第六話    異国の拳法少女・シェンファ ②

「へへへ、嬢ちゃんよ……悪いがもう手加減はできねえぜ」


 ようやく股間の痛みが薄れてきたのだろう。


 禿頭男は懐に忍ばせていた短剣を抜き、仲間を瞬殺したシェンファに威勢よく啖呵を切った。


(手加減をしたのはこっちの方なんだけど)


 通行人たちが禿頭男の短剣に恐れ戦いている間、渦中の人であったシェンファは心底呆れた様子で吐息する。


 シェンファと禿頭男の実力は少なく見積もっても大人と子供ほどの差があった。


 当然、大人の実力を有しているのはシェンファの方だ。


 幼少期から実戦の雄として名を馳せていた武術家の父親に武術を叩き込まれ、基本功、対手、歩法、兵器、上級套路(奥義の型)までの過程を僅か十三年で修得したシェンファに比べて禿頭男が勝っているのは体格と年齢のみ。


 そんな相手が今さら短剣一本を取り出したところで何の障害にも成り得ない。


 むしろシェンファにしてみれば手加減する必要がなくなったので都合がよかったかもしれない。


 ただ一つだけ問題点を挙げるとすれば、ここが本国ではなく文化も法律も何もかもが違う異国だということだ。


 たとえ頭が悪い暴漢たちが相手とはいえ、下手に大怪我を負わせて裁判沙汰にでもなったら叔父に多大な迷惑を掛けてしまう。


 だからこそ、シェンファは両腕を組んで渋面のまま黙考した。


 このまま全速力で立ち去るか、それとも禿頭男を完膚なきまでに叩き伏せるかを。


「へっ、どうした嬢ちゃん。さすがに刃物を見て怖くなったか?」


 一方、禿頭男は刃物を持った自分にシェンファが恐怖したのだと勘違いをした。


 黙考していたシェンファに下卑た笑みを浮かべながらにじり寄っていく。


 しかし、禿頭男が歩いた歩数は五歩もなかった。


「何だ……おい、てめえら。さっきから何を見ているんだよ」


 禿頭男は足を止めると、シェンファの後方を見つめながら低い声で問うた。


(てめえ……ら?)


 禿頭男が言った言葉を心中で反芻させること一拍後、シェンファは不意に後方から漂ってきた異質な気配に身体ごと振り向いた。


 いつの間にかシェンファの後方には異様な三人組みが佇んでいた。


 一人は目鼻立ちが整った二十代後半と思しき男である。


 女性のように滑らかな焦茶色の長髪を風になびかせ、春風のように柔和な笑みを顔に貼り付けていた。


 盲目なのだろうか。


 長髪の男の両目蓋は完全に塞がっており、右手には歩行の手助けをする金属製の杖が携えられていた。


 もう一人は形容すれば巨熊だろうか。


 角張った強面に茶色の短髪。


 右目には縦に走る凄惨な裂傷が刻まれており、明らかに刃物で切られた傷であることが分かった。


 背丈は優男よりも二つ分は高く、小柄な人間が多かった本国の人間と比べれば巨人だとシェンファは思った。


 また隻眼男の肌は桃色だった盲目の男とは違って珍しい褐色である。


 最後の一人は形容すれば猿だろうか。


 三人の中で一番背丈が低く、しゃくれた顎と二本だけ突き出た前歯が別の意味で印象的だった。


 常人と比べて顔の作りが異なっていたためか、僅かに開かされた口の隙間からは「キシシシシ」という変な笑い声が漏れ出ている。


(何なのこいつら?)


