第七話    レオ・メディチエールの表の顔 ④

 サン・ソルボンス修道院で生活する修道士たちは毎日の祈りと労働を欠かさない。


 クレスト教が定めている戒律に殉じて天に召されれば、艱難辛苦とは無縁な楽園へ導かれると本気で信じているからだ。


 だからこそ修道士たちは、肉体に鞭を打つような労働にも苦言一つ漏らさない。


 修道院の敷地内に葡萄畑を作り、鍬や鎌を使って雑草を刈り取るのも日常茶飯事。


 それだけではない。


 肉体労働もさることながら、学問を学ぶことも修道士に取っては大切な修行の一つだった。


 膨大な書物が収められている図書室に何度も通い、偉大な先人が手書きで遺してくれた書物を読みふける。


 今でこそ製紙と印刷技術が発達したお陰で写書作業も楽になったが、一昔前までは修道士たちが聖務作業の一環として写書作業を夜遅くまで行ったという。


(昔の修道士は大変だったろうな)


 レオは胸中で呟きながら、脇に何冊かの書物を抱えながら歩いていた。


 場所は修道院長の館から施療院へと続く広場の中。


 図書館が設けられていた建物――修道院の館からの帰り道であった。


 一刻(約二時間)前に九時課(午後三時)の鐘が鳴り終わったものの、遥か上空からは燦々とした日差しが照りつけてくる。


 綺麗に雑草が刈り取られた広場を歩いていると、前方から土に塗れた鍬を持った三人の修道士が歩いてきた。


 葡萄畑の手入れを終えてきた後なのだろう。


 土に塗れていたのは鍬だけでなく衣服の所々にも多く見受けられた。


 やがて互いに擦れ違うとき、レオと修道士たちは一言も発せずに会釈を返した。


 口は悪魔の出入り口。


 余計な私語は慎むのが修道士に課せられた暗黙の了解である。


「ん? そこにいるのは先輩じゃないですか?」


 その直後である。


 レオは自分の名前を誰かに呼ばれた。


 声が聞こえてきた方角に顔を向けると、正門から広場へと向かってくる数人の修道騎士団員の姿が視界に入った。


「誰かと思えばアレクサンドルか」


 レオは前方で立ち止まった修道騎士団の一人を見て顔をほころばせた。


 気さくに話しかけてきた相手は十代半ばの騎士団員であり、騎士たちが訓練中に行う模擬試合で負った怪我を二度ほど治療したことがある。


 アレクサンドルという少年は綺麗に刈り整えられた茶髪と長鼻が特徴的だった。


 まだ入隊して間もないため修道騎士団の甲冑に着られている感が否めない。


「騎士団が中庭に来るなんて珍しいな。まさか施療院に行く途中だったのか?」


 この中庭は施療院と修道騎士団の宿舎の中間に位置している。


 なので修道騎士団が中庭を通るなど施療院か大聖堂へ行くときにしか利用しない。


 にこやかな笑顔で尋ねたレオに、アレクサンドルは鼻先を掻いて苦笑した。


「その節は本当にありがとうございました。いや~、先輩の医術は天下一品ですね。あれから驚くほど早く怪我が治ったので自分でも驚きましたよ。ですが、今日は少し事情が違いましてね。街中で暴れた輩を連れてきたのですが……おい」


 若い騎士は正門から離れた場所に待たせていた他の騎士たちに手招きした。


 すると同年代と思しき三人の騎士たちが一人の少女を囲んで歩いてくる。


「この子は?」


 レオは明らかに修道騎士団たちに逮捕されたと思われる少女を見つめた。


 小柄な体躯をした、黒髪の少女である。


 どう見ても異国の人間だ。


 珍しい黒髪もそうだが、異国の衣服を着ていることが何よりの証だった。


 アレクサンドルは両頬を膨らませている異国の少女に顔を向ける。


「彼女の名前はリ・シェンファ。シン国の貿易商人である叔父の護衛役としてローレザンヌにやって来たらしいのですが」


 アレクサンドルは異国の少女を連行するに至った経緯を簡潔に話してくれた。


「彼女はローレザンヌに来たのは今日が初めてだったらしく、身元引受人である叔父さんと街中ではぐれてしまったそうです。そしてはぐれた叔父を探している最中に貴族の子息たちに目を付けられ、無理やりどこかへ連れさらわれそうになった。そこで彼女は自衛のために仕方なく素手で貴族の子息たちに暴行を加えてしまった……というのが彼女の口から聞いた事の顛末ですかね」


