第十話    レオ・メディチエールの裏の顔 ①

 ローレザンヌ一の賑わいを見せる繁華街であろうとも、終課(午後九時)の鐘が鳴り終える頃には多くの店が店仕舞いをする。


 これは蝋燭ろうそくが勿体ないこともあったが、一番の理由は安価な蝋燭を点し続けると大量の煙が出て日常生活に支障が出るからだ。


 また安価な蝋燭は、刺激臭が強すぎて飲食店では使えないことも難点であった。


 だが、一部の豪商や貴族たちは違う。


 多くの市民が寝静まる時間帯を超えても豪華な料理やワインを飲み食いし、煙も刺激臭もしない高価な蜜蝋みつろうを惜しげもなく点し続ける。


 ロレンツォ屋敷もそうだった。


 一般邸宅の四、五倍の敷地面積を誇るロレンツォ屋敷の至るところには、防犯用としてオイルランプが鎖で吊るされていた。


 なればこそ闇に紛れて屋敷に侵入することは難しい。


 市政庁が高額な値段で発行している武器所有許可証を入手しているため、屋敷内を警備している使用人や傭兵たちが、丈夫な甲冑を着込んで短剣や長剣などで武装していることも侵入を躊躇させる要因の一つだった。


「さすがはローレザンヌの中でも五本の指に入るというドットリーニ家だな」


 ロレンツォ・ドットリーニの屋敷内に設けられていた中庭には、多くの樹木に混じって三階建ての建物に相当する巨木が植えられていた。


 そんな巨木の枝に身を潜めていたレオ・メディチエールこと〈黒獅子〉は、小さく呟きながら煌々と明かりが点っている石造りの屋敷内を見渡す。


〈黒獅子〉の視界には長棒を携えて中庭を警備している使用人が談笑し、屋敷に続いている通路を何人もの女性の召使いたちが料理を運んでいく姿が見受けられた。


 それだけで勘の鋭い〈黒獅子〉には察しがついた。


 主人のロレンツォは誰か親しい友人か重要な客を迎えているのだろう。


 それはこんな時間帯まで豪勢な食事を堪能していることが何よりの証だった。


「そろそろ行くか」


〈黒獅子〉は警備の人数と配置場所に予測を立てると、常人ならば怪我を負う高さの枝から颯爽と飛び降りた。


 周囲に物音が響かないように注意しながら地面に着地するなり、黒装束に身を包んだ〈黒獅子〉は闇と同化しながら主人の居場所へと歩を進める。


 もちろん、警戒を怠ることも忘れない。


 表向きの警備とは別に、裏の役目を与えられた人間がどこかに潜んでいることも十分に考えられる。


 しかし、〈黒獅子〉は警備を恐れている節はなかった。


(今日はあくまでも調査のために訪れたんだ。警備の人間と事を構えるためじゃない)


 そうである。


〈黒獅子〉がドットリーニ家を訪れた理由は、当主であるロレンツォ・ドットリーニが危険な異端者と化しているかを見極めることだった。


 情報提供者はシェンファという異国の少女。


 このドットリーニ家に宿を借りているシン国商人の姪だという。


 偶然だったとはいえ彼女と知り合ったことには感謝である。


 なぜならクレスト教関係者が異端者と化していることは少し調べれば分かるものの、あらゆる商売に手を染めている商人となると話は別だった。


 豪商ともなると下手な騎士団よりも場数を踏んでいる。


 表向きは何食わぬ顔でクレスト教に資金提供していても、裏ではクレスト教を非難している異教徒と綿密な繋がりを持っていることが多かったからだ。


 そして本来ならば事前調査が行われた末に対象者の元へ出向くのだが、多くの異教徒が足を訪れる夏市が近いため、今日は〈黒獅子〉の独断で対象者の屋敷へとやって来たのである。


(事後報告でも構わないだろう。これも主の意志だ)


 そう自分に言い聞かせつつ、〈黒獅子〉は中庭を抜けて目的の建物内に侵入した。


 ロレンツォの屋敷内には合計で四つの建物がそびえていたものの、料理を運ぶ召使いたちが出入りしていたのは東の方角に建てられていた建物であった。


 おそらく東館(勝手に名づけた)こそが主人の寝室や大広間が設けられた本館なのだろう。


 そう思ったからこそ〈黒獅子〉は東館に侵入すると、足音を吸収する絨毯の上を早歩きで移動していく。


 東館の通路は広々とした造りになっており、灰色の壁には照明用のオイルランプの他に高級な絵画が何枚も掛けられていた。


 美術にうとい〈黒獅子〉でも、等間隔に掛けられていた絵画の一枚一枚が相当に値の張る逸品であることは推測できた。


 不意に〈黒獅子〉は足を止め、ふと一枚の絵に着目した。


「これは瀉血しゃけつ行為を描いた絵か?」


 蝋燭の炎よりも明るいオイルランプの傍に掛けられていた絵には、百年ほど前には最新の医療技術だと信じられていた光景が詳細に描かれていた。


 当時、病気になった市民たちは高額な報酬を要求させる医者よりも床屋に通っていた。


 その頃の床屋には髪を刈る仕事とは別に外科医を兼任する理髪師が多く、体液の平衡を保てるとして盛んに瀉血を行っていた。


 瀉血とは読んで字の如く、血を抜く行為である。


 薬学や外科手術が発達した昨今では信じられないことだが、百年前までは体内から血を抜けば大抵の病気が治ると平気で信じられていた。


 意図的に血を抜いたところで悪戯に病人を弱らせるだけだと一部の医者は考えていたものの、戦乱や天災が続いていた当時の市民たちは金銭的な理由も相まって、民間治療に頼らざるを負えなかったのである。


