第三十一話  レオ・メディチエールの裏の顔 ⑨

「気を失ったか」


 片膝をついてシェンファの首筋に二本指を当てたレオは、脈動の動きから命に危険を負うほどの怪我は負っていないと判断した。


 ただ、あれほど何度も身体を石壁に叩きつけられれば心身ともに相当な損傷を負ってしまう。


 それこそ一刻(約二時間)は目を覚まさないほどに。


 次にレオは、シェンファンの前方にうつ伏せに倒れている男を見やった。


 黒髪で長身の男である。


 途中から現状を把握しただけだが、ほど近くに倒れている黒髪の男と双子だということは分かった。


「こいつらもしばらくは目を覚まさないだろうし好都合と言えば好都合だな」


 目の前に倒れている男のうなじには一本の鍼が深々と突き刺さっていた。


 今ほどシェンファにとどめを刺そうとした黒髪の男の傍にレオは颯爽と近寄り、まさに拳を振り下す寸前に鍼を突き刺して動きを制止させたのだ。


「さてと」


 結構な横幅がある身廊の中に倒れている三人の男女。


 その三人の一人にレオは狙いを絞って身体を起こした。


 シェンファとフォレストから離れた位置に倒れていたアルゴリーである。


「この三人の中で一番症状の軽そうなお前に訊くことにする。さあ、お前たち〈戦乱の薔薇団〉の団長であるストラニスの居場所を教えてもらおう」


 両頬を何度も叩いてアルゴリーの意識を覚醒させたレオは、眼前の状況をまったく把握できていなかったアルゴリーの側頭部に鍼を突き刺した。


 異様な音を立てて脳内に侵入していく鍼。


 すると頭部に異物を混入されたアルゴリーは白目を剥いて口を魚のように開閉するのみ。


 こうしてアルゴリーは完全にレオの操り人形と化した。


 訊かされた問いには必ず答える生きた操り人形へと。


「ストラニ……アス団長は……と、図書室……にいる……図書室が……会議室だから」


「その図書室は何階にある?」


「に、二階の中央……他の部屋と違って……大きさが異なる……樫製の扉……」


「それだけ訊けたら十分だ」


 得たかった情報の取得に成功したレオは、上半身を起こしたアルゴリーの首筋に手刀を打ち込んで再び昏倒させた。


 双子の片割れから得た情報が正しければ二階の図書室にストラニアスがいる。


 ということは高い確率で連れ攫われたクラウディアもいるはずだ。


 レオはちらりとシェンファに目を馳せた。


「クラウディアを取り戻したときには一緒に連れ帰ってやるか」


 仲間意識などは微塵もなかったが、修道院内に残っていた邪魔な残党を減らしてくれたことには感謝していた。


「少しだけ眠ってろ」


 相手に聞こえるか聞こえない音量で呟くと、レオは身廊の奥へと歩を進めた。


 突き当りにあった鉤状の角を曲がり、袖廊の中央に設けられた階段を上がる。


 通路だけではなく階段にも蝋燭の炎が点っていたので、足元に余計な注意を払わずに目的の場所へ進むことができた。


 やがてレオは丈夫な樫製の扉前に辿り着いた。


(さて、鬼が出るか蛇が出るか……)


 何十年も前に破棄された修道院とはいえ、内部の構造自体は現存する修道院とあまり大差がない。


 そのため異端者の暗殺を主とした闇の狩人――〈黒獅子〉として暗躍していた反面、現役の修道騎士でもあったレオは図書室の場所まで迷うことなく辿り着けた。


 無論、五感を最大限に働かせて周囲の気配を厳重に探りつつである。


 本当にここがストラニスとクラウディアがいる図書室か分からないからだ。


 当然である。


 何のアテもなく散策するには廃修道院の内部は広すぎた。


 空き部屋と化している部屋を一室ずつ確認するだけでも有に半刻(約一時間)以上は費やしてしまう。


 それでは体力と時間の大いなる無駄だった。


 また時間が経過するほど正門の戦いが終結に向かってしまい、事と次第にとっては状況がさらに悪化することも考えられた。


 金で雇った浮浪者たちが勝利すればいいのだが、逆に〈戦乱の薔薇団〉側が勝利すれば生き残った団員たちが廃修道院の内部へと帰還するのは必至。


 そうなれば密かに侵入している自分と遭遇する可能性も否定できない。


 何十と存在する空き部屋を一つ一つ一人で確認していては尚更だった。


 レオは壁に背中を密着させると、取っ手を摑んでゆっくりと扉を開けていく。


 扉を開ける度に図書室の中から明るい光が漏れてくる。


 どうやら図書室には何本もの蝋燭が点されているらしい。


(これはもしかすると当たりか?)