 個性的な三人組の登場にシェンファは生唾を飲み込んで困惑した。


 行商人には到底見えず、さりとて禿頭男たちのような暴漢にも見えなかった。


 三人とも足首まで伸びている黒地の外套を羽織っていたところを見ると、もしかすると巡礼者か安定した土地を求めて流離う旅人なのかもしれない。


 などとシェンファが思考を巡らせていると、盲目の男が唇を半月状に歪めた。


「気に障ったのなら謝ります。ですが素手の女性に対して刃物を出すとは些かやり過ぎではないかと思いましてね」


 盲目の男の声色は真冬の湖畔を思わせるほど澄んでいた。


 長く聞いていると一端の女ならば身も心も陶酔してしまうほどの魅力が込められている。


「ストラニアス、こんな奴らにいちいち構うな。お前の悪い癖だぞ」


「ランフランコの旦那の言うとおりだぜ。こんな路上の喧嘩に構っているほど俺たちは暇じゃねえはずだろう。団長さんよ」


 ストラニアスと呼ばれた盲目の男に忠告したのは、左右に並んでいた隻眼の巨漢と面妖な猿顔をした二人であった。


「喧嘩っ早いリドルもこう言っているんだ。それに早く宿も見つけたいしな」


 隻眼の巨漢はランフランコ、面妖な猿顔はリドルという名前らしい。


 二、三の少ないやり取りからシェンファは男たちの名前を知った。


「いいじゃありませんか。予行練習も兼ねて害虫の駆除をするのも一興ですよ。そう思いませんか? ランフランコ」


 ランフランコと呼ばれた隻眼男が呆れるように吐息すると、ストラニアスは呆然とする禿頭男に向かって杖を突きつけた。


「分かった分かったよ。俺がやればいいんだろう」


 ストラニアスの意味深な命を受けたランフランコは、シェンファの横をどっしりとした足取りで通り過ぎていき、そして禿頭男の眼前に立ちはだかった。


「いきなり出て来て何だてめえらは! ふざけたこと抜かしていると本当にぶっ刺すぞ!」


 はっと我に返った禿頭男は、強烈な圧迫感を醸し出していたランフランコに気圧されないように精一杯腹の底から声を出した。


 だがランフランコは禿頭男の持つ短剣など存在していないように言葉を紡いでいく。


「本来なら貴様のような暴漢に構うこともないんだ。ただ、うちの団長はひどく気紛れな性格でな。まあ、運が悪かったと思って諦めてくれ」


 直後、ランフランコは外套の中から右腕だけを緩慢な動きで露出させた。


 そのとき、シェンファにはランフランコが着用しているた衣服が覗き見えた。


 厚手の生地で作られた焦茶色の上着と脚衣。


 丈夫そうなバックル付きの革靴。


 腰には本革製のベルトが巻かれており、薔薇の花を模した銀細工が取り付けられていた。


 武器は一本たりとも所持していない。


 ざっと見渡したが唯一の武器といえば両腕に装着されていた鈍色に輝く手甲ぐらいだろうか。


「ほ、本当だぞ! お、俺が刺すって言ったら本当に――」


 と、禿頭男が短剣を握っていた右手をランフランコに向けて突きつけたときだ。


 ランフランコは眼前に突き出された短剣を手甲の部位で外側に弾くと、そのまま一気に禿頭男の懐へ侵入。


 鋭い踏み込みから腰を捻転させ、下半身から伝わってきた衝撃力を右拳に混入して禿頭男の腹部へと容赦なく叩き込む。


 ドズンッ、という異様な衝撃音が周囲に響き渡った。


 通行人たちは理解不能な顔をしていたが、武術の鍛錬を積んできたシェンファにはランフランコが放った中段突きの威力が誰よりも理解できた。


 十中八九、禿頭男の内臓器官は壊れた。


 拳を打ち込まれた場所から推測すると、肝臓辺りだろうか。


 もしも破裂でもしていたら想像を絶するほどの責苦を味わうことだろう。


「ううううううぉぉぉぉ…………」


 シェンファの予想は的中した。


 禿頭男は一発で両膝から地面に崩れ落ちると、横向きに倒れて身体を丸ませ始めた。


 まるで赤子のような姿勢だわ、と傍目から中傷するのは簡単だ。


