第三十五話  レオ・メディチエールの表の顔 ⑭

 ジョルジュ・ロゼ。


 この名前を聞いた瞬間、レオは頭部を小型の破城槌で打ち砕かれたような衝撃を受けた。


(なぜだ? なぜ、貴方の要望に応えてきた俺を容赦なく切り捨てる!)


 信じたくなかった。


 故郷である海港都市コンサルティエで力量を見込まれ、教皇庁からの通達でローレザンヌに派遣が決まったジョルジュに付いてきて五年。


 修道騎士団員兼医者として働く間に〈黒獅子〉として異端者を次々と黄泉の国へ誘ってきた。


 それもすべてはジョルジュのため、強いてはクレスト教のために行ってきたことだ。


 本当ならば五年前に自分は一度死んだ身である。


 若気の至りや格闘試合で連戦連勝したことで変な方向に血が滾っていたのだろう。


 もしもジョルジュに助けて貰わなかったなら世の中の仕組みも理解しないまま、興行主が雇った暴力の熟達者たちに嬲り殺しにされていたに違いない。


 なればこそ、レオは命の恩人であるジョルジュの命令に忠実に従ってきた。


 無論、人殺しを快楽と感じたことは一度もない。


 警告のために侵入した豪商の屋敷で傭兵と渡り合ったときも、背筋に冷たい汗を掻きながら必死に闘ったものだ。


「もう一つ訊きたい。なぜ、ジョルジュ・ロゼは私の暗殺を命じた?」


 急に言葉遣いが変わったな、とマルクスは不敵に笑った。


「そんなこと決まってんだろ。巷を騒がせていた〈黒獅子〉の正体が修道騎士団員でしたなんて事実を秘匿するためさ」


 最後にマルクスは当たり前だろうがと語気を強めて付け加える。


 しかし、レオは心中で頭部を左右に振った。


(違う。おそらくジョルジュ・ロゼが自分に暗殺を指示した本当の理由は……)


 レオがジョルジュの真意を測りかけたとき、マルクスは片手で握っていた長剣を両手持ちに変化させる。


「さて、お喋りはこの辺にして与えられた仕事を果たすとするか」


 両手で長剣を握ったマルクスは、切っ先をレオに向けたまま正眼の構えを取る。


 罪人を収容する独房や雑居房はそれなりに広く造られており、複数の人間が一緒に押し込められていなければ狭さというものをあまり感じない。


 今もそうであった。


 重犯罪者を収容する奥の独房内には二人の人間しかおらず、一方は手枷を嵌められた状態でもう一方は切れ味抜群の長剣を握っている。


 傍目から見ると残虐な処刑以外の何物でもなかっただろう。


 どう考えたところで手枷を嵌められた状態の人間の方が圧倒的に不利である。


「悪く思うなよ。これも仕事なんでな」


 威嚇するように一歩踏み出すマルクス。そんなマルクスにレオは動揺せずに訊く。


「マルクス、私の暗殺を引き受ける代わりに何か見返りでも与えられましたか?」


「よく分かったな。そうだよ、てめえを殺せば俺は修道騎士団の隊長に昇格する。それだけじゃねえぞ。ジョルジュ大司教様は何とクラウディアを俺にくれるとよ」


「クラウディアを?」


「俺は別にあんなお高く止まった女に興味はないんだがな。まあ、ついでにくれるって言うなら貰っておくさ。あんな女でも性欲処理ぐらいなら役に立つだろうしよ」


 この瞬間、レオの全身から漂っていた気質が一変した。


 汚泥のような闘気が針のように細く尖った気に変化していく。


 それはレオの心情を如実に表していた気だった。


 たとえるなら波紋一つない湖畔に突如として嵐が吹き荒れた状況だろうか。


 途轍もない力によって膨大な水量を有する湖が荒ぶるような。


「へへへ、そう考えると興奮してくるな。嫌がる女を力尽くで物にする。これも男に生まれてきたからには実行してみたい欲望の一つ……ただし、俺がてめえの暗殺を請け負った本当の理由はな」