 レオは信じられないと言った顔でアレクサンドルに尋ねた。


「つまり、この少女がたった一人で三人の貴族たちを倒したと? しかも武器を使わずに素手だけで?」


「ええ、目撃者の話では確かに貴族の子息たちと彼女が口論していた光景を目撃していたそうですから間違いないです。何でも彼女は不思議な技を使って貴族の子息たち三人をあっという間に倒したとか」


 このとき、レオは目撃者が見たという不思議な技の正体に見当がついた。


 それはシェンファの格好とアレクサンドルの説明からして間違いないだろう。


 おそらく彼女が使った不思議な技とは……。


「あの、ちょっといいですか」


 突如、沈黙を保っていたシェンファが口を開いた。


「さっきから聞いていると私がまるで妖術師のような言い方をしていますけど、私は自分の身を守るために習い覚えた拳法の技を使っただけです。そもそも三人の男に女一人が教われた場合は立派に正当防衛が成立するでしょう? それとも、この国では女が複数の男に襲われても黙っていろというのですか?」


 流暢なフランベル語を話すシェンファに対して、レオは自分の考えが当たったことに一人頷いた。


 髪の色や格好からしてシェンファの祖国が、フランベル皇国から海を隔てた遠方に存在するシン国の生まれだと分かる。


 だとすれば護衛として渡来してきたシェンファは、当然の如く彼の地の伝統武術を学んでいることは容易に推察できた。


 さすがに修練した拳法の流派までは分からないが、仮にも素手で大人の男三人を一蹴するのだから相当の腕前なのだろう。


 矢継ぎ早に質問を浴びせてくるシェンファにアレクサンドルも渋面になった。


(なるほど、騎士団に連れてこられたのはそういうことか)


 ここでようやくレオはすべての事情が飲み込めた。


 ローレザンヌ全体の警護を任されている修道騎士団にしてみれば、たとえどんな経緯や理由があれ街中での喧嘩及び死闘を起こした人間は罰さなくてはならない。


 しかし、もしも今回の事件が裁判沙汰にでもなれば事件を未然に防げなかった修道騎士団の責任問題に発展する可能性も十分に有り得る。


 しかもシェンファが叩きのめした相手はあろうことか貴族の出自だ。


 か弱い異国の女性に手を出そうとする馬鹿な貴族の子息たちであろうとも、貴族を敵に回せばサン・ソルボンス修道院ならず修道騎士団に多額の寄付をしている他の貴族たちまで敵にする恐れがあった。


 だからこそ、アレクサンドルは加害者だけを修道院に連れてきたのだろう。


 今回の事件が裁判沙汰にまで発展しないよう彼女と貴族の間に示談を成立させるために。


 レオは納得するように嘆息すると、堂々と胸を張っているシェンファに話しかけた。


「え~と、君の名前はリ・シェンファだったね。とりあえず貴族たちとは別に君の怪我も治療するから施療院にまで来なさい」


「は? 私は別にどこも怪我をしていませんよ」


「いいや、君は貴族たちと同様かそれ以上の怪我を負っている。だから早急に治療を受ける必要があるんだ」


 そうはっきりと告げると、レオは事情が飲み込めずに困惑するシェンファを半ば強引に施療院へと連れて行こうとした。


 その際、レオはアレクサンドルに近寄ってこっそりと耳打ちする。


「これで一応、彼女は私の患者として扱える。本当に治療が必要な貴族たちとは別に仮の治療を施しておきますから後の処理は頼んだよ。それと診察結果は明日にでも誰かに取りに寄越してください。修道騎士団に責任が向かないよう上手く処置しておくから」


 アレクサンドルはレオの助け舟に喜んで飛び乗った。


「やはり彼女を修道院へ連れてきてよかった。是非よろしくお願いします。診察結果は話を通した同僚にでも取りに越させますので」


 深々と頭を下げてアレクサンドルは感謝の念を現すと、すぐに待機させていた三人の騎士たちとともに修道騎士団の寄宿舎へと足早に戻っていく。


「さてと」


 アレクサンドルたちの見送りを済ませたレオは、突然舞い込んできた仕事を済ませるためにシェンファを連れて施療院へと向かった。

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