 そんな当時の瀉血行為が描かれた絵が〈黒獅子〉の目の前には堂々と飾られていた。


 現在でも医者は高額な報酬を得られる職業である。


 百年前よりは一般大衆でも一週間に一度は通えるほど利用率が高まっていたが、それでも平均的な市民の所得から考えると治療費は決して安い額ではない。


 現に今でも医者が少ない都市では伝承と迷信に基づいた怪しい民間治療が行われていると聞く。


 だからこそ、医者にも毎日通えるほどの資産を持った豪商の屋敷に瀉血行為を描いた絵が飾られているなど論外だった。


 少ない賃金で精一杯日々を生きている一般大衆を侮辱する最低な行為としか思えない。


 悪趣味にも程がある、と〈黒獅子〉が目頭を押さえつけたときであった。


 通路全体に響き渡るほどの甲高い悲鳴が〈黒獅子〉の耳朶を打った。


 絵画を見つめていた〈黒獅子〉は驚きのあまり身体を強張らせ、数拍後に絵画から悲鳴の発生源に顔を移行させた。


〈黒獅子〉がいた細長い通路には、階上に繋がっている階段に辿り着く前に幾つかの扉が存在していた。


 その扉の一つからひょっこりと姿を現した若い女性がおり、一枚の絵画を見つめていた〈黒獅子〉を発見して悲鳴を上げたのだ。


 二十代前半と思しき女性は、麻製の筒型衣服に婦人用の髪覆いを被っていたことで召使いの一人だと分かった。


 仕事にまだ十分に慣れていないために掃除を主に任されていたのだろう。


 そうでなければ宴会に料理を運ぶ役目を受けているはずである。


 などと暢気に状況を把握している暇はなかった。


 姿を見られたばかりか、周囲に響き渡るほどの悲鳴を上げられたのだ。


 木造建築よりも音を遮断する石造建築とはいえ、今の悲鳴を誰かに聞かれなかったという保証はない。


 自分の失態に胸中で激しく舌打ちした〈黒獅子〉だったが、そこは幾多の修羅場を潜り抜けて来た暗殺者である。


 瞬時に意識を切り替えると、あまりの恐怖に身体を石のように硬直させていた召使いの女性目掛けて移動していく。


 上体を低く屈めながら床を滑るように移動する歩法を駆使したため、結構な距離があった二人の間合いは一気に縮まった。


 もちろん〈黒獅子〉は悪戯に間合いを詰めたわけではない。


 召使いの女性に触れられるほど近づくなり、素早く背後に回って左手で口を塞いだ。


 空いていた左手を女性の腰に巻きつけて強く引き寄せる。


「大人しくしろ。これ以上、俺の存在を誰かにバラすような馬鹿な真似をしなければ何もしない。それは約束する」


 女性の耳元に口を寄せて〈黒獅子〉は優しげな口調でささやく。


 だが身体を完全に拘束された女性の震えは一向に治まらなかった。


 よほどの恐怖を感じているのだろう。


 返事をするどころか今にも泣き叫びそうな雰囲気が伝わってくる。


(仕方ない。しばらく眠ってもらう)


 圧倒的な恐怖に支配されていた女性の態度を見るなり、〈黒獅子〉これ以上の説得は無理だと判断した。


 女性の口を塞いでいた左手とは逆の右手を、腰に巻いていた本革製のバックルに近づける。


 バックルの中には様々な用途に使えるはりが何本も収納されている。


〈黒獅子〉はまさにその鍼の一本を取り出そうとしたのだ。


 しかし――。


(誰かが来る!)


 不意に〈黒獅子〉は大量の氷水を浴びせられたような錯覚に陥った。


 拘束していた女性を躊躇せずに離すなり、〈黒獅子〉は件の人間が前方の階段から現われるだろうと予想した。


 当然である。


 尋常ではない気配とともに、凄まじい速度で階段を駆け下りてくる人間の足音が聞こえてきたからだ。


「さっきの悲鳴は誰が上げたの!」


 やがて一人の少女が階段を駆け下りてきたときたとき、〈黒獅子〉は困惑してしまった。


「あんた、どう見ても声を上げた人物じゃないわね。それに格好も使用人とは思えない……間違いなく泥棒の類よね」


〈黒師子〉の視界に飛び込んできたのは、全身から闘気を放出しているリ・シェンファだった。



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【あとがき】


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