 などとレオが室内の様子を覗き見ようと思ったときだ。


「そんなに警戒しなくとも大丈夫ですよ。部屋の中には私以外の団員はいませんから」


 凛然とした声が扉を開けた分の隙間から聞こえてきた。


 二十代半ばから後半と思しき若い青年の声色である。


「どうぞ遠慮なく入ってきてください。お互い一対一で顔を見合わせましょう」


 同時にまるで今宵の男を誘う娼婦の如き妖艶な声でもあった。


 気を強く持たなければ骨の髄まで魅了されるような不思議な囁きである。


 並みの使い手ならば一旦引くか、無言を貫いて様子を見たいところだ。


 しかし〈黒獅子〉に扮している状態のレオは決して並みの使い手ではない。


(いいだろう。敢えて誘いに乗ってやる)


 気持ちを切り替えたレオは、一気に扉を開けて室内に足を踏み入れた。


 真っ先に目を引いたのは図書室という空間の内装だった。


 印刷技術が大いに発展した現在とは違い、昔は本を一冊ずつ手書きで写していくしか本を増やす方法がなかった。


 そして筆写作業を行う場所は修道院と決められており、学問を修めていた修道士たちが腰痛と格闘しつつ本を増やしていったのだ。


 そのときの名残だろうか。


 図書館の片隅には筆写作業に必要な肘掛の椅子や書き易いように工夫された傾斜した筆写机を筆頭に、羊皮紙を削る際に使用したナイフ、軽石、突き錐、細長い定規、乾燥された羽筆、また珍しい鵝(ガチョウ)の筆などが書写板の丸穴に入れられたままだった。


 だが肝心の書棚には一冊たりとも本が収まっていない。


 二階分に相当する吹き抜け式の図書館には数千冊もの本が保管できる書棚が置かれていたものの、書棚の中に収まっていたのは埃と虫の死骸だけという有様であった。


 それでも一冊の本も収められていない図書館は淡い光で照らされていた。


 各要所に何個もの燭台が設置され、燭台の中には火が点った蝋燭が立てられていたからだ。


「初めまして、〈黒獅子〉さん。私が〈戦乱の薔薇団〉の団長であるストラニアス・マクフランです。どうかお見知りおきを」


 魔性の声の持ち主は、両目を閉ざした長髪の青年だった。


 一冊の書物も収められていない本棚の群れに囲まれ、筆写机と組みになっていた背もたれ付きの椅子に深々と身を預けている。


 本来は焦茶色だったのだろう髪の色も過剰に点されている蝋燭の炎により半ば緋色に染まっていた。


 そして他の団員たちと同じく黒地の外套を羽織っている。


 ただ一つ違っていたのはストラニスの片腕には一本の黒塗りの杖が握られていたことだ。


 しかし、ストラニアスの外見に目を奪われたのは一瞬である。


 すぐにレオは不敵に笑うストラニアスの足元に目線を移行させた。


「クラウディアッ!」


 ストラニアスの足元には軽く波立った金髪の女が倒れていた。


 逃げられないように両手と両足首に細縄が巻きつけられている。


 見間違うはずがなかった。


 〈戦乱の薔薇団〉に連れ攫われたクラウディアである。


「ふふふ、この女性がそんなに気になりますか?」


 激しい怒りのために身体が震え始めたレオを見て、ストラニアスは妖艶な笑みを崩さなかった。


「それはそうでしょうね。愛しい女性が正体不明な謎の集団に攫われたのならば気が気でないはず。だからこそ貴方は危険を顧みずにここまで来たのでしょう、〈黒獅子〉どの」


 意外な言葉にレオは眉間の皺を激しく寄せた。


 なぜ、この男は自分とクラウディアを知っているような口振りをするのだろう。


 こうしてストラニアスと顔を見合わせたのは今なのだ。


 それどころか会話をしたのも今が初めてであった。


 なのにストラニアスはこれまで自分とクラウディアを身近で見てきたかのような口振りをする。


(深く考えるな、レオ。これも相手を混乱させる策だ)


 レオは小さく首を振って浮かんだ疑問を掻き消した。


 大方、ストラニアスは自分たちの名前を知っていたことを棚に上げて適当な言葉を並べたに違いない。


 ならば深く考えるのは愚問。


 レオは頭巾越しに長く深い呼吸を繰り返して心身を活性化させた。


「貴様とくだらない長話しをするつもりはない。ジョルジュ・ロゼの命を狙い、一人娘であるクラウディアを誘拐した下賎な連中が。すぐにあの世に送ってやる」


 レオは明確な決意を口にすると、瞬時に自流の構えを取った。


「そうですね。私も貴方と無駄話をする余裕は持ち合わせていません」


 レオの身体から放出された突風の如き殺意の風を受けたストラニアスは、それでも冷静さを乱さずに椅子から立ち上がった。


 そのまま携えていた杖の先端で床を突いてレオに一歩ずつ慎重に歩み寄ってくる。


(こいつ……盲人か?)


