仮想敵手は周囲の空気の中に霧散した。


 脳内でレオが勝利を確信したからである。


 直後、レオは片足で綺麗に着地。そのまま不動の姿勢を保ちつつ気息を整える。


 四半刻(約三十分)以上も続けていた鍛練が終了したことを表す行為であった。


(見られているな)


 鍛練を終えたレオは脚衣のポケットからハンカチを取り出すと、肉体の表面に浮き出ていた汗を丁寧に拭っていく。


 それでも鍛練時以上に全神経を研ぎ澄ませ、先ほどから気配を経ちつつ自分に視線を向けていた不審者の特定を図る。


 二刻(約四時間)ほど前までは群青色だった空が今では暗色に染まっていた。


 夜気特有の澄んだ空気が脳内を覚醒させる。


 ふと耳を澄ませれば未だに行われている夏市の大騒ぎが聞こえてくるようだ。


 が、神経が極限まで研ぎ澄まされていたレオには別な音が聞こえていた。


「おい、さっきから隠れている奴。どこにいるかは知らないが早めに姿を現した方が身のためだぞ」


 顔だけを後方に振り返らせたレオは、高い塀の前に植えられた樹木を見た。


 石塀よりも高く成長していた樹木の中である。


「何だ……最初からバレてたのね」


 若い少女の声が聞こえたと同時に樹木の木々が左右に揺れた。


 何枚もの葉が中空に舞い上がり、やがてひらひらと地面に落ちていく。


 しかし、地面に落ちたのは樹木の葉だけではなかった。


「誰かと思えば君だったか」


 闇色に染まっていた樹木の中から飛び出し、中空に舞い上がった葉よりも地面に早く到達したのは一人の少女だった。


 アオ・ザイを着用したリ・シェンファである。


「こんな夜更けに施療院を抜け出してどういうつもりだい?」


「どうもこうも俺は立派に成長していた樹木の木々を伝って来ただけよ」


 まったく悪びれた様子もなく答えたシェンファに対し、レオは驚嘆や畏怖よりも圧倒的な不審感を募らせた。それでもレオは感情を表に出さずに質問を続ける。


「リ・シェンファ……という名前だったね。君の国では夜更けに徘徊することを是としているのかな? そうでなければこんな盗賊のような真似事は止めて施療院へ戻りなさい。君を看護していた修道女たちも心配するだろうからね」


 レオは医者として、また騎士団員の一人としてシェンファに忠告した。


 八割方は真実の内容である。


 施療院からシェンファの姿が消えれば、交代制で患者を看護する修道女たちは慌てふためくことだろう。


 またシェンファを捜索するために多くの修道騎士団が駆り出されるかもしれない。


「盗賊のような真似事は止めろ……か」


 一方、シェンファはレオの注意をどこ吹く風とばかりにせせら笑った。


「それって暗殺者が言うとまったく説得力を感じないわよ。ねえ、〈黒獅子〉さん」


 その瞬間、レオは下唇を強く噛み締めた。


 正直、シェンファが現れたときに嫌な予感はしていた。


 盗賊のように塀を乗り越えて現れたときは背筋に戦慄すら走った。


「なぜ、俺が〈黒獅子〉だと思う?」


 抑揚を欠いた声で問うたレオ。そんなレオにシェンファは鼻で笑って見せた。


「見くびらないでちょうだい。これでも私は本国で少々だけど名前が知られた武術家よ。ロレンツォさんの屋敷で見た〈黒獅子〉の動きと、大聖堂で巨漢を相手にした貴方の動きが同じくらい分かる。でも決定的だったのは今ほど見せてもらった鍛練の様子ね」


 両腕を組んだシェンファは得意気な顔で言葉を紡いでいく。


「発勁を伴った拍打から三才歩の歩法へと繋ぎ、相手の平衡を崩す斧刃脚から後旋飛腿を繰り出せる功夫なんて本国でも中々お目にかかれない」


 だからこそ、とシェンファは勢いよくレオに人差し指を突きつけた。


「私は貴方がロレンツォさんの屋敷で合間見えた〈黒獅子〉だと確信した。シン国の伝統武術を修得している貴方だからこそ、私が〈黒獅子〉に対して使用した技の数々を難なく回避できたのでしょう?」

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