 だが穢れた悦に浸り始めたマルクスには、レオの全身から放射されている凄まじい闘気を感じる暇などなかったのだろう。


「真剣で人を斬ってみたかったからさ!」


 薄暗い独房の中、マルクスは対峙しているレオを殺そうと踏み込んでいく。


 攻撃部位は喉元で攻撃方法は刺突。


 さすがに修道騎士団の端くれであって、鉄格子と石壁に囲まれた独房内で効果的な攻撃を選択する頭は持ち合わせていたようだ。


 最も虎視眈々と攻撃の隙を窺っていたレオにはありがたい攻撃だった。


 身体を低く沈めた状態から踏み込みの突進力を利用する刺突は、攻撃部位さえ特定できたならば捌くのは意外にも簡単である。


 特にストラニアスの足元にも及ばない技量の低い相手が放つ刺突ならば尚更だった。


 吸い込まれるように喉元目掛けて飛んでくる刺突の軌道を冷静に読んだレオは、長剣の切っ先が喉に突き刺さる寸前に両手を素早く動かす。


 次の瞬間、レオは両手の掌で長剣の腹を挟み止めた。


 それだけではない。


 長剣の腹を挟み止めた刹那、身体を捻ってマルクスの手首に向かって蹴りを繰り出したのだ。


「ぐあぁっ!」


 一瞬で手首の骨を砕かれたマルクスは驚愕と苦痛を入り混じらせた叫声を上げた。


 蹴りを食らった左手首を右手で押さえ、苦悶の声を漏らしながら両膝を地面に落とす。


 逆にレオは中腰の姿勢のままマルクスを無表情で見下ろした。


 続いて両手の掌で挟み止めていた長剣をマルクスの手が届かない場所へ投げ捨てる。


「私の正体がバレた以上、本当の力を隠す必要はもうありませんからね」


 レオは一歩ずつ床を噛み締めるようにマルクスに近づき、身体を小刻みに震わせて顔中に脂汗を滲ませているマルクスを睥睨した。


「てめえ……生きてここから出られると思ってるのか? 今ではレオ・メディチエールが〈黒獅子〉だっていう事実は修道騎士団には周知の事実だ。このまま俺を殺して地下牢獄から出ようとしても無駄なんだよ」


 確かにマルクスの言うことも一理ある。


 ここでマルクスを殺して脱獄したとしても状況は変わらない。


 そればかりか修道騎士団の一人を殺して脱獄することで状況はさらに悪化するだろう。


「はははは……どのみち、てめえは終わりなんだ。せいぜい醜く足掻いて見せろ」


 勝ち誇ったように狂い笑うマルクスだったが、屠殺場の家畜を見るような眼差しを向けていたレオは含み笑いをする。


「何がおかしい。現状に絶望して狂ったか?」


「別に私は狂ったから笑ったのではありません。〝どう足掻いてもレオ・メディチエールの死が決定している〟という現状に喜んだだけです」


 頭上に疑問符を浮かべたマルクスに対して、レオは革ベルトのバックルを半回転させて蓋を開けた。


 空洞になっていたバックルの中には鋭く尖った鍼が何本も仕舞われていた。


「捕まった相手が自分の所属していた修道騎士団でよかった。相変わらず杜撰な身体検査に感謝しますよ。独房の鍵と手枷の鍵が同一の物だという事実を含めてね」


 そう言うとレオは手枷が嵌められたまま、バックルの中から一本の鍼を取り出した。


「自分で自分の死を喜ぶとはどういう意味だ? それに……その針は何だ?」


「これは裁縫用の〝針〟ではなく、シン国で医療用に使われる〝鍼〟です。異郷の地であるシン国にはフランベル人が思いも寄らぬ技術が多く存在している。芸術然り、武術然り、そして医術然りです」


「止めろ! それで俺に何をする気だ!」


 右手の人差し指と親指で摘んでいた鍼に鮮烈な恐怖感を抱いたマルクス。


 おそらく人間が本来持つという生存本能が警鐘を鳴らしているのだろう。


 尻餅を付いた状態で何歩分か後方に後ずさる。


「残念ですが貴方を逃がすつもりは毛頭ありません」


 直後、レオは素早い動作でマルクスの首筋に鍼を突き刺した。


 途端にマルクスは意識をなくして派手に後方へ倒れる。


「こ、殺したの?」


 白目を剥いて昏倒したマルクスを見てシェンファは訊いてきた。


「意識を奪っただけです。だが最終的には殺す必要があるでしょうね」


 抑揚を掻いた口調で答えると、レオはバックルの中から二本目の鍼を取り出した。


「シェンファ、この際だから聞きますけど君は生きてここから出たいですか?」


「え? どういうこと?」


「どういうことも何もマルクスの言葉を聞いていたでしょう。彼は私と貴方を殺すために一人でここにやってきたのです。たとえ彼をここで殺しても別の人間が来て結局は私も君も殺されることでしょう」


「そんなの絶対に嫌っ! 何で私が異国の地で殺されないといけないのよ!」


 シェンファの憤慨も十分に理解できる。


 叔父のために行動した彼女としては牢獄で殺される謂れは微塵もなかったに違いない。


「ならば私と取引しませんか? もしも私の取引に応じてくれるなら貴方をこの独房から外に出してあげましょう」


 一拍後、目線を泳がせていたシェンファは口を開いた。


「取引って具体的にどうするの? それにここからどうやって抜け出すのよ」


「簡単なことです。確か君の叔父上は貿易のためにローレザンヌを訪れた商人でしたね」


「そうだけど……よくそんなこと覚えていたわね」


「これでも医者の端くれです。今まで治療した患者のことはすべて覚えていますよ。それで取引というのはこういうことです――」


 その後、レオはシェンファに取引と独房から抜け出す秘策を訥々と話し始めた。

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