 常に閉ざされている両目と携えていた杖から、ストラニアスという男が盲目ではないかとレオは予想していた。


 だが、仮にも暗殺集団の首領である人間が盲人ということが有り得るのだろうか。


 などと思考を巡らせているうちに、ストラニアスはレオから五間(約十メートル)先でぴたりと足を止めた。


「閉ざされた空間に戦士が二人……すべては勝利した人間が未来を摑む」


 意味深な台詞を言った瞬間、ストラニアスは携えていた杖を二つに分割した。


 柄の部分を鞘から遠ざけていく度に不気味な輝きを放つ白刃が露出されていく。


「なるほど……仕込み杖か」


 仕込み杖。それは古代より連綿と受け継がれてきた隠し武器の総称であった。


 一見すると何の変哲もない杖の中に抜き身の刀身が隠されており、いざ事あらば柄と鞘の繋ぎ目に存在する止め金を外して抜刀する。


 ストラニアスが携えていた黒塗りの杖もまさに仕込み杖に他ならなかった。


 普通の刀剣よりも身幅が細く薄いものの、主に暗殺用に考案されたという仕込み杖ならば納得できる。


 正規の武器として広く認知していない仕込み杖だ。


 標的が武器とは無縁な一般人だった場合には擦れ違い様に斬りつけることも可能だった。


「さすがは噂に名高い暗殺者。この仕込みの存在も知っていましたか」


「ああ、だが抜くのが早すぎたな。仕込み杖の利点は相手に存在を悟られない内に勝負をつけるのが鉄則。自分から早々に刀身を抜いて見せるとは愚の骨頂だぞ」


 レオの言うことは最もであった。


 ストラニアスは仕込み杖の正体を明かすのが早すぎた。


 盲人が杖を携えているのが常識な昨今、さすがのレオも最初から仕込み杖だとは想像していなかった。


 もしも普通の杖だと思わせられたまま近寄られたら非常にマズかったであろう。


「別に構いませんよ。たとえ武器の正体を悟られたとしても、敵対する相手が素手ならば仕込み杖の有利性は変わりません……このように!」


 次の瞬間、ストラニアスは仕込み杖を脇構えにしたまま疾駆してきた。


 極限まで引き絞られた弓矢が放たれたように間合いを詰めてくる。


 レオは驚異的な反射神経を駆使して後方に跳躍。


 氷上を滑るように距離を縮めてきたストラニアスの斬撃を寸前でかわした。


 斜め下からの切り上げである。


 空間さえも断ち切るほどの鋭さを兼ねた斬撃は、数瞬前に構えていたレオの居場所を見事に切り裂いていた。


(何て速さだ!)


 何度も跳躍して距離を取ったレオは、衣服の一部を切り裂いたストラニアスの斬撃に心胆を寒からしめた。


「素晴らしい。初太刀をかわされたなど何年振りでしょう」


 第一撃を回避されたにもかかわらず、ストラニアスは微塵も動揺していない。


 そればかりか嬉しそうに表情を緩めている。


 一方、剣術の達人と判明したストラニアスにレオは小さく舌打ちした。


 正直、レオは自分が有利だと高を括っていた。


 たとえ剣術の達人であろうとも盲目ならば自分からは仕掛けまい。


 そう勝手に思い込んだ直後に斬りつけられたからだ。


「かなり動揺しているようですね。こうして構えているだけでも貴方の心理状況が手に取るように分かりますよ」


 ですが、とストラニスは一足飛びに踏み込んできた。


 今度は正眼の構えから烈風の如き連続突きを繰り出してくる。


 恐ろしく的確で速い突きだ。まともに食らえば蜂の巣になるのは必至。


 レオは顔面に飛んでくる紫電のような突きを回避するため、今度は後方ではなく真横に大きく跳躍した。


 両腕に付加が掛かる連続突きから薙ぎに繋げることは不可能……そう思ったのだがストラニアスの技量はレオの予想を遥かに超えるほどだった。


 ストラニアスの突きはレオの身体を追うように変化したのだ。


 水平に薙ぎ払われた仕込み杖の切っ先がレオの顔面を捉える。


「ふむ、手応えからして斬ったのは衣類だけのようですね」


 薙ぎ払った仕込み杖を正眼の構えに素早く戻したストラニアスは、顔面を片手で押さえつけているレオの方向に顔を向けていた。


「貴様……本当の化け物か? なぜ、盲目の身で正確な俺の位置を把握できる?」


 レオは顔面を覆い隠していた頭巾を床に投げ捨てた。


 ストラニスの薙ぎ払いは危ういところでレオの頭巾のみを切り裂いていたのだ。


 もしも飛ぶ距離を誤っていたら確実に肉まで切り裂かれていただろう。


「盲人の私が正確に敵の位置を把握できる理由ですか? 簡単なことです。私は貴方たち健常者のように物事を視力ではなく聴力で〝視〟ているのですよ」

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