 だが禿頭男が受けた負傷の度合いから考えれば、恥と外聞を捨ててでもその態勢になった方がまだマシだったのだろう。


 よく見れば口元からはどす黒い血が顎先に向かって垂れ流れている。


「ストラニアス、これぐらいで十分満足しただろう? 害虫といえども殺してしまっては後々面倒なことになるからな」


「そうですね。要らぬ面倒をかけました、ランフランコ」


「本当にそう思うのなら少しは自粛してくれ。事あるごとに面倒に首を突っ込んでいる暇など俺たちにはないだろう」


 ストラニアスは「確かに」と一言だけ呟くと、颯爽と踵を返して歩き出した。


 連れのランフランコやリドルも同様にストラニアスから数歩分だけ離れて追っていく。


 そのときであった。


「ちょっと待ちなさい! あんたたち、この怪我人を置いていくわけ!」


 今まで傍観していたシェンファが立ち去っていく三人組みを大声で呼び止めた。


 三人は一斉に立ち止まり、それぞれ顔だけを振り向かせてシェンファを見る。


「助けた礼など不要ですよ、お嬢さん」


 にこやかな笑みとともに口を開いたのはストラニスであった。


「そんなことはどうでもいい。どういう経緯であれ、そこのハゲを殺そうとしたのはアンタの連れでしょう? このまま放っておいていいの?」


「どうします、ランフランコ。このまま放っておいていいのですか?」


「構わないだろう。いずれ騎士団がきて上手いこと処理してくれるさ」


「そうさ。ここからはボンクラ騎士団の仕事だぜ」


 キシシシ、とリドルが不気味な笑い声を発した直後である。


 ランフランコは外套の切れ目から手甲を装着させた腕を出すと、怒りを露にしたシェンファに向かって何かを放り投げた。


 シェンファは自分に放り投げられた何かを空中で掴み取る。


「少ないが治療代の足しにしろ。それだけあれば大丈夫だろう」


 慎重にシェンファが手を開くと、掌の中心には銀色の硬貨が存在していた。


 詳しい値段は分からなかったが、それでも相当に価値の高い銀貨だということは分かった。


 そしてシェンファが受け取った銀貨を食い入るように眺めている最中、ストラニアスを先頭に個性的な三人組は今度こそ用事はなくなったという態度で歩き出した。


 だが、何歩か歩き出した末にストラニアスはシェンファにふと尋ねた。


「もしかすると君の名前はリ・シェンファ、という名前ではありませんか?」


 その名前を呼ばれた途端、シェンファは銀貨からストラニアスに視線を移した。


「どうして私の名前を知っているの?」


 眉間にしわを寄せて驚くシェンファにストラニアスは続けて尋ねた。


「ふむ、そうだとすると君は大切な人とはぐれている状態のようですね。それで都市の中を一人で彷徨っていたところを絡まれた。経緯は大体このようなところですか?」


 まさしくストラニアスの言うとおりである。


 叔父であるリ・ケイリンとはぐれてしまったために一人で都市の中を彷徨い、その末にタチの悪い暴漢たちに絡まれたのだ。


「ならば私と出会ったことは幸運でしたね。君を捜している男性はここから南西にあるティエフェール通りの鍛冶屋前にいますよ」


 それとですね、とストラニアスは呆然と佇むシェンファに言った。


「もうすぐここに騎士団が来ますから何か事情があるのなら立ち去りなさい。この都市の騎士団はボンクラだとすこぶる評判が悪いですからね」


 それだけシェンファに忠告すると、今度こそストラニアスはランフランコとリドルを引き連れて歩き出した。


 燃えるように赤い夕日を浴びながら街路の奥へと消えていく。


「ったく、どうすりゃあいいのよ」


 シェンファは右手に握っていた銀貨を強く握り締めると、顔中に脂汗を浮かばせている禿頭男に顔を向けた。


(取り敢えずは適当な場所に運ぶかな)


 優先事項を決めたシェンファは、落胆の溜息を漏らしつつ禿頭男の元へ歩み寄った。

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